夏の章・07 語り上戸な彼女
ひなたが目を覚ましたようだ。
「具合は?」
慌てて腰を上げると、ひなたの元へと近寄った。
「……さっきより、平気です」
「小原くんが水を持ってきてくれたが、飲むか?」
「いただきます」
そう答えると、ひなたはのろのろと身体を起こした。
顔色はまるで紙のように白く、表情も疲れきったように気怠い。ようやく起き上がったものの、姿勢を保つのも難しいようだ。ぐったりと椅子の背もたれに身体を預ける。
「ほら」
誉がタイミングを見計らって、冷えたペットボトルを手渡した。
「ありがとうございます」
こんな時でも律儀に頭を下げると、ようやく水を口にした。
「これからは、気を付けて飲みなさい」
「はい。ごめんなさい。汚くて……」
ひなたは項垂れると、すん、と鼻を啜る。
まあ、人前で吐いてしまったのは、本人としても不本意だよな……。
誉とて、相手がひなたではなければ逃げ出していたかもしれない。
「大丈夫だ。気にするな」
何か気の利いた言葉を掛けてやれればと思ったが、結局うまい言葉が見つからず、月並みな台詞を口にしていた。それだけだと間が持たなくて、小さな子供にするように、ひなたの頭を軽く撫でる。
「……っ」
すると、急にひなたの瞳が潤んで、今にも泣き出しそうな顔になってしまった。しかし、泣くものかと必死に堪えているのだろう。両の目をあらんばかりに大きく見開いて、涙が溢れないように耐えている。
た、大変だ。
咄嗟に、ポケットからハンカチを出していた。皺だらけだが、臭くもないし汚くはない。無言で手に握らせると、ひなたはハンカチを受け取り、最初のひと雫をぽたりと落とした。
「先生、わたし……」
誉のハンカチを堅く握り締め、二粒目の涙を膝の上に落とした。
「わたし……」
ひなたは顔をくしゃくしゃにすると、手にしたハンカチをぎゅっと握り締めた。
「もう無理」
顔を伏せたまま、くぐもった声で呟くと、またぽろりと涙を零す。
どう言葉を掛ければいいのかわからず、戸惑っていると、ひなたは涙声でぽつりぽつりと語り出す。
「全然喋れなくて……せっかく話し掛けてくれても、全然話が続かないんです」
「ああ……」
確かにひなたは、初対面の人間相手といきなり打ち解けて話せるようなタイプではない。誉と普通に会話が交わせるようになったも、割と最近の話である。相手が順也や篠原のように、相手のテリトリーにぐいぐい入ってくるような人間なら、また話は別かもしれないけれども。
「そんな調子だから、ノリが悪いって言われてしまって……ノリが悪いって言われても、どうすればノリがいいのかわからなくて」
その気持ちはよくわかる。誉自身、よく言われていた台詞であるのだから。相槌を打つと、ひなたはぽつりぽつりと語っていく。
「それで……すごく疲れてしまって…………お腹が空いたからお料理を食べようかなって思っても、一緒にいる女の人たち、全然手を付けていなくて……仕方がないから飲み物しか口にできなくて……」
なるほど、道理で。
ひなたがどうしてこれほどまでに酔っていたのか、ようやく誉は納得した。何も食べずにアルコールばかり摂取していれば、悪酔いもするはずだ。
「そうしたら、隣に座っていた男の人が、色々サワーとかカクテルとか頼んじゃって、なんだか飲まないと駄目だよって言われて」
ふと、ひなたを迎えに来た青年を思い浮かべる。見た感じは清潔感のある好青年風だが、飲めない人間に無理やり酒を飲まそうとは感心できる行為ではない。
しかも、人をオッサン呼ばわりしていたしな。
せいぜい五、六歳……もしくは七、八歳程度だろうか。とにかく、十歳程度下の男に「オッサン」呼ばわりされる筋合いはない。
今更ながらに怒りがこみ上げてきた。しかしその怒りが、ひなたに強引に酒を飲ませたことに対してなのか、オッサンと呼ばれたことに対してなのかは、よくわからなくなってきた。
何はともあれ、気に食わない……と、誉は結論づける。
「先生、わたし……」
ひなたの声が震えた。
話しているうちに気持ちが高ぶってきたのだろう。新たに込み上げてくる涙が、ぱたぱたと音を立てて、握り締めたひなたの手の上に落ちる。
「わたし、もう一生彼氏ができないかも……」
この世は終わりだと嘆くような、悲壮な声。ひなたは、ハンカチをぎゅっと握り締めると、ぽろぽろと涙を零す。
合コンでうまく立ち回れなかったからといって、一生彼氏ができないという発想に至る経緯がよくわからない。しかし、何よりも、どうやったらひなたが泣き止んでくれるのか。
わ、わからん……。
誉は困った。大いに困った。困り果てたと言ってもいいだろう。情けないが女性の扱い、いや対人スキルに乏しい誉にとって、これまでにない困難な状況であった。
こういう時、篠原なら「優しく抱き寄せて、ハンカチがわりになってやればいいんだよ」とでも言いそうだが、そんなことできるはずもない。
「山田さん、取り敢えずハンカチを使いなさい」
ひとまず、本物のハンカチに役に立ってもらおうと思ったが。
「はいぃ…………」
返事はするものの、相変わらず手の中に握り締めたまま、涙を拭おうとはしない。役に立っていないハンカチを横目に、宥めるようにひなたの背中を軽く叩く。
小さな背中は、嗚咽をするごとに震えていた。体温も高く、服越しでも熱が伝わってくる。
恐らく、彼女がこんな状態なのは、酔っ払っているせいもあるのだろう。部類としては、泣き上戸というやつか。普段よりも饒舌なのも、酔いが成せる技に違いない。
この場合、合コンが上手くいかなかったイコール彼氏ができないというわけではないのだと説明をし、彼女に理解してもらうことが適切なのか。はたまた、黙って彼女の言い分を、気の済むまで聞いてやるのが適切なのか。
あれこれ思案していると、不意にひなたが口を開いた。
「最近、智美ちゃんに彼氏ができたんです」
智美ちゃんが誰かは知らないが、きっと彼女の親しい友人なのだろう。
「智美ちゃんが羨ましい……」
心底切望するように、ぽつりと呟く。まさか、彼女がそこまで彼氏が欲しいと望んでいるとは意外だった。
「山田さんは、彼氏が欲しいのか」
「はい」
潔いほどの即答だった。
「合コンに誘われた時、どうしようって思ったけど……ちょっと期待もしていたんです。もしかして、この人っていう相手に会えるのかなって」
彼女はまだ、恋に恋をしている状態なのだろう。恋に憧れる気持ちもわからないでもないが、合コンでそれを求めるのは如何なものだろう。
「残念ながら、合コンはそれほどロマンティックなものではないぞ」
敢えて言わなくても彼女だってわかっているだろう。余計なことだとわかっていながら、つい言わずにはいられなかった。
「……はい」
彼女は己を恥じるように俯いてしまう。罪悪感が胸を掠めたが、何故か言葉が止まらない。
「それに、山田さんには合コンは向いていないと思う」
「そんな……」
打ちひしがれた声に、ぎくりとする。
余計な発言で、ひなたを落ち込ませてしまったようだ。噛み締めた唇が微かに震えているのがわかってしまう。
何をやっているんだ、俺は。
誉は内心慌てつつ、フォローの言葉を考える。
「つまり合コンではなく、サークルだとか、同じ講義を取っていてよく顔を合わせる人間だとか、昔からの友人だとかだな。まずは周囲から目を向けてみたらどうだろう?」
「つまり、親しい相手から?」
「そうだな」
一応誉の意見を考慮しているらしい。軽く眉を寄せ、じっと握り締めたハンカチを見つめている。
「親しい相手……智美ちゃん、とか」
「この場合は男性でないと」
「そうですね……あ、祥くん」
知らない異性の名前を出されて、思わずドキリとする。
「最近あんまり遊んでくれないけれど……自慢の弟です」
弟か。脱力しそうになるが、辛うじて冷静に答える。
「血縁者以外で」
眼鏡を外して、眉間を抑える。
「はい……」
ひなたは曖昧に頷くと、ぼんやりとした顔を上げる。
「じゃあ、たとえば……」
ひなたは曇のない真っ直ぐな瞳で、誉をじいっと見つめた。
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