春の章・03 雨の中で

 正門を出て、並木通りを過ぎれば大通りに出る。大学と駅を挟むように横たわる二車線の通りは、主要道路と連絡していることもあり交通量は多い。だからタクシーも簡単に捕まるだろう。そうタカを括っていたが、必要な時に限ってなかなか現れないものである。


 道で待つこと約十五分。寒空の下、いつ現れるかわからないタクシーを待ち続けるのは少々辛い。

 やっとタクシーが現れたと思っても、すでに客を乗せているので、誉の目の前を素通りしていく。走り去るタクシーを見送る度に、なんとも物悲しい気分が押し寄せる。


「……参ったな」


 胸に詰まった憂鬱をため息と共に吐き出すと、たちまち眼鏡のレンズは真っ白に曇る。


 タクシーはまったくつかまらない。荷物は重たい。一度大学に戻ろうかと思った矢先だった。


 ぽつん。額に冷たいものが当たる。何だろうと思い、空を仰ぐと今度は眼鏡の上に落ちてきた。


 雨……?


 気が付くと鉛色の分厚い雲が、頭上を覆うように広がっている。天気予報をチェックしていなかったと思い出すが、どこからともなく冷たい風が吹き抜け、ぱたぱたと雨粒が落ちてきた。


 急な雨に驚きながら、折り畳み傘を出そうとバッグの中を探るが……無い。今日に限って折り畳み傘を忘れてしまったのだと気付いたのと同時に、足元に置いたままの本の存在を思い出す。


 反射的に本が詰まった紙手提げ袋を両腕に抱え上げる。ただ「本が濡れてしまう」という思いだけで動いた時だった。


 目の前が空色に染まる。それは空色の傘が、眼前に迫っているのだと気づいた時には遅かった。


 ぶつかる!

 身構えるが遅かった。


「っ!」

「きゃあ!」


 身体に強烈な衝撃と黄色い悲鳴。受け身を取れず、アスファルトの上に転倒する。途端、身体に圧し掛かる重量と、顔に押し付けられた熱い物体。痛みと熱さと驚きがごちゃ混ぜになって声も出ない。


「いたたぁ……」


 耳の傍で声がする。痛いのはこっちだと思いつつ、痛みと重みを堪え、きつく閉じていた瞼を開く。


 目に映るもの、すべてが不明瞭であった。はたと気づいて目元を触れる。掛けていたはずの眼鏡が無い。ぶつかった時に吹っ飛んだのだろう。


 そのぼやけた視界に最初に入ってきたのは、重たげな黒い塊。それが黒い髪だと、やや遅れて気が付いた。


 濡れて白い頬に張り付いた髪を払い退けもせず、黒髪の主はのろのろと身体を起こす。


 雨に塗れそぼる黒髪。白い頬に張り付いた様子は、ちょっとしたホラーである。とはいえ、いくら視力が低くてもこれだけの至近距離だ。相手は妖怪変化やホラー映画に出てくるような幽霊でもなく、この近辺の高校に通う学生だとわかる。しかし女子高生という生き物は、ある意味妖怪や幽霊よりも得体が知れない。


 一刻も早く退いてもらいたいが、相手は現状をいまいち理解していないようだ。しかし、次の瞬間、自分が下に敷いた相手の存在に気づいてくれたようだ。


「ご、ごめんなさい!」


 我に返った少女は弾かれたように跳ね起きた。慌てて誉の上から降りると、今度は悲壮な声を上げる。


「ああ! わたしのコロッケが!」

 コロッケ?


 誉が身じろいだ途端、胸元から茶色い物体がが転げ落ち、濡れたアスファルトの上に落ちた。


 さっきの熱い物は、これだったのか……。


 恐らくこの女子高生はコロッケを歩きながら食し、前方不注意で激突してきたのだろう。鼻先に触れてみると、ぬるりざらりとした感触が。コロッケの油とパン粉がべったりと付着していた。油とパン粉と雨で汚れた顔を、無造作に袖口で拭う。普段はしないことだが、今更服の汚れを気にする状態ではなかった。つまりヤケクソだ。


 気づくと、手提げ紙袋に入っていた本もアスファルトの上に散らばり、雨に打たれている。ろくに見えやしないが、大粒で叩きつけるような雨量だ。本はすっかり雨水を吸い込んでいることだろう。

 誉は半ば諦めながらも、本を回収しようと立ち上がろうとした。


「う……!」


 途端、腰に鋭い痛みが走る。


 痛い。実に痛い。しかしこのまま座り込んでいては、濡れ鼠だ。どうにか立ち上がろうともがいていると、目の前に人の気配を感じる。


「あの……大丈夫、ですか?」


 恐る恐る手を差し出したのは、元凶である女子高生だ。頬にべったりと髪を張り付かせたまま手を差し出す。


「……いえ、結構です」


 いい大人が尻餅をついている状況は、どうにもこうにも気恥ずかしい。ここは素直に女子高生の助けを借りるべきだろうが、意地の方が勝ってしまった。


 足腰が痛むのを堪えながら、どかこうにかやっと立ち上がった頃には雨は本降りになっていた。まるでシャワーを浴びているような雨量では、本はもう駄目だろう。わかってはいるが、そのままにはしておけない。


 そうだ、眼鏡は?


 気付けば眼鏡までもない。眼鏡を探すか、ひとまず本を回収するか。もちろんどちらも大事ではあるが、まずはこの視力でも目に入る本を選ぶことにする。


 0.1以下の視力の目を凝らし、腰の痛みに耐え、早春の冷たい雨に身震いしながら、本を必死に回収する。


 腰を屈めるたびに痛みが走る。心頭滅却すれば火もまた涼し、の精神でどうにかなると思ったが。


「っ!」


 やはり痛い。滅却しても痛いものは痛い。目を凝らし、手探りで本を一冊一冊拾い上げる。濡れた本は、ずっしりと重たい。本を抱えた誉の背を、容赦なく冷たい雨が打ち付ける。


「あの、本を……」


 気弱そうな声が、雨音と共に落ちてきた。のろのろと顔を上げて驚いた。


 意外だった。もうとっくに立ち去ったと思っていた。さっきの女子高生が、濡れた本を抱えて立ち尽くしていた。


「結構濡れてしまいました……ごめんなさい」


 本以上に、少女の身体もずぶ濡れだった。濡れた黒髪を頬に張り付けたまま、怯えたように俯いている。


 少女にも非があるとは思うが、誉自身にもまったく無かったわけではない。しかも彼女はこうして深く詫びているのだから丸く収めるのが大人の対応だとは思う。


 しかし今の誉は理性的に対応するにはあまりにも余裕がなかった。少女の怯えた視線が、誉の視線とぶつかる。

 駄目だ。今は感謝の気持ちなど欠片も沸いてこない。


「……いえ」


 少女の手から本を奪うように受け取ると、投げやりな気分で転がっていた手提げ紙袋に手を伸ばす。転んだ拍子に取っ手は千切れてしまっているが、防水加工されているから一応はまだ使い物になる。


「あの」


 黙々と本を詰めていると、頭上から声が掛かる。


 まだいたのか。

 少女の存在には気付きながらも、そのうち立ち去るだろうと知らん振りして作業を続ける。


「ホントに、ごめんなさい」


 頭上から少女の声が落ちてくるのと同時に、ふわりと開いた傘が被せられた。


 急に動こうとした途端、またもや痛みが邪魔をする。ようやく誉が立ち上がった頃には、すでに少女の姿はなかった。突然の雨に慌てふためく人々の間に少女の姿を探す。だが雨はますます雨脚は強まり、アスファルトを容赦なく叩きつける。


 こんな雨の中を、傘も差さずに……。


 今更になってどうかと思う。相手は高校生。未成年相手に大人げがない対応をしてしまった己自身に罪悪感が疼き出す。


 降りしきる雨は誉の視界を覆うように、さらに激しく振り続けた。

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