夏の章・11 お墨付きのカレーライス

「ここが先生のお家ですか?」

 誉が住まいとする借家を目にして、ひなたは意外だと言わんばかりの声を上げた。

 築三十年のこじんまりした家ではある。管理が良かったせいか、思いの外痛んではいない。つまり、ごく一般的な古い平屋建てである。

「なんだか……昭和を感じます」

「ああ……」

 時代を感じると言いたかったわけか。

 誉は妙に納得すると「これが建ったのは昭和だからな」と独り言のように呟く。すると。

「え! 本当に昭和ですか!」

 と、さらに驚きの様子である。

「……内装は一応リフォームしたからきれいなんだ」

 弁解めいた台詞をこぼすと、ひなたは「しまった」という顔になる。

「す、すみません……」

「まあ、古いことは確かだからな」

 どうやらこの古さがいい味を出していると思っているのは、自分だけのようだ。

 引っ越しの手伝いに来てくれた父も「もう少し良いところに住んだらどうだ」と言われたし、電撃訪問をしてきた篠原にも「うわ、ボロい!」との酷評をいただいた。

 この蔦が絡まりすぎた外壁の佇まいと、色褪せた煉瓦色の瓦屋根。手入れをすればもっと小綺麗になるだろう、鬱蒼とした生垣。猫の額のように狭い庭も、雑草を刈ってみたら案外広い。

 これに小さな祠でもあったらと思うが、その手の物件は、お世話になった不動産では扱っていないようだ。

「山田さん。送ってくれて、ありがとう」

「いいえ」

 ……やはり、彼女を送っていこう。

 自分を送ってくれた相手を、また送るなんて少々滑稽だが、最近世の中は物騒だ。この帰り道に痴漢や引ったくりに遭う可能性は十分にある。

 そうだ。これは年長者として、教育者として当然な行為だ。学生の安全を守るだけで、けして邪まな考えで彼女を送っていこうと考えているわけではない。

「お荷物、玄関までお持ちしましょうか?」

「いや、ここで十分だ」

 家まで送っていくから、少し待って欲しい。そう口にしようとした時だった。

「あの! 先生、これを」

 いつの間にか手にしていたペーパーバッグを、誉の前に差し出した。何かいい匂いがする。空腹を掻き立てるような香辛料の匂い。これは。

「あの、これ、うちのカレーです」

 そうだ、これはカレーの匂いだ。

「わたし、今はカレーとシチューしか作れませんけど、我が家では好評なんです。よかったらお夕飯にしてください。これならレンジで温めれば 簡単に食べられますから……あ、ごはんもラップに包んで入っていますっ!」

 真剣な面持ちで、ひなたは一気に言い放つ。

 どうやら彼女が一旦自宅へ立ち寄ったのは、このカレーを取って来るためだったらしい。

 予想外の展開に戸惑いつつも、ひなたからペーパーバッグを受け取る。中には大きなジップロック的な密封袋に入ったカレーと、ふわりと丸められた白いご飯の塊が二つ入っていた。

 家庭のカレーにしてはスパイシーな匂いに、思わず唾を飲み込む。

「美味しそうな匂いだな」

「味も我が家のお墨付きです……一応」

 少し自信無さげに、ふにゃりとはにかむ。自慢気に語れないところが彼女らしいなと思う。

 山田家の夕食を分けて貰うのは非常に心苦しいが、お持ち帰り仕様されたカレーを突き返すわけにもいかない。それよりも何より率直に嬉しかった。

「ありがとう」

 誉が礼を述べると、ひなたは嬉しそうに頬を緩めた。

「では、先生。失礼します。お怪我、お大事にしてください」

 彼女はペコリと頭を下げると、元来た道を戻ろうとする。

「山田さん、待ちなさい」

 慌てて呼び止めると、彼女は弾かれたように振り返った。

「はい、何でしょう?」

「送っていく」

「いえ! とんでもないです! 先生はお怪我をされて……」

「肩以外は健康そのものだ」

 暗い夜道を一人で帰らせるのが心配だから……なんて言えるわけもない。

「この辺りは外灯が少ないから」

「大丈夫です。いつも一人で帰っていますから」

「いや、しかしだな」

「大丈夫です! では失礼します!」

 普段よりテンションが高い。自分の役目を果たしたひなたは、やや興奮気味のようだ。

 引き留めようとも、増えた荷物と自由の利かない腕のせいもあり、あたふたしているうちに彼女は曲がり角の向こうに姿を消してしまった。

「まあ……大丈夫、かな」

 自分に家まで付いて来られても、彼女にとってはありがた迷惑という可能性は高い。

 何をひとりで舞い上がっているんだ。いい歳をして恥ずかしい。

 夢から覚めたように冷静になると、のたうち回りたくなる程の羞恥に苛まれる。

 一瞬沸き上がった感情を無かったものにしようと、誉は苦々しく目を閉じた。

 これは……違う。この気持ちはそういった類のものじゃない。

 自分に言い聞かせるように、誉は何度も何度も同じ言葉を心の中でくり返した。

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