夏の章・06 酔っ払いな彼女
「……飛沢、先生?」
どうやらタイミング良く会うこともあるらしい。山田ひなたに似ていると思った女性は、まごうことなき本人であった。誉も驚きの声を上げそうになるが、辛うじてそれを飲み込む。
「ああ……こんばんは」
こういう時、何を言えばいいのだろうと、目まぐるしく思案した挙句、結局ごく平凡な挨拶しか出てこなかった。
「こ、こんばんは」
ひなたも慌てたようにお辞儀をするが、アルコールが回っているせいであろう、ふらりと身体のバランスを崩してしまう。
「わ」
「!」
誉は慌てて手を伸ばすと、転がるようにひなたの身体が飛び込んできた。すとん、とそのまま誉の腕の中に収まってしまう。
うわ。
抱き留めた途端、細い身体にも関わらず、ふんわりと柔らかい感触に驚く。ここ数年、女性との付き合いが途絶えていたせいもあるのだろう。年甲斐も無く動揺してしまった自分自身に一番驚く。
「ごめんなさい……」
誉の顎の下から、くぐもった声が聞こえる。
「あ、ああ」
ひなたの肩をつかんでゆっくりと自分から引き離した。途端、ふわりと髪から甘い匂いと煙草の匂いが鼻を掠める。
「大丈夫か?」
ひなたの顔を覗き込む。くたりと俯いていた首を持ち上げた。
「はい。大丈夫です」
とろりとした眼差しを向けると、ゆるい笑を浮かべる。
これは、思ったより酔っているな……。
あまり顔に出ないタチなのだろう。顔色だけ見ると、とても酔っているようには見えなかった。誉に支えられながら、どうにかして自分の足で立つ。
「ありがとうございます」
ひなたは律儀に頭を下げる。今度は身体のバランスを崩さない程度の会釈だった。
「ずいぶん飲んでいるな。そもそも君はまだ未成年だろう?」
「すみません……」
「もうソフトドリンクだけにしておくように」
「はい」
「歩けるか?」
「はい……」
一応は受け答えはしているものの、ちゃんと誉の話を聞いているのかアヤシイものだ。
「山田さん、今日はもう帰った方がいい」
「帰りたいのは山々ですが、ダメなんです……」
頷くばかりのひなただったが、今度は頑なに首を振った。
「まだ終わっていないので……」
何が? 誉が訊ねようとした時だった。
「あーいたいた!」
振り返ると、見知らぬ青年が「手洗い」と描かれた暖簾を跳ね除けて、無遠慮に近づいてくる。
誰だ?
歳の頃は、二十代半ばといったところであろうか。スポーツマンタイプの清潔感ある青年だった。
「山田さん。大丈夫?」
青年は誉の存在を無視して、ぼんやりと佇むひなたの腕を掴む。
「え、あ、あの」
ひなたの顔に戸惑いが浮かぶ。
「ほら戻るよ。皆待ってるから」
「あの、待ってください」
制止の声を上げる彼女を他所に、青年は彼女の腕を引いて歩き出す。
「ちょっと、少し……待ってください」
青ざめた顔で、ひなたは懇願する。しかし青年は笑って彼女の要望を却下する。
「ダメダメ。ほら行こう」
これは見過ごすわけにはいかない。誉は青年の肩を掴んだ。
「やめなさい。嫌がっているだろうが」
すると青年は怪訝そうに誉を一瞥すると、ひなたに目配せをする。
「山田さん……何このオッサン」
オッサン!
確かに青年よりは歳上だが、オッサンと言われるほどの年齢差ではない。反論しようと口を開きかけた時、ひなたに異変が起きた。
「うっ」
ひなたは呻き声を上げると、空いた片手で口元を押さえてしゃがみ込んでしまう。青年は彼女が嘔吐しそうなのだと悟ったのだろう。掴んでいた腕を素早く離し、ひなたから距離を取る。
「山田さん、どうした?」
面識のない男にオッサン呼ばわりされたがどうした。誉はしゃがみ込んだ彼女の隣に膝を折る。顔を覗き込むと、ひなたの顔色はまるで紙のように真っ白だった。
「もしかして、吐きそうなのか?」
誉が訊ねると、小さくこくこくと頷いた。だが、さすがにここで吐くのは不味い。
「山田さん、吐くならトイレで……」
ひなたの肩を支えて、立ち上がらせようとした時だった。
「う……」
彼女なりに我慢していたようだが、とうとう堪えられなかったらしい。
「うわああ!」
ひなたが嘔吐した途端、青年は情けない声を上げて飛び退った。
* * * *
その後は色々と大変だった。
ひなたの汚れた服は、洗ったところで着て帰れる状態ではなかった。仕方がなく、順也が来てきたTシャツを借り、汚れた服はレジ袋に入れてもらった。しかし、当の本人はますます具合が悪くなってしまい、結局事務室の一角を借りて、そこで休ませてもらうこととなった。
「山田さん、大丈夫ですかね……」
仕事の合間なのか、休憩に入ったのか。事務所を訪れた順也は、心配そうにひなたの顔を覗き込む。
ベッドなど当然ないので、折りたたみ式の椅子を並べて、無理やり寝かせていた。
「さっきより顔色が良くなってきたから、平気だろう」
さっきまで紙のように白かった顔色も、ほんの少しだが唇に赤みがさしてきた。掛布の代わりに、誉のジャケットを掛けたひなたの胸元が、規則正しく上下している。
「先生、ホントにすみません」
「君のせいじゃないだろう」
「でも、誘ったのは俺ですし。悪のりするなよって、釘刺しておいたんですけど」
その忠告はアルコールの力で消し飛んだまいうわけか。
「ひなちゃんに、悪いことしたなあ……」
どうやら順也の友人の合コンだったらしく、ひなたは補充要員として参加をお願いしたという。順也はショボくれたチビ太の様に項垂れている。
「先生にも、すみません。お疲れなのに」
「いや、気にしなくていい」
誉をオッサン呼ばわりしたスポーツマン青年は、あれからまったく顔を出そうとしない。誉がひなたの知人だと知った途端、後始末を押し付けて立ち去ってしまった。青年の無情さに怒りを覚えつつも、誉自身も、彼女に対してどう対応すればいいのかわからなかった。
右往左往していると、すぐに騒ぎを聞きつけた順也が駆けつけてくれたから助かった。あとは女性店員が着替えを手伝ってくれたりしたが、誉自身は結局何もせずに立ち尽くすばかりだった。
付き添っていただけで、結局何もしなかったのだから、あの青年を責められるような立場ではない。順也の文句を聞きていると、居たたまれたい気分になる。
「あ、そうだ。篠原さんは?」
「あいつは合コンメンバーに説教してやるそうだ」
未成年を酔い潰すとは何事かと「一喝してやらないとね」などと篠原はほざいいた。
「さっき覗いてみたら、どう見ても楽しそうに飲んでいるようにしか見えなかったんですけど……」
「そうか」
あのお調子者め、と誉は苦い顔になる。
「先生、本当にお願いしちゃっていいんですか?」
「ああ、構わない。仕事に戻りなさい」
順也は思い出したように、手にしていたミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
「山田さんに」
「ああ」
「すみません。山田さんをお願いします」
「わかった」
部屋から出て行こうとした順也が、ふと足を止める。
「先生。送り狼になっちゃダメですよ」
「……馬鹿を言うな」
無意識のうちに、声のトーンがワントーン下がる。
「やだなあ、冗談です! じゃあ、お願いします」
順也を見送った後、誉は苦笑いを浮かべる。
「………………大人をからかうな。馬鹿者」
すでにドアの外へ消えた順也に、ぼそりと文句を漏らす。
順也の冗談くらい、軽く交わせないでどうする。不甲斐ない、と己自身に叱咤する。
自分が送り狼になるなど、あるわけがない。しかし、あの合コンメンバー……特に、スポーツマン風の青年だったら、可能性は十分にあり得る。
いや待てよ。誉は、ふと考える。
欠員補充のためとは言えども、彼女は出会いを求めていたからこそ、合コンへの参加を承諾したわけであろう。ということは、オッサンである自分に付き添われるのは、彼女にとって不本意なのではなかろうか?
自分は彼女を助けた気でいた。しかし、自分がしたことは、単なる余計なお世話だったのだろうか、と。
まだ眠っているひなたを、じっと見つめる。
ひなたが合コンに参加していると聞いた時は驚いた。誉の勝手なイメージだが、何となくそのようなものには関心がないと思っていた。
だがこのくらいの歳で、恋愛に興味を抱くのはごく普通のことだ。引っ込み思案だからといって、合コンだって行ってみたいと思う気持ちくらいだるだろう。
そんな誉自身も、色恋沙汰に浮かた大学生活は送っていない。が、初めて彼女というものができたのは、大学に入ってからだった。ただ残念なことに、一カ月も持たず「飛沢くんって、つまんない」と言われて振られてしまったわけだが。
「……………………はあ」
黒歴史を思い出し、思わずため息を吐いてしまった。その時だった。
「せん、せい?」
突然、まだ覚醒しきっていない、頼り無げな声が耳に届いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます