夏の章・10 夏の夕暮れに、二人
どうも、この状況は落ち着かない。
ひなたに荷物を持たせ、自分は手ぶらでいるせいなのか。はたまた、彼女とこうして肩を並べて歩いているせいなのか。
キャンパスを抜けるまでは、この状況が他人の目にはどう映っているのか気にしていたが、本人が気にするほど人は気にしないようだ。
そもそも、誉とひなたが並んで歩いているところで、何かを勘ぐるような雰囲気はまるで無い。せいぜい怪我をした誉の荷物を、ひなたが代わりに持ってやっていると思われるくらいであろう。まあ、まったくその通りなのではあるが。
ちらりと、肩ごしにひなたを見下ろす。彼女は今の状況に大して不満も無さそうに自分の隣を歩いているのが、不思議でならなかった。
やっと陽が沈みかけてきたが、まだアスファルトから立ち昇る熱が残っている。とはいえ、今日は幾分風があるようだ。ふわりと暑さを残した風はお世辞にも心地いいとは言えないが、無いよりはましである。
顎を伝う汗を拭いつつ、ひなたの様子を盗み見る。以前よりも少し伸びた栗色の髪が、さらりと風に揺れる。街灯に浮かび上がる彼女の横顔は、入学した当時よりも少し大人びて見える気がした。
ほんの二ヶ月程度で変わるものだな、と不思議な思いに捕らわれる。肩に掛かるくらい長くなった髪のせいか、もしくは手慣れてきた化粧のせいか。
ふと、誉の視線に気づいたかのように、ひなたがこちらを見上げる。だが、まさか誉と目が合うとは思っていなかったらしく、一瞬驚いたように瞠目すると、慌てて目を背けてしまう。
「……今日は、荷物持ちをさせてしまって申し訳ない」
何か言わなければ不自然だ、と思って口走ってしまったものの、唐突だったのかもしれない。ひなたは一瞬きょとんとなるが、すぐに大きく頭を振った。
「いいえ。これまで先生には失礼なことばかりだったので、少しはお役に立てるようなことができればなって、ずっと思っていたんです……なんて、荷物持ったくらいで何言ってるんでしょうね、わたし」
恥じ入るように苦笑すると、すみませんと頭を下げる。
「いや。そんなことは」
知らなかった。ひなたがそんな風に思っていたとは。
別に気にしてもいないし、そんなに失礼なことばかりされたような記憶もない。
こういう時、何かを言うべきであろう。だが、何をどう言えばいいのかがわからない。
「……………………」
だが、こうして二人で話すという機会は滅多にないだろう。誉とて、いつまでもひなたに引け目を感じていて欲しくない。だったら、言わないといけないだろう。
「山田さんは、いつも真面目に頑張っていてくれるから、もう十分に助かっている」
「本当、ですか?」
誉が大きく頷いてみせると、彼女は驚いたように、少し嬉しそうに目を細める。
「いいえ……あの、その…………よかったです」
少しは伝わっただろうか。彼女の控えめな笑顔が見れたことに安堵を覚える。
束の間流れた沈黙の後、ひなたがぽそりと呟いた。
「……先生は最近ひとり暮らしを始めたと、篠原さんから伺いましたが、元々はどちらに住んでいたんですか?」
また篠原か。余計なことを。
篠原への軽い苛立ちを、溜め息でやり過ごすと、ここから三十分程離れた駅を告げる。
「思ってたより近いですね」
「ああ、確かに」
ならば、わざわざ引っ越しなどしなくてもと思うのだろう。確かに実家から通えない距離ではない。現に、この春まで実家から通っていたのだから。
「まあ……そろそろ実家から出るのもいいかと思ったんだ」
父親が再婚をするから家を出たんだ、とはさすがに言いづらい。しかし、いつまでも実家に居座っているのもどうかと思っていたのも事実だ。
「じゃあ、家事とかも自分でちゃんとやってるんですか?」
「ひと通りは」
「じゃあ、お料理も?」
「簡単なものなら」
「たとえば?」
いつになく積極的に問い掛けてくるひなたに戸惑いつつ、よく作るメニューである適当な炒飯、適当な味噌汁をいくつか上げると。
「先生、すごいです!」
ひなたは感嘆の声を上げると、眩しいものを見るように誉を見上げる。少々大袈裟ではないかと思うが、彼女にとってはすごいことであるらしい。
父と二人の生活になってから、家事は必須であった。父と二人、試行錯誤しながら身に付けた経緯があり、ひとり暮らしを始めてから身に付けたわけではない。だか、そんなことまで彼女に話す必要はない。この話をすると、必然的に母を早く亡くした話に繋がってしまう。
これまでの経験から、家庭の事情には触れない方がいいとの判断であった。
「……あるものを適当に刻んで冷や飯と一緒に炒めるだけだ。味噌汁だって同じようなものだ。野菜炒めも同じようなものだ」
「でも、わたし、そんなに色々作れません」
「私が作る料理は全部適当だ。大したものじゃない」
「でも」
ひなたは恥じ入るように肩を竦ませる。な
「今だにわたし……カレーとシチューしか作れません」
「それだけでも作れるならいいのではないかな」
「いえ、あの……そうですか?」
照れたようにはにかむ彼女の気配を感じながら、ふとカレーとシチューの類似性に気がついてしまう。
ああ、そうか。
多少の違いはあるものの、この二つのメニューの具材はほぼ同じものだ。後は、カレールウを入れるか、シチュールウを入れるか。
「……なるほど」
口元が緩む。ここで笑うのは彼女に失礼だ。どうにか堪えるものの、ひなたに気づかれてしまったようだ。
「先生、笑わないでください」
ひなたは困ったように眉をひそめる。しかし、彼女が必死になればなるほど余計に笑いがこみ上げてきてしまう。
「ふ……」
堪えきれず、つい短い笑い声を漏らしてしまう。
「でも、美味しいって評判なんですよ。うちの中では」
「そうか、すごいな」
どうしても笑いが滲んでしまうのが隠しきれない。
「本当、なんですよ」
「信じていないわけじゃない、ただ」
「ただ?」
困っている様子が、可愛くて、つい。
不意に頭に浮かんだ言葉に、誉は驚愕する。驚愕のあまり、何故かむせてしまう。
「だ、大丈夫ですか?」
突然咳き込んだ誉に、ひなたは驚いたように誉の顔を覗き込む。
「ああ……すまない。大丈夫だ」
何を考えているんだ、俺は!
恐らく赤いだろう顔を見られたくなくて背ける。いや、そんなことしなくても、この暗がりなら気付きやしない。
幸い、咳をしているから背を向けたと思ってもらえるよう、わざと咳を追加する。
「先生、風邪ですか?」
「いや、そういうわけではないんだ」
ただ、己の思考がどうかしていて驚いただけだ。などと、言えるはずもなく。
「とにかく、ただむせただけだ」
「そうですか……」
すると彼女は、何かを決意したかのように、きりりと顔を引き締める。
「あの! ここの道を曲がると、すぐわたしのうちなんです。ちょっと立ち寄ってもいいですか?」
「ああ、もちろん」
つい一昨日行ったばかりだから知っているとは、言わないでおこう。酔った自分が道案内をしていたことを、彼女はまるで覚えていないらしい。
意外にも、彼女の住まいが近所であったことに驚いた。休日にバッタリ会ったことを考えれば、納得ではあるのだが。
「こっちです」
率先して歩くひなたに付き従うように住宅街の角を曲がる。数軒先に大きな向日葵が庭先から覗く家を見つける。
ひなたを送ってった時も、日が暮れた後だから家の外観の印象は薄い。ただ、ほの明るい外灯に浮かび上が向日葵が印象的だったのを覚えている。
「立派な向日葵だな」
陽の下で見たら、また印象が違うのだろうなと思いながら呟くと、意外そうにひなたが訊ねる。
「あの……花とか好きなんですか?」
彼女の反応に、何かおかしな発言をしてしまっただろうかと不安を覚える。
「嫌いではない。きれいだと思うし、よく向日葵は食べていたな」
「向日葵って食べられるんですか?」
「ああ、種を。枯れたやつをほじくってだな……」
誉がそんな子供時代があったことが意外だったのだろう。反応に困っているひなたを目にして、仕様もないことを口走ったことを自覚する。
「まあ、子供の頃の話だ。もう時効だろう」
「はい……」
せっかく和やかな空気だったというのに、自ら微妙なものにしてしまった。会話力の無さに落胆していると、ひなたが不意に足を止めた。
「あの、先生。ここで、少し待っててもらえますか?」
ひなたは自宅を指差して訊ねる。
「ああ……」
「ちょっと待っててくださいね」
ひなたは小走りで自宅に向かうと、すばやくバッグから鍵を取り出してドアを開く。
「ただいま」
開いたドアの中から、おかえりと返す青年の声が聞こえる。弟であることは、前回行った時に会ったから知っている。
明かりの零れるドアの向こうへと消えていくひなたの姿を、誉はぼんやりと眺めていた。
「…………」
このまま帰ってしまおうとも思ったが、今更になっ彼女に荷物を持たせてたままだったことに気が付いた。大人しく彼女が出てくるのを待つしかない。
彼女が戻ってきたら、荷物を引き取って帰ろう。そもそも荷物も持てないような怪我ではないし、せっかく自宅に着いたというのに彼女に付き添ってもらうのは忍びない。
そう決意を固めて五分くらい待っただろうか。玄関のドアが元気よく開いた。
「先生、お待たせしました!」
いつもより三割増くらいテンションが高い気がする。張り切った様子で登場したひなたは、当然のように誉の隣りにやってきた。
「では行きましょう……先生?」
もうここまでで十分だから、と。
ここから一人で帰るから平気だ、と。
言おうと用意していたはずの言葉が、何故か出てこない。言わなくてはと思っているのに、心のどこかでは言いたくないと思っている自分に、今更ながら気がついてしまった。
「先生?」
「……行こうか」
一瞬心を掠めた思いに驚愕したが、そこは普段から鍛え上げたポーカーフェイス。幸い驚愕の表情は表に出ることはなかったが、内心血の気が引く思いであった。
もう少し、彼女といたい。
自分の心なのに、自分の心に湧きあがった思いを、誉自身が信じられなかった。
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