夏の章・13 友紀への疑惑

 子供のように目をキラキラとさせながら、彼女が案内してくれたのは駅から近い珈琲店だった。どうやらケーキが美味しいと評判で、夕食を取るべき時間帯だというのに店の中はケーキを求めるお客で溢れていた。

 タイミングよく席が空いたらしく、店の奥の向かい席に案内される。

「一度だけ来たことがあったんですけど、どれもすっごく美味しいんですよ。前はバナナタルトをいただいたんですけど、カスタードクリームがたっぷり入っていてタルト生地はさくさくでおすすめです」

 メニューを開くと、ケーキが写真付きで紹介されている。確かにバナナタルトには「人気No.1」と書かれている。

「……なるほど」

「もしかして、甘いもの苦手でしたか?」

「いえ、甘いものは好きです」

「よかった」

 一瞬浮かんだ不安げな陰は、あっという間に一掃された。彼女の視線はメニューに釘づけである。

 意外だな……。

 彼女は落ち着いた女性という印象だったが、ずいぶんと子供っぽいところもあるものだ。そういえばウェディングドレスも、堅くなにプリンセスタイプのものがいいと粘っていたのを思い出す。

「誉さんは、どれにします?」

「……バナナタルトを。あとブレンドにします」

 初めての店なら、店で進めるメニューを選んでおけば間違いないだろう。友紀もおすすめだと言っているのだから尚更だ。

「誉さん、決めるのが早いですね。じゃあわたしは…………よし、決めました」

 ウェディングドレスを決めるよりも真剣な眼差しをメニューから上げると、お冷のお代わりを注いで回る店員を呼び止める。

「すみません、注文いいですか?」

「はーい。お待ちください」

 店員がテーブルにやって来たというのに、まだ未練がましそうにメニューをちらちらと見ている。

 もしかしてまだ迷っているのだろうか。わずかな時間だが時間稼ぎに、誉は先に自分の注文を口にする。

「ブレンドとバナナタルトを。それから……」

「……シナモンミルクティーと、杏のフランをお願いします」

 友紀は堅い声で告げる。店員が立ち去ると、ふうっと気の抜けたような溜息を吐いた。それほどケーキを決めるのに神経を費やしていたのかと思うと、目の前の女性がずいぶんと微笑ましく思えた。

「ごめんなさいね。優柔不断でいつも先生には注意されてしまうんです。ところでお話とは?」

 唐突に本題に入られて、動揺のあまり飲んでいた水でむせてしまった。

「大丈夫ですか?」

「…………はい、失礼しました」

 咳が収まってから、ごほんと咳払いをする。

 そうだ。惑わされてはいけない。誉は気を引き締めると、眼鏡をずいと指先で押し上げた。

「……今更ではありますが」

「はい」

「なぜ父と結婚しようと思ったのですか?」

 彼女にとっては思いがけない質問だったようだ。大きな目を不思議そうに瞬いた。そして、照れ臭そうに瞳を彷徨わせると、縋るようにお冷グラスを手に取った。

「改めて聞かれると恥ずかしいのですが……」

「敢えてお願いしているのは、いまだに疑問なのです」

「疑問、ですか」

 迷いに迷ったが、思い切って正直な気持ちを告げる。

「どうして親子ほど歳が離れた父との結婚を、あなたがどうして決めたのかが不思議でならないのです」

 言った。言ってしまった。

 彼女がどういう態度に出るか、誉は密かに待ち構える。

 もし彼女が退職金や保険金狙いの悪女ならば、恐らく正直になどは答えないだろう。耳当たりの良い理由を述べるに違いない。

「そうですよね……」

 数秒の沈黙の後、友紀は羞恥の入り交じった声で呟いた。

「私と誉さんも、二つくらいしか歳が変わらないし……よく考えてみれば先生とは親子くらい歳が離れているんですよね」

 よく考えなくてもわかると思うが。

 思わず突っ込みたくなったが、彼女の独白に耳を傾ける。

「もし私が誉さんの立場だったら、きっと同じことを考えると思います。ましてや自分の親が親子くらい歳が離れた相手を連れて来たら……やっぱり生理的に嫌ですよね」

 いや、そこまでではないのだが。

「そう言うわけではなく、単純な疑問です」

 すると、友紀の表情がふと和む。

「誉さんは優しいですね」

「別に優しくなんてありません」

 なかなか思うような話の流れにならない。軽い焦りを感じた時、ふわりの珈琲の匂いが鼻をかすめた。

「お待たせしました」

 銀色のトレイを手にした女性店員が、テーブルの前に立った。注文したブレンドとバナナタルトが目の前に並ぶ。シンプルな造りだが、厚めにカットしたバナナと、たっぷりな生クリームが盛られていて実に美味しそうだ。友紀の前には、シナモンミルクティーと杏のフランが。彼女の注文したものも、丸々とした杏が詰まっていている。

「美味しそうでしょう?」

 まるで自分が作ったかのように何故か自慢げな様子だ。そして、先ほど投げた質問を忘れたかのように、彼女は喜々としてフォークを手に取った。

 質問の問いはどう なったんだと思ったが、せっかくの熱い珈琲を冷ましてしまうのも惜しい。

 彼女からどんな答えが返ってきても、冷静に対応できるよう自分も少しは落ち着かなければ。

 既成のものではないコーヒーカップを手に取る。けして味にうるさい方ではないが、この珈琲はなかなか期待できそうだ。そっと一口、口に含む。

 うん、美味い。

 友紀も同じように、カップを手に取り、甘そうな匂いのミルクティーに口を付ける。美味しいと、無言の呟きが聞こえてくるかのように嬉し気な表情を浮かべる。ケーキとお茶を一口ずつ味わった後、彼女はぽつりと呟いた。

「こんなことを言うのは、ちょっと恥ずかしいのですけど」

 友紀は一端言葉を切ると、勢いよく告げる。

「実は中学生の頃から、ずっと好きだったんです。先生のこと」

 途端、彼女の頬が一気に赤く染まる。

「中学生の頃から……ですか」

 まさかの直球、しかもまるで少女のように赤面している友紀を目の前にして、咄嗟に言葉が出ない。正直なところ、ここまでストレートな台詞が飛び出してくるとは予想だにしていなかったのだ。

 半ば呆然としながら、汗で下がってきた眼鏡のフレームを押し上げる。

「なるほど、長いですね」

 何がなるほどなのか、自分でもわからない。ただわかるのは、自分がかなり動揺していることくらいだ。

 一方、友紀は告白して踏ん切りが着いたのだろう。聞いてもいないのに、さらに衝撃の事実を語り始める。

「実は卒業式に告白もしたんですけど、振られちゃいました。当時は奥様……誉さんのお母さまが亡くなったばかりだったのに……後から無神経だったなと。一番大変な時だったのに」

 俯いた友紀の表情が、深い記憶の中に眠っていた少女の面影と重なる。

 脱色をした黄色みがかった波打つ髪。傷んでいたうえ、パーマも落ちかけて見るも無残な髪型を恥じ入るように、唇を噛み締めるきつい顔立ちの少女。

 思い出した。あれは誉が中学生になったばかりの頃だった。警察に補導された生徒を、家族に代わって圭介が迎えに行った時があった。

 両親が不在だからと、自宅に連れ帰った生徒は、絵に描いたような不良少女だった。

 着崩した制服。肩を覆う髪は痛みでトウモロコシのヒゲのようにふわふわしていた。年齢にそぐわない派手な化粧のせいで、父の受け持つクラスの生徒と聞かなければ、とても十代とは思えなかった。

「あの……もしかして、一度うちに来たことが」

「はい。一度夕ごはんをご馳走になりました」

「失礼ですが、当時髪を脱色をして……」

「はい。恥ずかしながら。先生のお陰で立ち直れたようなものです」

「そう、でしたか」

 しかし、父は一体どうやって彼女を立ち直らせたのだろうか。

 圭介はその手の類のドラマに出てくるような熱血教師とは程遠い。どちらかといえば、のんびりとした気質の持ち主で、女子生徒が恋焦がれるようなタイプではないはずである。

「卒業した後も、未練がましく年賀状とか、暑中見舞いとか、そんな程度ですけど、ずっとやり取りをしていたんです。偶然わたしの勤め先に、生徒さんがボランティアに行くというお話があって、久しぶりにお会いできたんです」

「どのくらい、会っていなかったのですか?」

「ええと……二十年ぶりくらいでしょうか」

 二十年! あまりの長さに言葉が出ない。

「久しぶりにお会いして……やっぱり先生のことがまだ好きなんだと気が付いたんです」

 二十年。そこまで好きになっていただけるような色男ではないと思うが。

「失礼ですが、父以外の男性とお付き合いをされた経験は?」

 不躾な質問に、彼女は一瞬驚いたように目を瞬く。

「ありますよ」

 あるのか。

 すると、彼女はまるで苦いものを口にしたような表情になる。

「ありますけど、気づいたら先生に似ている人を追い求めているといいますか……最初はそんなこと考えているつもりはなかったんですけど、後から気づいてしまうんです。結局上手くいかなくて、ああまたやってしまったと何度も後悔したものです」

「そうですか……」

 コメントできない。そうですか、としか言えない。

 何度も言わせてもらうが、父はそこまで思っていただけるような、大層な男ではないと思うのだが。

 髪は良く言えばロマンスグレー、はっきり言えばほぼ白髪。腹は二、三年前まではぽっこりしていたが、健康診断で引っかかったとかで減量をして、ずいぶんとスリムになった。そこまでお洒落ではないが、スーツは時折新調しているし、ワイシャツも自分でアイロンがけをしているから身綺麗な方ではあると思う。

 卒業した生徒からも、何通も年賀状が届いているの見ると、恐らく生徒に好かれているのだろうと想像が付く。しかし、良い先生だから恋愛につながるわけではない。

 結婚が決まった今更言うことではないとわかっている。しかし、こんな話をすることも二度とないだろうと思うと、心は決まった。

 敢えて聞いてやろうではないか。

「水を差すようで申し訳ないのですが、父は悪い人間ではありませんが、取り立てて良い男というわけでもありません。良い先生だったからという憧れのような気持ちだけでは、いずれ他の交際相手のように失望するのではないでしょうか」

「別に先生が、良い先生だから好きになったわけじゃないんですよ。むしろ最初は嫌いでした」

 またもや驚きの事実が飛び出してきた。

「皆に良い顔をして、この偽善者って思っていたくらいです。先生には反発ばっかりしていて、どうしようもない生徒だったと思います。好きになった切っ掛けは……決定的な何かというよりは、先生とのやり取りを積み重ねていくうちに、好きになったんだと思います」

 あ、珈琲が冷める。

 脈絡もなく思い、ぬるくなった珈琲を流し込むと、少し気持ちが落ち着いてきた。

「そうでしたか」

 同じような台詞を、もう何度口にしただろう。

 ぽつり、ぽつりと彼女は付き合うまでの経緯を語ってくれたが、聞いている方が恥ずかしくなってくる。

「…………でもお付き合いして欲しいと言うまで、一年も掛かってしまいました。お付き合いを始めて一年を迎える頃、先生に……」

 恐らくプロポーズされたのだろう。

 父親が息子と歳の変わらない女性にプロポーズ……想像がつかない。

「あ……」

 涙が一滴、頬を転がる。友紀自身も驚いた顔になると、慌てて手で顔を隠す。

「ご、ごめんなさい! あーもう、恥ずかしい……」

 隣りの椅子に置いてあったバッグの中をさぐり始める。

 どうやらハンカチを探しているようだ。ずいぶんと色々詰め込んであるらしく、なかなかハンカチが出てこない。

「どうぞ」

 ハンカチではないが、駅前で貰ったポケットティッシュを思い出して彼女に差し出した。

「ありがとうございます。すみません」

 赤らんだ頬のまま、友紀は照れくさそうに笑うと、素直にティッシュを受け取った。

 もしこれが演技だったら、彼女はアカデミー賞並みの女優だ。

 恐らく、彼女なら大丈夫だ。大丈夫だと思いたい。

「……色々失礼な質問をして、申し訳ありませんでした」

「いえ、そんな」

 友紀は涙をティッシュペーパーで拭いながら、大きく頭を振る。

「……父を、よろしくお願いします」

 誉はテーブルに着きそうなほど、深く頭を下げる。すると、すかさず「はい、こちらこそ」と、嬉しさを滲ませた返事が返ってきた。

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