春の章・04 入学式

 あの雨の災難から約二週間後、年度が変わり、入学式の日を迎えた。

 一週間寝込んだ後、ようやく出勤できるようになったものの、体調は絶不調。もたつく身体を引きずるように業務をこなし、ようやく食欲も体力も回復してきたと実感したのは、ほんの二、三日前。

 今日の入学式の参加も迷ったが、式の後にあるオリエンテーションで説明役が割り振られていたので出ないわけにはいかなかった。

 ようやく研究室に戻る途中、篠原が声を掛けてきた。

「あ、飛沢先生」

 聞こえなかった振りをしたいところだが、この男は振り返るまで呼び続けるのはわかっている。

 この男……とは、篠原真人。誉の高校時代からの友人であり、文学部事務室の職員である。特に親しかったわけでもないのに、妙な縁があるようだ。これを腐れ縁とでもいうのだろう。

 どうもこの男の相手をしていると、生気を抜かれたような疲労感を感じずにはいられない。

「おーい、飛沢先生ってば」

「……なんだ」

 仕方がないので立ち止まる。篠原も今日はスーツ姿だ。普段もそれに近い恰好はしているが、ネクタイを締め、ジャケットを羽織ると、真面目な職員らしく見えるのだから不思議なものだ。

「あれから体調はどう?」

 早足で誉に追い付くと、肩を並べて歩き出す。

「ぼちぼちだ」 

「歳取ると回復が遅くなるよねー」

 思い当たる節があるので、つい言葉に詰まる。

 確かにその通りだ。若い頃に比べると、風邪の直りもずいぶんと遅い。だが同意するのも癪なので無言でやり過ごそうとしたが、篠原があからさまに顔を覗き込むので黙っているわけにはいかなくなった。

「……なんだ」

 何を言いたいのか大体わかっている。眼鏡を指先で押し上げると、篠原の視線から逃れるように顔を背ける。

「眉間の絆創膏。どうしたの?」

 篠原は眉間に貼られた絆創膏を指差した。

 ……気づかれた。

 前髪で隠れているから誰にも気付かれないと思っていたのに、あっさり篠原に見つかってしまうとは。しかし下手な嘘を吐いて誤魔化す理由もない。

「火傷だ」

「寝煙草?」

「煙草は吸わない」

「じゃあ、どうしたの?」

「別に、どうでもいいだろう」

「えー気になる」

 歩いても歩いても、何故だか篠原が付いてくる。よく考えてみれば、研究室も事務室も同じ建物にあるのだから、方向が同じで当たり前である。

「で、どうしたの?」

「どうでもいいことだ。気にするな」

「隠されると、ますます気になるなあ」

 気になると言われても、言いたくないものは言いたくない。まったく面倒だ。しかしこのままだと、言わない方が後々面倒になりそうだ。

 では望むどおりに言ってやろう。

 そう。理由を知ってしまえば、興味がたちまち失せるに違いない。失せることに期待をしたい。

「揚げたばかりのコロッケがぶつかった」

「コロッケ? 何それ?」

 肝心なことは追及しないくせに、どうでもいいことばかり突っ込んでくるのだから、まったく腹が立つ。

「どうもこうも、コロッケはコロッケだ。それ以上もそれ以下も無い」

「ぶは」

 案の定笑われた。しかも、失笑に近い笑いである。

「えー何それ。もっとさ、それらしい理由考えなよ」

 篠原はケラケラと笑う。どうやら信じていないらしい。だが、困ったことに事実なのだ。だから他の理由などない。

「ま、誉くんにしては面白い冗談だったよ」

「……そうか」

 冗談か。それなら、そういうことにしておこう。

「でもさあ、風邪。入学式までに治ってよかったよね」

 案外あっさりと火傷の件は終わってしまった。ほっとした半面、何だか拍子抜けしてしまう。安堵と共に、ほっと息を吐いて、しみじみと呟く。

「……病を患うと、健康のありがたみというものを感じるものだな」

「誉くん、爺むさいよ」

 篠原は嫌そうに眉を顰める。

「お前も同い年だろうが」

「誉くんは僕より精神的には十歳以上は上って感じだよね」

「精神的に達観しているということか?」

「じゃあ、そういうことにしておいていいよ」

 いちいち言葉に棘を感じずにはいられないが、今に始まったわけではないので聞き流す。

「でさ、風邪の時、誰か看病してくれる人でもいたの?」

 再び言葉に詰まる。

 いい歳をして父親に頼ってしまったとは言い辛い。しかし、下手に誤魔化しでもすれば、また妙な勘繰りをされても敵わない。

「父に多少買い物を頼んだ」

 正直に答えると、篠原は面白くも楽しくもなさそうな顔になる。

「…………あのさあ、その歳でまだ親父さんの世話になってるわけ? 普通は逆だよね。親ひとり子ひとりなんだから、もうちょっとしっかりしないといけませんよね、飛沢先生?」

 まったく。言わなければよかったと後悔する。

「いつまでそんなだから彼女できないんだよ」

 また言うか。

 誉はため息をつきたくなるのを堪えて、控えめに反論する。

「大きなお世話だ」

「いやいや、友人としてはやっぱり幸せになってもらいたいしさ」

「色恋沙汰ばかりが幸せではないだろうが」

「そりゃそうだけどさ、それも幸せのひとつじゃない」

「…………」

 篠原の意見も一理ある。しかし、病気の世話をさせるために特定の相手を作るというのは、あまり賛同できる考えではない。

 それに相手が欲しくても、恋愛はひとりでできるものではない。しかも、しようと思って出来るものでもない。

 つまり、したくても出来ないということだ。

「……自分のことくらい、自分でどうにかする」

 いもしない相手に頼るより、よっぽど建設的だ。しかし、篠原の反応ときたら相変わらずだ。

「うん。説得力、無いよね」

「うるさい」

「はいはい。でも、図星指されたからって、いちいち怒らないでよ」

「怒ってなどいない」

 篠原は苦笑すると、とんっと自分の眉間を指で指し示す。

「でもほら先生、眉間の皺。すごいですよ」

 密かに眉間の皺を気にしていることに気が付いているのだろう。篠原は少々意地の悪い目付きで、にやりと笑う。

「すっかり眉間の皺がトレードマークになっちゃってるね。だから、飛沢先生はいつも不機嫌そうだって言われちゃうんですよ」

 気にはなっていたが、トレードマークになるほどだとは思ってもいなかった。

「あ、もしかして少しは自覚していたりする?」

 無意識のうちに眉間に手を当てていたらしい。慌てて眉間から手を離すと「さあな」と誤魔化す。

「でもさー、眉間の皴もだけど、その能面っていうか、仏頂面? どうにかしないとね。何も知らない新入生が恐れをなして逃げ出しちゃうよ」

「…………おい」

 いくら何でもそこまでひどくはないと思うが、反論するほど自信もない。

 確かに今までも感情の起伏が少ないだとか、ポーカーフェイスだとかとは散々言われてきたが、よりによって能面、仏頂面とはあんまりな言い様だ。

「ほら、気にしない気にしない。今更どうにかなるわけじゃないんだしさ」

 励ますどころか、傷口に塩を塗りこむような台詞を浴びせ、誉の肩をぽんと叩く。

「でもさ、もし気になるようだったらスマイルのレッスンでもしてあげようか? はい、スマイルっ」

 篠原はこれ見よがしに満面の笑みを浮かべる。嬉々とした様子からして、絶対面白がっている。間違いない。

「得体の知れないレッスンは結構だ。放っておいてくれ」

 ようやくエレベーターホールに辿り着いた。ちょうどエレベーターが来ていたので、さっさと中に飛び込む。

「なんだよー。せっかく心配してあげているのに」

「人をからかっている暇があったら、さっさと持ち場に戻れ」

 事務室は一階のエレベータホールの斜向かいにある。事務室の扉を指差すと、捨て台詞と共に「閉」ボタンを押した。

「はいはい。じゃあ、レッスン受ける決心がついたら連絡してね~」

 営業スマイルで手を振る篠原の姿が、扉の向こうへと消える。

 ようやくうるさい奴から逃げられた。エレベーターの壁にもたれかかると、誉はひっそりとため息を漏らした――が、再びエレベーターの扉が開いた時、なぜか篠原が扉の前で待ち構えていた。

「あれーどうしたの? ため息なんかついちゃって」

 ここは四階のはずだ。

「……何故?」

 まさか四階まで駆け上ったのだろうか。

 いくら篠原が強靭な体力の持ち主だとしよう。しかし息も切らさず階段を駆け上がるのは至難の業ではなかろうか……。

 真剣に考え始めた誉を見て、篠原はにやりと笑う。

「どうして僕がここにいるのかって顔しているね?」

 無言で頷く。すると。

「やだなあ誉くん。階のボタン押し忘れちゃ、上に行かないよ!」

 ぶぶっ、と吹き出した篠原は、腹を抱えて大爆笑した。

「そそっかしいなあ、飛沢先生は」

 よっぽどおかしかったらしく、目には涙を浮かべているほどだ。

 人の失敗が一体何がそこまでおかしいのか。そもそも失敗と言うほどのことてわはない。些細なうっかりだ。

「……別にお前を楽しませるためにやったわけじゃない」

 誉が恨みを込めて呟くが、篠原はさらに笑い転げる。

 一体この男の笑いのツボがどこにあるのかわからないが、正直付き合ってもいられない。

「…………笑い死んでしまえ」

 誉は怒りに任せて「閉」ボタンを叩く。そして、今度はしっかりと四階ボタンを押した。

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