春の章・10 ヘビににらまれたカエル
コン、コン。
ドアがノックされた瞬間、ちらりとモニタの端に表示された時刻を盗み見る。
時刻は十六時十分前。初日の時と同じ時刻だ。
「……失礼します」
微かな軋みを上げてドアが開くと同時に、気弱そうな声が上がる。モニタから視線を外し、半開きのドアから姿を覗かせた少女と視線がぶつかった。
「こ、こんにちは」
途端、ぎくりと強張らせた少女(大学生を少女と呼ぶべきか否か悩むところであるが)は、文学部一年の山田ひなたである。
「ああ……こんにちは」
すでに笑顔で対応する努力を放棄した誉は、恐らく仏頂面、能面と呼ばれている顔のまま返事を返す。途端、気不味い沈黙が訪れるが、これではいかんだろうと思い直す。
「今日は……小原くんたちの手伝いをお願いしたい」
「は、はい!」
順也の名を出した途端、ひなたの表情に安堵が浮かんだ。
人任せにするなと、篠原の叱咤が聞こえてきそうだが、ようやく表情を和らげたひなたを見て、誉自身も安堵する。
こうも警戒心を露わにされると、自分自身も知らず知らずのうちに身構えてしまう。
ひなたに順也たちが作業をしている講義室を伝え、研究室から追いやった再び一人になった空間で、誉は知らず知らずのうちに安堵の息をついていた。
* * * * * *
彼女――山田ひなたが、再び研究室の扉を叩いたのは、二十時を少し超えた頃だった。
「し、失礼します!」
弱気なノックの音とは対照的に、妙に力んだ声だった。
「どうぞ」
明日の会議資料に落としていた視線を上げると、静かに開いたドアの向こうから、何やら思いつめた表情のひなたが姿を現した。
「あの、郵便物、無事集荷が完了しました……」
誉の顔を見た途端、ひなたは視線を泳がせると、またいつもの弱々しい声で告げる。
人の顔を見た途端、一体何なんだ。
ここまで極端な態度を示されると、正直へこむ。いくら相手がひと回り以上年下の学生であろうと、大して親しくもない相手だとしても、へこむものはへこむのだ。
「それで、あの、領収書を持ってきました」
まるでおもちゃの兵隊のようにぎくしゃくとした足取りで、誉の机に向かって歩き出した。誉も椅子から立ち上がると、自ら彼女の方へと歩み寄る。
一瞬、ひなたの表情が強張る。しかし今度は挑むように唇を引き結んだまま、手にした領収書を突き出した。
「これ、です」
まるで果たし状でも突き付けられたような気分になるが、誉は無言で小さな紙切れを受け取った。すぐさま回れ右をして誉の目の前を立ち去ると思いきや、まだ俯いたまま立ち尽くしていた。
今日の業務はもうおしまいだ。時間が過ぎているのだから、そのくらいわかりそうなものだが「もう帰ってもいい」の一言が無いと不安なのかもしれない。
「……もう遅いから気を付けて帰りなさい」
するとひなたは、おずおずと顔を上げ、思い詰めた面持ちで誉を見つめる。
「……あの!」
訴えるような必死な声と双眸。緊張しているのだろう。目に見えて、彼女の白い頬が紅潮していくのがわかる。
「飛沢先生……わたし、あの」
振り絞った声はか細いが、必死に何かを伝えようとしているのがわかる。まだ幼さを残した彼女だが、あまりにも真っ直ぐな瞳を向けられると、妙に落ち着かない気分になってくる。
「山田さん?」
「実はお話したいことが、ありまして」
「話?」
「は、はい」
こくりと頷いた途端、ひなたの顔や耳元が真っ赤に染まる。
「あ、あの……」
――一体なんだ、このシチュエーションは。
ひなたの緊張が伝染したかのように、誉まで緊張してきたようだ。心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。
これまでの人生で、このような状況で起こりうるシチュエーションを思い起こせば、ひとつしか思いつかない。
あれだ。口にするのも恥ずかしい……恋の告白というやつだ。
しかし、だ。山田ひなたとは、まだ片手で数えられるほどの回数しか顔を合わせていない。しかも彼女は、誉に対して恐怖に近い感情を抱いているのは明白だ。
このような経緯から、恋の告白に至るには相当無理がある。有り得ないと言ってもいい。
だが。
真っ赤な顔で痛々しい程緊張し、切なそうな瞳で見つめられては……他に何があるというのだろう。
いいや!
誉は力強く否定する。
そんな莫迦な話があるか。あるはずがないだろう、絶対に。
そうだそうだと言い聞かせると、誉は己を奮い立たせようと一歩踏み込んだ。
「山田さん。言いたいことがあるなら、遠慮なくいいなさい」
「すすすす、すみません!」
ひなたは一気に後ろへと飛び退った。まるで忍者を思わせるような身のこなしに、半ば感心をしてしまう。
「あの、やや、やっぱりお話はまた改めて……お時間取らせちゃってごめんなさい!」
ひなたは茹でダコのように真っ赤になりながら、よたよたとした足取りでドアへたどり着く。
「お先に、失礼します!」
音を立ててドアが閉まった途端、室内に沈黙が戻る。
「…………なんだ、今のは」
ぽつり、呟く。
誉の微かな呟きは、壁時計が秒針を刻む音に掻き消えた。
* * * * *
飛沢の研究室から飛び出した後、ひなたは化粧室へ逃げるように直行した。洗面台の鏡に映った自分の顔は、茹でたように真っ赤である。
蛇口を勢いよく捻ると、冷たい水で顔を洗った。化粧が落ちてしまうと、途中で気が付いたがマスカラもアイライナーもをウォータープルーフだ。ファンデーションは多少落ちても大した問題は無い。
「や、やっぱり言えなかったよ……」
化粧が落ちても大して変わり映えしない自分の顔を眺めながら、ひなたは情けなく眉を下げる。
来週は……ちゃんと言えるかな?
言ったら怒るだろうか。アルバイトをクビにされてしまうだろうか。今更になって、不安が降り積もってゆく。
まさか、こんな形で再会してしまうとは思わなかったけど。
大学関係者かしれないとは思っていたけれど、でもまさか先生で、こんな風に関わることになるとは思ってもみなかった。
普段はなかなか人の顔と名前を覚えないくせに、どうして一度会ったきりの飛沢を覚えているのだろう。恐らく、あの目力の強さだろうと思っている。
「ああ、もう!」
もう一人の自分が耳元で「黙っていればわからないよ」と囁く。でも黙っていたら、ずっと心苦しいままだ。それに、言ったところで飛沢の気分を悪くするだけかもしれない。単なる自己満足。でも。
「大丈夫! うん。たぶん、きっと」
ひなたは自らに言い聞かせるように呟くと、手のひらで自分の両頬をぱちりと叩いた。
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