春の章・06 アルバイトがやってきた
翌日。今日は朝から天気が悪かった。しかも四月の半ばを過ぎたというのに、まるで冬のような寒さだった。
誉の研究室がある文学部棟は学内で一番古い建物だ。一日中、日の当らないエントランスは一年中薄暗くて肌寒い。四階の端にある誉の研究室は、冬は極寒、夏は灼熱地獄のような室温になる。エアコンを付けても大した効果は無い。無いよりはマシといったくらいであろう。当然今日みたいな天気の日は、非常に寒い。エアコンよりも、稼働中のコピー機の方が暖かいが、本日は残念ながらコピーを取る用が無い。
吐く息が微かに白く染まる。ふとキーボードを叩く手を止めると、液晶モニタの右隅にある時刻に目を向ける。
あと三分で五時だ。そろそろ順也がやって来る頃だ。
そのまま薄っすら曇ったガラス越しの景色へと移動させる。
……雨か。
しかしそこから見える光景など、大して面白みがあるわけではない。隣にある本館へ続いている一階通路と、学生たちが勝手に止めている自転車が並んだ中庭のようなものだけだ。今日は朝から雨降りであるから、さすがに自転車の数は少ないな、という感想くらいしか抱けない。
だがこんな寒い雨の日になると、あの日のことを――まだ半月も経っていない、春休みの出来事を思い出す。
――ホントにごめんなさい。
まだ耳に残る雨音混じりの泣き出しそうな声。
手元に残った空色の傘。
どう考えても不注意な相手の少女が悪いというのに、罪悪感という檻が腹の底に沈殿しているかのようだ。
よくよく考えてみれば、自分も少々大人げが無かったことは否めない。誰だって過ちはあるのだし、謝罪だってしていたというのに。
いくら真正面から体当たりされて腰を痛めたからといって。
いくら大切な本がずぶ濡れになって駄目になったといって。
いくら引き始めの風邪が悪化した(これは自業自得だ。相手は関係がない)といって……相手の謝罪に聞く耳を持たず腹を立てるとは、狭量な人間だと思い知る。
重たいため息を付いた時、ドアが軽快な音を立てた。
「失礼します」
礼儀正しい声と共に、長身の青年が現れた。小原順也だ。
液晶モニタの時計を見ると、五時五分前。相変わらず律儀な青年である。
余談であるがこの小原順也という青年は、学内では評判のイケメンという人種である。整った顔立ちと、人懐っこい割りには律儀さも持ち合わせ、学生を始め教職員女性陣の人気を集めているらしい。
確かに男の目から見ても「ああ、こういう人がイケメンと呼ばれるのか」と納得してしまうくらいである。
くっきりとした目鼻立ちは、最近流行りの芸能人に似ていないこともない。しかし、あのあちこちに跳ね上がった毛先は、敢えてそのような形になっているのか、はたまた寝て起きたまま手入れをしていないだけなのか、いまいち判別がつきにくい。
そんなイケメン青年の順也は、誉の元へと直行すると「連れて来ましたよ、先生」と破顔する。
非常に魅力的な無防備な笑顔である。同性である自分ですら魅力を感じるのだから、異性はにとってはさぞかしであると考える。
「先生、彼女に入ってもらってもいいですか?」
「ああ」
すると順也はドアを少しだけ開いて、廊下で待っているアルバイト志望者に声を掛ける。
「ひなたちゃん。どうぞ」
「は、はい!」
少女の緊張した声が、生真面目に返事をする。
数秒後、恐る恐ると研究室に足を踏み入れてきたのは、小柄な少女だった。まだ高校生らしさが抜けない雰囲気で、染めた栗色の髪も、頑張って上向きにされた睫毛や、艶やかなグロスを塗った唇もよくわからないがしっくりこない。
「あ、し、失礼します」
誉に向かって少女は軽く会釈をする。しかし、その動きはまるでロボットのようにぎこちなく、絵に描いたような緊張ぶりだ。
「先生。こちらぴかぴかの一年生、文学部の山田ひなたさんです」
最初はずいぶんと小柄に見えたが、そうでもない、標準的な身長だ。低く見えてしまうのは、長身の順也と並んでいるせいだろう。
肩できれいに揃えられた栗色の髪。これが真っ黒なら市松人形みたいだ。大きな垂れ気味の目のせいで少々頼りなさ気な印象を覚えるが、悪い人間ではなさそうだ――と大まかな感想を抱く。
「まあ、座ってよ」
椅子の前で直立不動の姿勢でいる彼女に気遣うように促した後、満面の笑顔で誉に合意を求める。
「かしこまった場じゃないんだから。ね、先生?」
事後に確認するなと言いたいところだが、まあいい。
「ああ、どうぞ」
着席するのは自己紹介の後に面接官が促してからというのが常識だとは思うが、確かに順也の言う通りでもある。しかし、学生らが社会に出てから必要なものは、些細な場でも示していく必要があるのではないかと考えていたが。
……そうだった。
今更ながら自分の出番が回ってきたのだと気が付いた。
「はじめまして飛沢です」
軽く会釈をしてあまりにも簡単過ぎる自己紹介をすると、彼女は慌てたように立ち上がった。
「はじめまして。山田ひなたと申しますっ」
勢い良く頭を下げ、そして勢い良く顔を上げた時、ちょうど誉と視線がぶつかった。
「っ!」
緊張に強張ったひなたの表情に、一瞬驚きの色が走ったような気がした。
なんだ?
軽い疑問を抱くものの、初対面の人間に驚かれるような覚えは無い。
気のせいだと思うが、みるみる顔色が悪くなっていくのはさすがに気にはなる。
「では山田さん。簡単に自己紹介をお願いします」
「は、はい。文学部……」
言い掛けて、はっと口をつぐむ。さっき順也からすでに説明があったことを思い出したのだろう。彼女は考えるように一点を見つめるが、ややあって口を開いた。
「しゅ、趣味は……寺社仏閣巡りです」
まだ続きがあるのかと思って待っていたが、待てど暮らせど続きは語られることはなかった。顔はますます青ざめて、唇まで震えている。
「自己紹介ありがとう」
「すみません……」
恥じ入るように顔を伏せると、さらりと髪が流れる。ずいぶんと内気なようだ。この程度の面接で緊張していては、就職の時大丈夫であろうかと思うのは、余計なお世話であろう。
「では……簡単に業務について説明しよう」
「はい、お願いします」
真っ直ぐな良い返事だ。しかし裁きを待つ罪人のように思いつめた面持ちで、こちらを見つめられるのは居心地が悪い。
「取り敢えず、着席してはどうだろう」
「え、あ、はい!」
彼女は、ぱっと頬を赤らめ慌てて着席する。どうやら椅子に座るという行為を失念していたらしい。
青くなったり、赤くなったり、まるで信号機のようだな。
我ながら失礼だとは思いつつ、口元が緩みそうになるのを咳払いで誤魔化した。
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