夏の章・12 夏のまぼろし
彼女の姿を見たような気がした。
誉はコンビニ弁当を手にしたまま、視線を彷徨わせた。
――気のせいか。
栗色の髪をした女性は彼女ではなかった。似ているのは髪の色だけ。安堵と軽い失望が、誉の胸を掠める。
どうかしている、まったく。
今は夏休み。とはいえ、学内に誰もいないわけではない。教職員は当然出勤、もお盆の時期と被る夏期休業期間くらいしか休みではない。一般人向けの講座で訪れる人もいるし、サークル活動や部活動に勤しむ学生の姿も多い。
そんなわけで、もしや彼女もいるのではないかと、似たような背格好の人物が視界に入ると、つい目で追ってしまう。
しかも彼女は大学から家も近い。大学に用事はなくても、この界隈に現れても不思議ではない。
別にいなくてもおかしくはないことも、わかってはいるが……。
いつの間にか彼女――山田ひなたの姿を目で追ってしまうのは、認めたくはないが、認めざるおえない事実であった。
不味い。駄目だ。そう思えば思うほど、ひなたのことが気になってしまう。駄目だと思うから、余計に気になるんだと開き直れば……と思っても、やはり事態は変わらない。
「飛沢先生、どうされました?」
「誉くん、どうしたの?」
同時に発された男二人の声に、誉は我に返った。
……そうだった。
文学部事務室の一応職員である篠原と、その後輩にあたる宍戸と共に近所のコンビニエンスストアに来ていたのだと、現実に引き戻される。
すでに会計を済ませた篠原のレジ袋の中には、菓子パンとおにぎり、スナック菓子と炭酸飲料などが雑多に入っている。
「今から遠足にでもいくのか?」
「うん、そうそう」
「篠原さん、いい加減な相槌打たないで下さいよ。先生もよかったら、三時に事務室に来てください」
宍戸は爽やかな笑みを向ける。
「……おやつか」
「だって、夏休みなんですから、気楽に過ごしましょうよ」
君たちは気楽過ぎやしないか……。
そう言いたくなる気持ちを押さえていると、今度は篠原は誉が手にした弁当を覗き込む。
「へえ、カレーかぁ。バターチキンカレーだって、美味しそうだね」
「まあ、カレーは食べるのが楽だからな」
別に聞かれもいないのに、言い訳じみた言葉を口にしてしまう。
「ふうん、そう?」
何やら察したらしい。篠原は好奇に満ちた眼差しを向けている。
「……なんだ」
「いやー、最近ぼんやりしていることが多いなってね」
「そうか?」
「うん。心ここにあらずって感じかな」
「心外だな」
内心、ヒヤリとしつつ、篠原の視線から逃れるようにレジに向かう。
片腕で過ごす生活を始めてから、約一週間が経過した。最近は痛みも引き、暑苦しく面倒なので、三角巾を使用していない。利き腕が不自由ではあるが、ペンを持つくらいなら何とかなっている。
とはいえ、あまり動かすのは不安なので、左手が大活躍だ。しかし箸は上手く持てそうにないから、スプーンやフォーク一本で食べられるメニューばかりになっているのは事実だ。
……この間のカレーは美味かったな。
先週、山田家では好評だという、ひなたの作ったカレーの味を思い出す。
山田家のカレーは、具材はじゃがいもと人参、玉ねぎと牛肉というよくあるものであったが、市販のカレールゥは使っていないようだ。口当たりはまろやかで甘味すら感じるのに、後からスパイスの風味がガツンと追い掛けてくる。実に癖になる、美味なる味だった。
そのことを彼女に伝えたいのだが、いまだに伝えられないままでいる。自分の下へバイトに来たときにでもと思ったが、夏休み中はバイトは休みだと言ってしまっていたことに気が付く。
一応メールアドレスも知ってはいるが、個人的な用件で送るのは、あまりよろしくはないだろう。
「…………」
彼女にバイトを頼もうか、一瞬頭を掠めた考えを打ち消す。せっかくの夏休みだ。他に予定が入っているかもしれないじゃないか。
「お弁当、温めますか?」
店員の声に、はっとなる。そうだ。今レジで会計の最中だったのだ。
「……お願いします」
確かにぼんやりしている。篠原の言う通りだ。
何をやっているんだ。俺は。
そう、気が付けば彼女のことばかり考えてしまう。そんな己を改めて自覚すると、居たたまれない気持ちに苛まれるのだった。
* * * *
完全に白い包帯と三角巾とおさらばしたのは、お盆休みが終わってからだった。
両手が自由に使えるのが、こんなにもありがたいものだったのだと、しみじみと実感する。久しぶりに自由になった開放感を味わいながら、今日の夕飯は自炊でもしようかと考える。
外食とも考えたが、最近コンビニ弁当やインスタント食品ばかり続いていたから、簡単でも自分で作ったものが作りたい気分だった。
山田家のカレーのように、手の込んだものを……と思ってスマホでレシピを調べてみたが、思っていたより大変そうだ。
まず材料の品数が多い。耳馴染みのないスパイスは近所のスーパーで揃いそうにない。
本格的なものは諦め、普段より良い肉と、いかにも美味そうなカレールゥを買うことにする。
玉葱が飴色になるまで炒めるくらいは頑張ってみよう。病院帰りの電車の中で、カレーについてあれこれと考える。
薄暗くなりつつある窓から見える街並を眺めていると、不意に背中を叩かれた。
「誉さん」
弾かれたように振り返ると、人目を引く美人がそこにいた。
肩を覆うさらりとした長い髪。派手な雰囲気の美人だが、化粧は控えめで、服装もTシャツと七分丈のパンツスタイルといったシンプルな出で立ち。
「……廣瀬さん」
「こんばんは。今日も暑かったですね」
父圭介の再婚相手、
「この間は、母の墓参りにお付き合いくださいまして、ありがとうございました」
そう。お盆に日帰りで帰省した時、父と友紀の三人で墓参りに行ったのだ。誉が丁寧にお礼を述べると、友紀は慌てて両手を振った。
「いいえ、こちらこそ。わたしも以前から誉さんのお母さんにご挨拶をしたいと思っていたんです。こちらこそ、ありがとうございました」
「いいえ、どうしたしまして……」
しばらく二人でお礼合戦を繰り広げていたが、ここが電車の中だと思い出した。
「……お仕事帰りですか?」
電車の中に相応しい音量で訊ねる。
「はい。誉さんは?」
「今日は病院へ」
「あら、やっと包帯が取れたのですね」
「ええ、お陰さまで」
「よかったですね」
親しみを込めてほほ笑む彼女を眺めながら、不意に思い出した。彼女に対して抱いていたある疑問。
なぜ、彼女ほどの女性が、老人に片足を突っ込んだ父のような男と結婚など考えたのか。
こんな質問をするのはいかがなものかと思う。しかし、一旦再燃した疑問は頭の中でぐるぐると回り始める。
彼女の人柄は垣間見た程度ではあるが、保険金や退職金目当てではないとは思う。もしや父圭介に弱味を握られているという可能性も考えられない。
彼女が弱味を握って結婚を迫る……いや、あんな年寄りと結婚して得られるメリットなど、考えられるとしたらやはり保険金……これでは堂々巡りだ。
そうこうしているうちに、電車は誉が降りようとする駅のホームに滑り込んでいく。
「あの、廣瀬さん。お時間ありますか?」
電車が完全に停車する十秒前。反射的に口にしていた。そんな自分に実に驚いた。
「ええ、大丈夫ですよ」
しかも、友紀はあっさりと承諾してくれたではないか。
電車のドアが開き、誉に続いて彼女の軽々とホームに降り立つ。
「じゃあ、行ってみたいお店があるんのですけど、いいですか?」
振り返った彼女は、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
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