夏の章・09 寄る年波には勝てません

「先生、その腕……どうされたんですか?」

 文学部棟へ足を踏み入れた途端、パート職員の大原奈美と鉢合わせてしまった。

 普段よりも早く家を出たつもりだったが、案外朝早くから大学には人がいるものらしい。

 やはり、三角巾など、取ってしまえばよかった……。

 白い大きな三角巾で腕を吊るしていれば、嫌でも目立ってしまう。治療はしてもらったものの、まだ肩は痛む。まだ歩く振動だけでも痛むものだから、せめて大学に着くまでと思っていたのが間違いだったのかもしれない。

「もしかして骨折ですか?」

 大原は誉の包帯で厚くなった肩と、三角巾で吊られた腕を見つめる。

「いいえ、ちょっと」

 大原の視線にたじろぐように、誉はじりじりと後退する。

 実を言うと、あまり怪我の話題には触れて欲しくなかった。普段から動き回ることもないのだから、三角巾さえなければ、気がつく者もいないだろうと思っていた。

 適当に濁してしまおうかと思っていたが、大原はそれを許してはくれなかった。

「ちょっとって? 無理したら治るものも、なかなか治らなくなってしまいますよ。わたしの息子も体育の時間に骨折した時は……」

「いえ! 骨折ではないので」

「でもその肩は」

「脱臼です」

「脱臼……」

 大原は痛々しげに目を細める。

「ですから、大したことはありません」

 この大げさな三角巾を外してしまおうと、首の後ろの結び目を解こうと手を伸ばす。しかし、大原は誉のその手をぴしゃりと叩く。

「先生ダメですよ」

 まるで小さな子供を叱るように、誉を軽く睨む。

「お医者さんが良いと言うまで、ちゃんと固定しておかなくちゃ。また脱臼しちゃって余計治りにくくなってしまうんですから」

「……わかりました」

 大原は少々お節介なところもあるが、嫌な感じはしない。母親のお小言のようだと、篠原がこぼしていたが、確かにその表現は適切である。

 まるで叱られた子供のようだなと思いつつ、誉はこっそりと苦笑した。


 今日一日のうちに、何度同じことを聞かれただろう?

 やはり白い三角巾は目立つらしく、滅多に話もしたことがない相手からも「どうされたんですか?」と聞かれるからたまったものではない。

 だから、篠原が研究室に顔を出した時は、またかと思い、げんなりとした。

「誉くん、山田さんに不埒な真似でもしたの?」

 篠原の第一声を理解するまで、数秒の時間を要した。

「…………どういう意味だ」

 むっつりと答えると、篠原は下世話な笑いを浮かべながらにじり寄る。

「どういう意味って、わかっているくせに」

「…………」

 篠原を睨みつけると、篠原は「ぶっ」と唐突に小さく吹き出した。

「冗談だよ、冗談」

「……………………」

 またもや、この男にからかわれていたらしい。苦虫を噛み潰したようなしかめっ面になった誉を見て、篠原は諭すように語る。

「別にやましいことがなければ、怒る必要はないでしょうが。いちいちムキになるっていうのは、不埒な真似をしちゃいましたって宣言しているようなものじゃないの?」

「そんな真似などするわけがないだろう」

 無防備過ぎるひなたに振り回され、時折理性を試されるような態度を取られたり。まったく、人の気も知らないで勝手なことばかりで勘弁して欲しい。

 喉元までせり上がってきた言葉を飲み込むと、かわりに長いため息をついた。

「……椅子から転げ落ちそうになったところを支えようとしたら、こうなった」

「どうして椅子から転げ落ちそうになったのか……それはさておき」

 誉の白い三角巾を気の毒そうに眺める。

「誉くん、軟弱過ぎ。身体鍛えなよ」

「…………」

 労わりの言葉ではなく、それを言うか。

 文句のひとつも言いたいところだが、篠原の言い分ももっともではある。小柄な女性ひとり受け止めたくらいで脱臼など、男としては少々情けない。

「そうだな」

 眉間に皺を寄せると、難しい面持ちで頷いた。

「……完治したら、ジムでも通うか」

「お、いつになく前向きな発言」

「後ろ向きな発言をしていた覚えはないが」

「まあまあ」

 誤魔化すように、誉の背中をぽんと叩く。

「じゃあ、俺が入会しているジムはどう? 会員の紹介なら、入会費半額になるし」

「考えておく」

「今度パンフ持ってくるよ」

 うむ、と無言で頷いた時だった。

 ――コンコン。

 研究室のドアをノックする音が、微かに響く。

「失礼、します」

 ドアの向こうから聞こえるか細い声。この声は……山田ひなただ。

 誉と篠原は、思わず顔を見合わせた。


* * * *


 恐る恐るドアの向こうから姿を現したひなたは、誉と篠原にぺこりと頭を下げる。

「あの……こんにちは」

 ぎこちなくお辞儀をするが、目線を下に向けたまま、こちらを見ようともしない。

「どうしたの? この間はあれから大丈夫だった?」

「え?」

 篠原の問いに、ひなたは疑問符を浮かべる。

「ほら土曜日、合コンでベロベロだったじゃない。飛沢先生は送り狼にならなかった?」

「篠原」

 何て言い草だ。篠原を牽制するように睨みつけるが、篠原はどこ吹く風。「冗談だってば」と笑って流す。

「でも、ちょうど俺らが居合わせていてよかったよ。ダメだよ、これからは気を付けないと」

「あの……篠原さん、わたし」

 黙って篠原の話を聞いていたひなたが、恐る恐る口を開く。

「土曜日、篠原さんもあそこに……?」

「うん。飛沢先生と一緒に飲んでたんだ」

 途端、ひなたの顔がみるみる真っ赤に染まる。自分でも自覚したのだろう、赤い頬を隠すかのように両手で頬を覆う。

「あ、あの。土曜日の、ことですが、実は、あまり良く覚えていなくて」

 覚えていないのか。

 しかしまあ、案の定というべきだろう。確かに彼女は随分と酔っていた。記憶が多少飛んでいても致し方あるまい。ひなたは気の毒なくらい赤い顔をくしゃりと歪める。

「でも、さっき小原くんに会いまして、色々説明をしてもらいまして……あの、皆さんに大変ご迷惑をかけてしまって、申し訳ありませんでした」

 身体を二つに折るように、深々と頭を下げる。

「山田さん、顔を上げて。ほら、気にしない気にしない」

 篠原は宥めるように、穏やかな声を掛ける。

「若い頃は誰だってやりがちなことなんだし、大事には至らなかったわけだしさ。でも今後は気を付けようね」

「……はい」

 もっともらしいことを言ってはいるが、彼女が参加していた合コンに、ちゃっかり飛び入り参加していたのだ。この男は。言ってやりたいところだが、口にしないのは武士の情け。とはいえ、誉とて人のことは言えない。実は色々と世話を焼いてくれたのは順也であり、誉は家まで送り届けただけだ。

 篠原に対する様々な不満を飲み下すと、小さく咳払いをする。

「お礼を言うなら、私たちよりも小原くんに言いなさい」

 誉の素っ気ない物言いに、ひなたは怯んだように視線を足元に落とした。

「わかりました……あの、でも、先生が家まで送ってくれたって弟が教えてくれて…………」

 さらりと頬に掛かる髪の隙間から、ひなたの今にも泣き出しそうな顔が垣間見える。たちまち罪悪感が胸の中に立ち込めるものの、今更フォローの言葉が見つからない。

「だから、あの……ありがとうございました」

「……いや」

 決まり悪い気持ちで、頷くことしかできない己が情けなくて堪らない。結局何も言い出せず、堅苦しい沈黙が訪れる。

「ええと、そろそろ僕はお暇させて貰おうかな」

 沈黙に耐え切れなくなったのだろう。篠原が退場を宣言すると、ひなたは我に返ったように顔を上げた。

「あ、ごめんなさい。わたしも長居してしまって」

 ようやく真っ直ぐに顔を上げたひなたの視界に、普段とは違う誉の姿が飛び込んできた。

「!」

 驚いたように瞠目する。誉の三角巾で腕を吊った姿に、今更気が付いたようだ。

「先生、その怪我は」

 真っ赤だったひなたの顔の血の気が、見る間に引いていく。

「うん脱臼だって」

 誉に代わって、篠原がさらりと答える。

「脱臼って……あの、どうして」

 紙のように白い顔で、ひなたはおどおどと訊ねる。

「ああ、それはね」

 誉がすかさず「何も言うな」と囁くものの、篠原は敢えて知らん顔で話を続ける。

「日頃の運動不足がたたったんでしょ。山田さんも、今から気をつけておいた方がいいよ。こういう軟弱な中年にならないように」

「……おい」

 ひなたに余計な気遣いをさせないように言っているのだろうが、これは誉に対して随分な言いようだ。

「自分のことを棚にあげるな」

 誉が中年なら、同い年の篠原だって中年といえよう。しかし篠原はわざとらしく首を傾げると。

「誉くんと違って僕は、肉体年齢が若いものでね」

「精神年齢の間違いじゃないのか」

「うわ、ひどー。これが教鞭取る人間の台詞とは思えないね。ひどいと思わない? 山田さん?」

 ひなたを仲間に引き込もうとするものの、どうやら彼女の耳に入っていなかったらしい。篠原に話を振られたものの、まったく反応がない。

「山田さん?」

 今度は誉が声を掛けると、真っ青な顔で誉を見つめた。

「わたしの……せいですか? その怪我」

「いや違う」

 即座に否定したが、簡単に信じようとはしなかった。

「本当ですか?」

「嘘をついてどうする」

「でも」

「棚から落ちてきた荷物を受け止めたらこうなった」

 多少の嘘は交じっているが、大まかな流れは間違っていない。すると彼女の顔から、疑いの色が薄れてきた。

「荷物、ですか?」

「ああ」

 嘘を重ねるのは正直得意ではない。後ろめたさ故に、冷や汗が滲んでくる。

 これ以上聞かれたら、あとはどう誤魔化せばいいだろう? そんな時、篠原が救いの手を差し伸べる。

「そうそう、飛沢先生、この春引越ししたばかりでさ、まだ荷物が片付いていないんだよね」

「そうなんですか……」

 半信半疑な様子もありつつも、どこか安堵したような表情が浮かぶ。

 どうやらこんな猿芝居でも、通用したらしい。ほっと胸を撫で下ろしつつ、さっきから感じる視線に注意を向ける。すると、案の定、篠原が物言いたげな笑みを浮かべていた。

 奴が何を言いたいのか、大体はわかる。「無理しちゃって」や「柄にもなくカッコつけちゃって」のような類であろう。恐らく。

 もちろん、多少は無理はしているし、格好悪いところを見せたくないというプライドもある。当然、本当のことを話せば彼女が気に病んでしまうかもしれないという危惧もあるが、やはり無様な自分を知られたくないという方が大きいのかもしれない。

 ふと窓の外を見ると、すでに陽は傾き始め、茜色の夕陽が窓ガラスを朱く染めていた。壁に掛かった時計は、七時を指し示している。

「山田さん、そろそろ帰りなさい」

「え、あの……。はい」

 何か言いたげな眼差しを向けるが、唇をきゅっと引き結ぶ。

「……色々ご面倒掛けて、申し訳ございませんでした」

 再び深いお辞儀をすると、ゆるゆると背を向ける。知らず知らずに安堵の息を吐き出した。

「山田さん、お願いがあるんだけど」

 篠原が、背を向けた彼女を呼び止める。

「はい?」

 篠原の呼び掛けに、ひなたは弾かれたように振り返る。

「悪いけど、飛沢先生、家に送ってやってくれない? ほら、先生腕がこんなだから、自分のバッグを持つのも大変なんだって」

 この男は……また勝手なことを言い出した。

「これくらい怪我のうちに入らん」

 声高らかに宣言するが、篠原の耳には一切入っていないらしい。

「山田さん、先生は意地張っているだけだから。よろしく頼んだよ」

 誉を余所に、ひなたと話を進めているではないか。

「山田さん。こんな奴の話になど、耳を貸す必要など無い」

「……わかりました!」

 ひなたは力強く頷くと、両手を堅く握り締めた。

「わたし、先生を無事お家まで送らせていただきます!」


 わかってくれたのは、誉の言葉ではなく、篠原の頼みの方だった。

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