夏の章・08 陽気な彼女

 たとえば……?

 その後に彼女が紡ぐ言葉を、固唾を飲んで待ち構えている自分に気がつく。

 何を考えているんだ、俺は。

 我に返ると、彼女の瞳に映る自分の姿が見えそうなほど、互いの距離が近い。

「たとえば、だ」

 視線を断ち切るように、誉はさりげなく眼鏡を掛け直す。

「小原くんのような青年だったらどうだろう?」

 咄嗟に思い浮かんだ名前を告げる。

「小原くん……ですか」

 ひなたは少し考えてるように目を細めると、思案するように呟いた。

「気さくで、優しくて、カッコよくて、良い人ですよね……」

 まったくその通りだ。男の誉でも、順也はいい青年だと思うほどだ。なのに彼女の口から聞くと、気持ちが凹むというか、胸がもやっとするような……つい最近、同じような気分になったような気もする。

「先生も、意外と優しいですよね」

「私が?」

 思いもよらない言葉に固まる誉を見て、ふふふと笑う。

「最初、ものすごく怖かったんです……本当に怖くて、先生のところでバイトを始めたことをちょっと後悔したりもしました」

 ひなたが何気なく告げた言葉は、ハンマーで頭を殴られたようなショックを誉に与えた。薄々は感じていたが、まさか、そこまで怯えていたとは。

 最初のひなたの態度を思い起こしてみると、顔を合わせるたびにビクビクと怯えていた。当時も怖がられているという自覚もあったが、まさかそこまでとは思いもしなかった。

 ……それなのに、俺は。

 彼女が自分に思いを寄せているのではないかと、とんでもない勘違いをしていたとは。羞恥のあまり体温が急上昇する。頭を抱えて叫びたいところだが、ここは居酒屋、目の前にはひなたがいる。今更酔いが回ってきたかのように、ぐらぐらとしてきた頭を押さえることしかできなかった。

 一方ひなたは、誉が相当なショックを受けたとは夢にも思っていないようだ。にこにことしながら話を続ける。

「チビ太も懐いていましたし、先生って意外と動物に優しいんだなって思いました」

 意外と、か。しかも、二回も繰り返しされた。しかも優しいさの基準は、犬のチビ太が好くか好かないかとは。

「……何故か動物には好かれるタチのようでね」 

「意外でびっくりしました」

 本日三回目の「意外」をいただきました。

 やるせない気持ちだ。ついて出そうな溜め息を堪えるのにやっとで、突然ひなたの手が延びてきたことに気付かなかった。

「えい」

 誉の眼鏡を奪い取る。まさかのひなたの行動に呆然となるが、すぐに我に返る。

「返しなさい」

 手を差し出すが、ひなたはくすくすと笑いながら、奪った眼鏡を掛けてしまう。

「うわ、この眼鏡……度がきつい」

 掛けた途端、ひなたは顔を顰める。

 それもそのはず。誉の視力は0.1以下。普段裸眼で過ごしているひなたには、相当キツイはずだ。

「……返しなさい」

 一体どの辺りから、泣き上戸から陽気モードへと切り替わったのか。ひなたから眼鏡を取り返そうするが、取られてたまるかと、ひなたはイヤイヤと頭を振って誉の手から逃れようとする。

「山田さん。いい加減に……」

「先生って眼鏡していない方が……ひゃっ」

 ふざけていたせいだろう。バランスを崩したひなたの身体が、椅子からずり落ちる。

「!」

 眼鏡していない方が何だ?!

 反射的に手を伸ばす。中腰の姿勢から、滑り込むように彼女の身体を受け止めるが。

「っ……!」

 おかしな姿勢で受け止めたせいだろう、右肩に激痛が走る。辛うじてひなたを椅子に戻すと、肩を押さえてうずくまる。

「せ、先生?!」

 苦痛に顔を歪める誉の様子に、ひなたの酔いも吹き飛んだようだ。

「大丈夫ですか!?」

 ひなたは、どうしたらいいのかわからない様子でおろおろとする。

「どうしよう……病院、救急車……誰か呼んだ方が」

「……大丈夫だ」

 実はまったく大丈夫ではない。あまりの痛みに脂汗が滲んでくる。だが、必要以上にひなたを不安にさせないように、柄にもない笑顔を浮かべる。

「山田さん」

「はい」

 答える声がわずかに震える。緊張で強ばった彼女の背中を、安心させるようにポンと叩く。

「そんなに元気なら、もう帰ろうか」

「……はい」

 泣き出しそうなひなたから、そっと眼鏡を外す。やっと自分の下へ戻ってきた眼鏡は、フレームが少々歪んでいた。


 やせ我慢を総動員して、ひなたの前では平気な顔をしていたものの、彼女を無事自宅へ送り届けた直後、もう我慢は限界だった。

 翌日まで我慢とも思ったが、これはとても我慢ができるレベルではなかった。どうにかこうにか、夜間受付をしている病院へ飛び込んだ結果、肩関節亜脱臼、全治約三週間と診断されたのだった。


* * * * *


 朝起きたら、昨日のままの格好でベッドの中にいた。

「あれ……?」

 おかしいな。どうしてわたし、こんな格好で寝ちゃったんだろう……。

 ひなたは、ぼんやりとした頭で考える。しかも、このTシャツは自分のものではない。誰かのを借りたのは覚えているが、どうして借りたのか、いまいち思い出せない。

「んんっ」

 ひなたは、大きく伸びをして、勢い良く起き上がろうとした……が、やけに身体が重い。ついでに少しだけ頭も痛い。ついでに喉はカラカラだった。

 起き上がるのを諦めて、手探りで枕元の目覚まし時計を探る。ようやく目覚まし時計を探し当て、盤面を覗き込む。

「……九時? え、ええっ……!」

 一瞬にして、寝惚けた頭がクリアになる。ついでに頭痛まで吹き飛んでしまった。

 ひなたは、目覚まし時計を掴んだまま、ベッドから跳ね起きた。

「た、た、た、大変!」

 今日は一時限目から授業があるのに! しかも必修科目が!

「もお?! お母さん、どうして起こしてくれないのよお」

 思わず頭を掻き毟る。そうだ。昨日から両親は二泊三日の温泉旅行だったと思い出す。

「ええと、ああ、もう、どうしよう……」

 起き上がったものの、何をどうすればいいのかわからず、部屋の中を右往左往する。右往左往しながらも、必死に支度の手順を考える。

 ええと……まず、服! 着替えなくちゃ!

 下着を替え、キャミソールを着ながらクローゼットを開いて、目に付いたコットンワンピースを引っ張り出す。

 あとは……と、クローゼットの内側の鏡に映った姿を見て、ひなたは悲鳴を上げる。

「髪! ぼさぼさ!」

 服よりも、こっちをどうにかしなくちゃ!

 転げるように階段を下り、洗面所へと飛び込む。寝癖直しのスプレーを懸命に拭き掛けていると、背後からのっそりした声が呼び掛けてきた。

「ひな……出掛けるの?」

 洗面所に顔を出したのは、弟の祥太郎だった。まだ眠たげな目で、大きな欠伸をする。

「遅刻! 遅刻だってば! 祥くんこそ、何その格好!」

 祥太郎は今起きたばかりらしく、パジャマがわりのスウェット姿のままで、頭も寝癖だらけだ。ぼさぼさの髪を、無造作に掻き毟ると、また欠伸をした。

「もう九時まわってるのに! 大学遅刻しちゃうよ!」

 祥太郎を急かしながら、ドライヤーのスイッチを入れる。途端、唸るような音と共に、熱風が吹きつける。

「だって…………」

 祥太郎が何かを言っているが、ドライヤーの音で聞えない。

「え? なに?」

 せわしくドライヤーとブラシを動かしながら聞き返す。すると祥太郎は、うんざりしたような顔でため息を吐いてから、大きく深呼吸した。

「今日は日曜日! それに、ひなは夏休み!」

 メガホンのように、両手を口元にあて、あらん限りの大声を上げる。

 これだけ大きな声で言われれば、さすがにひなたの耳にも届いた。

「そうだった?!」

「昨日はアド街観て、さっきまで仮面ライダー観てたんだから間違いない」

 自信満々にきっぱりと告げる。テレビ番組を基準にするのもどうかと思うが、祥太郎が告げる曜日が正しいことは確かである。それに夏休みだったら、曜日は関係ない。

「なーんだ……」

 ひなたはドライヤーの電源を切ると、気が抜けたように、へなへなとしゃがみ込んだ。

「あーもう、焦って損した」

「それよりさあ」

 祥太郎もその場にしゃがみ込むと声を潜める。

「昨日の男って、ひなの彼氏?」

「へ?」

 彼氏なんて、生まれてこのかた持ったことなど一度もない。きょとんと首を傾げると、祥太郎はニヤリとほくそ笑む。

「昨日ひなを送ってきた男だよ。ちょっと年上っぽいスーツの。合コンで捕まえたんだ?」

 年上? スーツ?

 昨日の曖昧な記憶をたどる。

 合コンのメンバーに、スーツ姿の人はいなかったはずだ。全員年上であることは間違いないけれど。後半の方はかなり酔っていたので、よく思い出せない。

「ええと……どんな感じの人だった?」

「背は俺と同じくらいだったかな」

 祥太郎と同じくらいの背丈ということは、そこそこ長身だ。

「あとは……銀縁眼鏡で、ちょっと無愛想な感じ」

 銀縁眼鏡と無愛想。このキーワードが当てはまる人物は、ただ一人しか思いつかない。

 ま、まさか……飛沢先生?

 否定しつつも、なんとなく飛沢と会ったような気がしなくもない。でも、飛沢に家まで送ってもらういわれはない。

 必死にぐるぐると考えているひなたの様子に、祥太郎は小さく吹き出した。

「冗談だよ、冗談。ひなの大学の先生だって。たまたま居酒屋で会ったから送ってくれたんだってさ」

「……そう、なの?」

「うん。ええと、なんとか沢って言っていたかな」

「もしかして……とびさわ、じゃない?」

「あー、そんな名前だったかもしれない」

 やっぱり飛沢先生だったんだ!

 会ったような気がする、ではなく、会ったのだ。実際に。飛沢と。

 嘘! どこで? どうして?

 軽く混乱状態に陥っているひなたに、祥太郎がとどめを刺した。

「その人、ひなのゲロまみれの服も持ってきてくれたよ」

「ゲロまみれって……」

 ……わたし吐いちゃったの?!

 どうりで見慣れないTシャツを着ていたのかと、納得しつつも認めたくない事実だ。

「そこにあるから、後で自分で洗っておけよ」

 祥太郎が指を差した先に、ぽつんと片隅に置かれたビニル袋の塊を見つける。

「…………あ」

 そうだ、思い出した。着ていたTシャツ、小原くんに借りたんだった。それで、それで……。

 吐瀉物まみれの服をきっかけに、芋蔓式に昨日の記憶が蘇ってくる。

 合コンで隣の席だった人に、次々とお酒を勧められて、気持ちが悪くなってトイレに行って。それで……。

 ――ああ……こんばんは。

 居酒屋のトイレの前だというのに、いつも研究室に訪れた時みたいに律儀に挨拶をするなんて。ずっと緊張していたから、たとえ相手が飛沢と言えども、見慣れた顔を見た途端、安心してしまったのかもしれない。

 気が緩んだ途端、気持ちが悪くなって、吐いてしまったところまで思い出した。しかし、その後が思い出せない。

「祥くん……その人、何か言ってた?」

 恐る恐る訊ねると、祥太郎は軽く首を傾げる。

「さあ特には何も」

「そう……」

 迷惑とか、掛けてないよね?

 酔っ払って、家まで送らせた時点で、十分に迷惑を掛けているのはわかっている。他に失礼な発言をしたり、失礼な行動を取ったり、していないとは思うけれど、本当にしていないかは覚えていないからわからない。


 どうか、どうか、先生にヘンなことをしていませんように……!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る