春の章・05 募る! アルバイト

 自宅に戻った頃には、すっかり陽が落ちていた。

 靴を脱ぎながら照明のスイッチを入れると、殺風景な室内が浮かび上がる。

 ひとり暮らしを始めて、そろそろ一か月が経とうとしているが、未だに生活感というものが感じられない。もしかすると、段ボール箱がインテリアと化しているせいもあるかもしれない。

 自分でも今の状態はいいとは思わないが、どうすれば生活感というものが出るのか疑問である。住み続けているうちに、自然と滲み出てくるものだと思っていたが、どうやら自然発生するものではないらしい。

 近いうちにホームセンターにでも足を運んだ方が良さそうだ、などと考えながら玄関を上がる。

 玄関から段ボール箱の隙間から這い出るようにキッチンを通過すると、書斎とする予定の六畳間だ。しかし、どうにか置いたパソコンデスク以外は段ボール箱の山だ。

 そして、襖で仕切られた隣の六畳間は寝室だ。この部屋は唯一今の時点で一番物が少ないのはこの部屋だ。

 布団と衣類が入った段ボール箱が数個。さすがに寝る場所だけは、引越し初日に確保した。現在万年床になっているが、同じ敷きっぱなしでもベッドにした方が良さそうだ。

「近いうちにベッドでも買うか」

 ひとりごちながら、窓際に広げた新聞紙の前に腰を屈める。

 新聞紙の上には、雨に濡れた本が並べてあった。あれから二週間が経っても、本は相変わらず生乾きだ。紙面には茶ばんだ汚らしい滲みが出来上がり、紙同士が貼り着いて乾いてしまい、それはもう見るも無残な状態になっていた。

 しかし、だからといって捨てることもできなかった。まだ絶版になっていないものなら買い直せばいいとは思うが、大切にしていた本だ。ゴミとして処分してしまうのは簡単だが、簡単に割り切るのは難しい。

 落胆の息を吐き出したところに、バッグから不意に鈍い振動音が響いた。

 慌ててバッグを開き、携帯電話を取り出すと、父圭介からのメールが届いたところだった。


 件名:父さんです。

 本文:廣瀬さんとの食事会だけれども、来週の土曜日はどうだろう?


 たった一言だけのメールの内容に、誉は首を傾げる。

「……廣瀬……来週?」

 何の話だろうかと考えながら、今この家に唯一存在する家具であるパソコンデスクの上に置かれた卓上カレンダーに手を伸ばす。

 土曜日の欄には特に何も書かれていない。今度はバッグの中からシステム手帳を取り出した。四月の第三日曜日のページをめくり、自分が書いた斜め上がりの字をみて「あ」と声を上げる。

 そうだ。廣瀬さん……父圭介の再婚相手との顔合わせだ。

「とうとう来たか」

 唸るように呟くと、頭をごりごりと掻き毟る。

 圭介から再婚の話を聞いてからも、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。近いうちに一度顔合わせをしようと圭介に言われていたが、年度末と年度始めは仕事がてんこ盛りだ。しかも引越しという大仕事まで追加してしまったものだから、ひと段落してからという約束だった。

「はあ……」

 畳の上に座り込むと、憂鬱なため息をついた。

 正直なところ気が重い。しかし、こればかりは避けては通れない。勝手に仲良くやっていてくれれば十分だとは思うが、一応は家族になる相手なのだ。

 返事を返さなければなるまい……と思いながら携帯電話を弄んでいると、突然手の中で激しく振動し始めた。

「うわ」

 思わず携帯電話を落としそうになる。液晶画面には「小原順也」と表示されている。彼は誉のゼミにいる学生だった。

「はい。飛沢です」

 どんなに驚いた後でも、感情が表に出にくい体質がありがたい。

『あ、先生。小原です。今大丈夫ですか?』

 駅かどこかから掛けているのだろう。周囲の喧騒が軽いノイズとなって耳に届く。

「ああ、大丈夫だ」

 誉はのろのろと立ち上がりながら、スーツの上着を脱ぐとエアコンのスイッチを入れた。

『この間言っていたバイトの件ですけど』

「バイト……ああ」

 週に一、二回、資料の入力や整理をしてくれる学生を募集していた。しかし時給もたいして良くもない上、業務内容にたいして面白みを感じてくれない学生が多いせいか、なかなか応募してくる者がいなかった。

『見つかりました』

「……見つかった?」

 一瞬耳を疑った。反応があまりにも無いものだから、つい順也に「心当たりがあったら紹介して欲しい」と頼んでしまったが、こんなにもすぐに見つかるとは思わなかった。

『はい。うちのサークルに見学に来た新入生に声を掛けてみたんです。問題ないですよね?」

「ああ……特には構わないが」

『じゃあ、連れて行きますね。先生の都合が良い日があったら教えてください』

「明日なら三時以降なら空いているが」

『わかりました。明日連れて行きます。五時でいいですか?』

 取り敢えずと思って明日の予定を口にしたものの、まさか早速明日に連れてこられるとは思わなかった。

「では明日、よろしく頼む」

『はい。それでは失礼します』

 やはり彼に頼んで正解だったな。

 小原順也は礼儀正しく、人当たりもいい。しかもなかなかの男前ときた。学生だけではなく、教職員にも彼のファンがいるとかいないとか……。兎に角、交流関係も広い順也に頼んだのは正解だったようだ。 


 そして、翌日の夕方。順也は約束通りにアルバイト希望者を連れてきたのだった。

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