冬の章・21 どうして、と問われても
ひなたは肩で息を吸い込むと、薄っすら赤らみだした顔を真っ直ぐに向けた。
「わたし……先生のことを、ですね」
ここまで聞いて、今更ながら気が付いた。
これは……告白だ。恐らく、いや間違いなく恋の。
まだ自分の気持ちが決まっていない。彼女の告白を止めなければ。だか、止めると言ってもどうすればいいだろう。
必死に考えるが思い浮かばない。焦る気持ちとは裏腹に、どうすることもできない。
山田さん、と名を呼ぼうとしたが、ひなたの方が早かった。
「最初は、怖かったんです」
しかし、ひなたの口から溢れたのは期待していたものではなかった。
怖かった?
知っている。すでに本人から聞いているのだから。だが、違う告白を期待していたせいもあり、誉は戸惑う、いや肩透かしを食らっていた。
呆けた誉の様子に、ひなたは慌てて弁解する。
「あ! いえ! 今は違います! あの、入学前に……」
「ああ、コロッケの件だろう?」
「はい……」
なんだ、そのことか。
恋の告白かと思って身構えたが、とんだ勘違いであった。
まったく馬鹿か。俺は。
ふと、出会って最初の頃を思い出した。
あの時も、何かを言いたげに、しかし何も言えなくて真っ赤になって走り去る彼女を見て「これは恋の告白か?!」と勘違いし、独り相撲を取っていたことを。
誉は苦笑する。またも同じ轍を踏んでしまうとは。どれだけ自意識過剰なんだと、笑うしかない。
「……知っている」
「え、ええっ!」
酔っていたから覚えていないのだろう。まあ言われなくても、明らかに態度に出していた自覚はあったのだろう。
「すみません!」
「謝らなくていい。自覚はあったし、実は何度か言っているぞ山田さん」
「ええっ! そうでしたっけ……」
正面を切って言われると、さすがに心が痛い。しかし、今はきっと違うのであろうと思いたい。そうでなければ、改めて本人に言わないだろう。恐らく。
「私は愛想もなければ、感情の起伏も少ないから仕方がない」
「そんなこと、ないです」
「いや、そんなことあるだろう」
「今は怖くないです! 最初の印象と違っていて、面白いといいますか」
面白い?
つまらないと言われたことはあるが、面白いと言われたことは……篠原くらいだろうか、そんなことを言うのは。
「篠原にあることないこと吹き込まれたのか……」
「え、篠原さんですか?」
きょとんと、ひなたは首を傾げる。どうやら篠原に良からぬことを吹き込まれたわけではないらしい。
誉は誤魔化すように咳払いをする。
「いや……そんなことを言って人をからかうのは、篠原くらいだったものだから」
「あ! いえ! 面白おかしいとかじゃなくて……興味深いといいますか、意外だったいいますか、人って色んな面があるんだなあって思ったと言いますか」
弁解しようと、彼女は真っ赤な顔のまま頑張っている。
興味深い、意外、か。
フォローしているようだが、フォローにまったくなっていない。
「だって。今は……先生のこと、怖いだなんて少しも思っていませんから」
「どうして?」
確かに。最初はあんなに怯えていたというのに、いつの間にか普通に会話を交わし、笑うようになっていた。
だが、その理由はなんだろう。
「どうしてって…………」
ひなたは困ったように眉根を寄せる。
「……どうしてでしょう。あの、わからないわけではなくて……上手く言い表せなくて……」
必死に言葉を探そうとするひなたを見つめながら、ふと思う。
それなら、自分だって同じだ。
なぜ、彼女を好きになったのか。
わからない。だが、理由がないわけではなく、彼女と同じく上手く言い表せないだけで。
だから、彼女に「どうして」を強要することはできない。
「……すまない」
「いえあの、すみません……上手く説明できなくて」
「いや、そうじゃなくて」
誉は力が抜けたように笑う。
「どうしてと問われても、困るのは私も同じだと思ったんだ」
「え……?」
唐突な誉の言葉に、ひなたは戸惑うように瞬いた。
「私も、同じだ。どうして、と問われても上手く言えない。けれど……」
具体的な理由を求めても仕方がない。
自分だって明確な理由はわからないが、日々を積み重ねて、いつのまにか彼女のことが好きになっていた。
いつの間にか姿を目で追っていた。
他の男子学生と楽しげに話している姿を見て胸が痛んだ。
言葉を交わしただけで、心が満たされた。
触れたら、もっと触れたいと思った。
年齢が、立場が。いくら言い訳をしても無駄だった。
いつの間にか、気持ちが溢れていた。
もう自分の気持ちに抗えそうにないと、誉はようやく観念した。
「気づいたら……いつのまにか好きになっていた、君を」
思ったよりも、するりと言葉が滑り出た。
彼女はきっと驚くだろう。そして、ひなたの反応は、誉が予想した通りだった。
「…………」
大きな目をさらに見開いて、穴が開くほど誉を見つめていた。その表情には、ただ驚きしか浮かんでいない。嫌悪や不快感は感じられないことだけは幸いか。
ああ、困らせてしまったか、と僅かに後悔の念が掠めるが、不思議と気持ちは軽やかだ。
「まあ……今の話は気にしないで欲しい。私個人の、一方的なものだから」
ひなたは頭を振る。まだ茫然としているようで、握り締めた両手が小刻みに震えている。
「もし気不味いようなら、他の研究室のバイトを紹介しよう」
すると、くしゃりと表情を歪めると、ひなたは再び頭を振った。
「いいえ、いえ、そうじゃなくて……!」
ひなたは腕を伸ばすと、まだ震える指先で誉の袖を引く。
「……山田さん?」
震える指は誉の袖を掴んだまま離そうとしない。
彼女の足元にしゃがみ込み、俯く彼女の顔を覗き込む。
「……先生、もう一度」
ぎゅっと袖を握り締めると、消え入りそうな声で囁いた。
「もう一度、言って貰えますか」
「他の研究室のバイトを」
「その、前です」
恥ずかしげな上目遣いの視線とぶつかり、心拍数が急速に加速する。
もう一度、と乞われる意味に気付かない程鈍くはない。しかし、改めて言うとなると、妙に緊張してきた。
誉は息を吐くと、袖を掴むひなたの手をそっと外した。そして震える小さな手を、そっと掌で掬い上げる。
気付くと、まるで彼女の前に跪くような姿勢になっていた。柄ではないと頭の片隅で思うが、そもそも自分が恋することすら柄ではないのだから。
だが彼女が「もう一度」と言ってくれたのだ。ご託はいいから、言ってしまえ。
誉はなけなしの勇気を奮うと、真っ直ぐにひなたを見つめる。ひなたも不安そうに瞳を揺らしながら、静かに誉を見つめていた。
心臓の音が煩くて堪らない。息を呑み込むと、誉は擦れた声で告げた。
「……好きなんだ、君が」
もっと気の利いた言葉で告げたかったのに。
このひと言がやっとであった。
ああ、まったく、この体たらくめ。と心の中で反省会が始まりそうになった時だった。
「わたしも……です」
ひなたが誉の手を両手で包み込んだ。そして、今にも泣き出しそうな、けれど喜びを噛みしめるような笑みを浮かべた。
「……わたしも好きです」
「……」
息をするのも忘れて、誉は目の前の彼女を見つめる。
「先生のことが、大好きです」
気付いたらひなたが腕の中にいた。どうやら無意識のうちに、彼女を引き寄せていたようだ。床の上に座り込むように抱き合っていた。
職場で何をしているのだ。もし誰か来たらどうするのだ。
けれど、腕の中にいる彼女が温かくて、柔らかくて、離れがたくて。
胸の奥から滲み出た熱が、じわじわと身体中に広がっていく。
好きな人が、自分のことを好いてくれている。
たったそれだけのことだ。けれど、たったそれだけのことが、これほどにも嬉しいなんて知らなかった。
彼女の好意は感じていた。だが、それが恋愛感情なのか、単に教員として親しみを感じているだけなのかわからなくて、彼女の一挙一動に浮かれたり落ち込んだりしていた。
忘年会の帰り道に唇を重ねた。しかし、あれは妄想や夢だったのではないかと思い始めていたのに。
こうして、自分の腕の中にいるなんて。込み上げる感情の赴くままに、強く強く抱き締める。
とくとく。心臓の鼓動を直に感じる。自分の心臓ものからなのか、彼女の心臓からなのかわからないほどに。お互いの身体が溶け合うかのように。
「っ……」
耳元で苦しそうに息を詰める音を聞き、そっと腕の力を緩める。誉の肩に顔を埋めていたひなたが、小さく息を吐いて顔を上げると、至近距離で目が合った。
今まで見たことのない、蕩けるような表情で誉を見つめる。もしかすると、ひなたの目に映る自分も、同じような顔をしているのだろうか。
引き合うように距離を縮める。あと少しで唇が触れ合うというところで、誉は我に返る。
今の状況で触れてしまったら、歯止めが効かなくなる自信がある。
悪魔と天使、いや煩悩と理性とでもいうのだろうか。一度したなら二度目も大差ないと片方が囁き、もう片方は堪えろと訴える。
そうだ。自分は教員、彼女は学生。二人の関係が変わったとしても、お互いの立場は変わらないのだ。ましてやここは職場である。そのことを忘れてはいけない。
一瞬だけと固く抱きしめる。そして、理性を総動員させ拘束していた腕を解いた。
「すまない……つい、浮かれてしまった」
「先生も、浮かれることがあるのですか?」
「それは」
そんなことを、改めて聞かれると恥ずかしくて堪らない。しかし、敢えて言おうではないか。
「……嬉しいことがあれば、仕方ない」
ひなたの顔を直視できず、目を背けてしまう。
「あの、先生」
少しだけ弾んだ声が、誉を呼ぶ。
「うん?」
「すみません、あと少しだけ」
ひなたは恥ずかしそうにそろそろと、誉の胸に額で触れきた。
「少しだけ……このままでいいですか?」
誉のシャツを指先で掴む。その頼りない感触が心の柔らかいところをくすぐった。
「少しだけ……」
頬に柔らかい髪が掠める。ふわりと甘い匂いに酔いそうになる。
「あと少しだけなら」
はたして、あと少しだけで済むだろうか。
いいや、済まさねばならない。何故ならここは神聖なる学び舎であるからだ。
理性と煩悩が再度せめぎ合う中、言い訳をしながら、彼女の再び小さな肩を抱き寄せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます