冬の章・22 乾杯!
外に出ると、庭に生える雑草には白い霜が降り立っていた。顔を出したばかりの朝日を受けてきらきらと輝いていて、普段の殺風景な庭がいつもと違って目に映る。
土がむき出しのところには霜柱が立っていることに気付き、指先で触れてみる。土の間から覗く細い氷の柱は、案外丈夫のようだ。子供の頃、霜柱を見つけては、ざくざくと踏み荒らしていたことを思い出す。
「寒いはずだな……」
猫のマックロが布団から出たがらないはずだ。ずいぶんと大きくなった愛猫は、まだ誉のベッドで惰眠を貪っている。
はあっと吐き出した息は、たちまち白く染まって霧散する。手編みのマフラーを巻き付け、厚めの手袋をはめると、薄っすらと霜で輝くアスファルトの上に踏み出した。
まだ夜が明けて間もない早朝に外出するなんて久しぶりだ。朝の空気は頬を突き刺すように冷たく、凛と冴えわたっていた。
薄灰色の雲の間から覗く朝日を見上げながら、誰もいない道を歩いていると、数軒先の玄関が開く音が聴こえた。
大型犬と一緒に出てきた人物は、ダウンコートでもこもこになっていた。はしゃぐ犬のチビ太を宥めながら道路に出てくると、誉の姿に気付いたようだ。満面の笑みを浮かべて大きく手を振っている。
誉も応えるように手を振りながら、足早に彼女の下へと歩み寄る。
「おはよう」
年内に会えるのは、これで最後だ。僅かな朝陽に浮かび上がるひなたの姿を、目に焼き付けるかのように見つめる。
できれば毎日でも会いたいところではあるが、そんなこともできるはずもなく。当の誉は、今日から年を跨いだ出張だった。何とか会える時間を捻り出したところ、今日のこの時間、早朝しかなかった。
ちょうどこの時間は、山田家の愛犬チビ太のお散歩時間であった。
「先生、おはようございます」
普段と変わらない挨拶だというのに、なんだか胸の奥がこそばゆい。挨拶を交し合うと、肩を並べて歩き出す。
「いつも、こんなに早い時間に?」
「はい。この子、早起きなんで、だいたいこの時間に散歩に行っています。夏はいいんですけど、冬は寒いし暗いしで、ちょっと辛いですけど。でも」
ひなたは恥ずかしそうに笑みを深めると「今日は早く目が覚めちゃいました」と付け加えた。
まるで今朝の散歩を楽しみにしていたといっているかのようだ。いや、楽しみにしていたのだろう、恐らく。自惚れではないことを祈りつつ、誉も素直な気持ちを口にする。
「私も、目覚まし時計より早く目が覚めたのは久しぶりだ」
「どれくらいぶりなんですか?」
「小学生の、遠足以来……かな」
「遠足かあ……わたしもワクワクして、普段より早起きだったなあ……あ! 先生、実はあったかい紅茶を用意してきたんですよ。公園で飲みましょう」
持っていたものはバッグではなく、水筒だったようだ。
最近は一人用のボトルをよく見かけるが、ひなたが手にしているのは、家族で遠足に行く時に持っていくような大振りなものであった。サイドに取っ手が付いていて、最初はずいぶん長細いバッグだなと思ってしまった自分が恥ずかしい。
「重たいだろう」
「大丈夫ですよ」
いや、これは重たいはずだ。ひなたの手から水筒をひょいと掠めとる。
「……寒いから、温かいものは嬉しいな」
ふと、ひなたが手袋をしていないことに気が付いた。
「山田さん、手袋は?」
「あの、いえ……急いでいて……忘れました」
「じゃあ、ほら、これをしなさい」
誉は自分の手袋を外すと、ひなたに差し出した。
「でも、先生が」
「大丈夫だ」
「でも……」
遠慮する彼女の両手に手袋をはめると、空いている方の手を取った。
「こうしてくれたら、あたたかい」
ひなたの手は小さいから、誉の手袋ではぶかぶかだ。その手を包み込むように握り締めると、ひなたはぴくりと肩を震わせる。そして、おずおずと見上げるように誉を見つめると、目が合った途端、嬉しさが弾けたように破顔する。
あたたかい。彼女の手も、彼女の笑顔も、何もかもが。
腹の底から、胸の奥から熱いものが滲んでくる。自然に笑みが零れる。
まだ夜の気配を残した空の下、しん、と無音に近い、凍てついた空気。まるで世界に二人しかいないような錯覚を覚えた時だった。
「ウォン!」
足を止めてしまった二人に、待ちきれなくなった大型犬チビ太が早く行こうと訴える。二人して、互いに苦笑する。
「行こうか」
「はい」
早く早くと急かすチビ太を宥めながら、速足で歩き出す。手をつないだままで。
* * * * * *
「先生、なんだか機嫌がいいですね」
「そう……かな」
順也に指摘され、どきっとした。
確かに機嫌がいいことにはいい。だからといって、自分の感情を垂れ流しにしたつもりは微塵も無いつもりだ。つもりではあるが、気が緩んでいるのは認めざる負えない。
気を引き締めなければ……。
公私の線引きをしっかりせねば、学生である彼女と節度ある交際は望めない。
同じ空間に彼女と居て、はたして「公」の自分を保てるか。それが今後の誉にとって、大きな課題であった。
「先生、駅弁どっちにします?」
順也が差し出してきた駅弁は、どちらも肉系の弁当だった。牛肉か豚肉か。いかにも若者らしいセレクトだ。
「私はどちらでも。君が好きな方を選んでくれ」
「そうですか? じゃあ遠慮なく。あ、ビール飲みます?」
牛肉の弁当を誉に差し出すと、今度は無邪気に缶ビールを出してきた。しかもロング缶である。
「移動中と言えども、今は仕事中だ」
すげなく断るが、珍しく順也は食い下がる。
「せっかく年末なんですし、一本くらいどうですか?」
ロング缶を引っ込めると、今度はショート缶を勧めてくる。
「しかし」
「ダメですか?」
今度はしょげた顔になる。まるで大型犬がしょんぼりしているような様子に、若干迷いが生じる。
せっかくの気遣いだ。それに、彼の言うとおり、今日は泊まるだけだ。後で前泊申請を取り止めにすれば問題ないだろう。
「……一本だけ、付き合おう」
誉は缶ビールに手を伸ばすと、順也の表情が嬉しげに輝く。
「ありがとうございます。お疲れ様でーす」
缶同士をぶつけ合う。カコン、と鈍い音を立てる。
やれやれと思いつつ、口にしたビールはよく冷えて美味かった。順也セレクトの肉弁当は、さぞかしビールに合うだろう。
「そういえば、橘先生はどうした?」
駅弁の蓋を開けつつ、隣りの空席に目を向ける。
同じ新幹線に乗るはずだったはずだ。駅のホームで3人で待ち合わせをしていたはずなのに、駅弁と共に誉を待ち構えていたのは順也だけだった。
「はい。ちょっと用事が入ってしまったようで、後の新幹線で来るそうです」
「そうか……」
「現地集合でよろ! と連絡が来ています」
はい、と順也は携帯電話を誉に向ける。液晶画面には順也が告げたメッセージと、少々気味が悪い白い人間がポーズを取ったスタンプが表示されている。
この帰省ラッシュで乗車率が100%以上の中、自由席では恐らく席には座れないだろう。
「……ところで先生」
「うん?」
缶を煽ったタイミングで、順也が言った。
「ひなたちゃんとくっついたんですか?」
思わずビールを吹きそうになった。しかし、ここは長年身に付いたポーカーフェイスをフル稼働して、何食わぬ顔でやり過ごす。
「どうしてそこに、山田さんが出てくるんだ?」
冷めた口調で告げた後、付き合っていられないと言わんばかりに眉を顰める。
「なんでも色恋に結び付けられても困る」
そして弁当を口に運ぶ。冷えているが肉が実に美味い。
すると、順也はビールを飲みながら肩を震わせ始めた。
「……確かに、困りますよね。はい、わかりました」
にっこりと笑う。何やら含みを孕んだ笑みだ。
「先生とは関係ありませんけれど、実は、ひな……山田さんから恋愛相談を受けていたんですよね。どうやら相手は社会人らしくて。どんな相手か気になりますが、上手くいっているといいなと思っているんですけど、どうなったんでしょうね?」
「…………」
まさか彼に、そんな相談をしていたとは。
一体何を話したというのだろう。一体どこまで話したというのだろう。順也に問いただすわけもいかないし、聞いたら墓穴を掘りかねない。
冷や汗が止まらない。
「彼女、良い子だから大丈夫だとは思うんですけど、上手くいかなかったら慰めてあげないとなあ。ね、先生」
彼はわかってて言っている。ひなたの相手が誰なのかを。間違いない。
誉は眉間に皺を寄せると、重たい溜息を吐いた。
「……山田さんは魅力的な女性だから、きっと上手くいっているだろう」
すると、順也は笑みを深めた。
「そっか、よかった」
返す言葉が見つからない。堪らず、手にした缶ビールを一気に呑み干した。
「先生、もう一本いかがですか?」
どうやらまだ用意していたらしい。律儀にショート缶を差し出してくるあたり、彼らしいと思ってしまう。
「はい先生、乾杯しましょう。ひなたちゃんと彼氏が上手くことを祈って」
誉は諦めの気持ちで缶ビールを受け取ると、勢いよくプルタブを開いた。
「乾杯!」
再び缶を合わせると、今度は小気味いい音が鳴った。
おわり
能面准教授に恋はできるか 小林左右也 @coba2018
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