春の章・02 ひとり暮らし

 それにしても、父さんは一体どこでそんな相手を見つけたのだろう?


 父圭介の職場は、自宅から自転車で二十分たらずの公立中学校だ。そろそろ管理職についてもおかしくはい年齢ではあるのだが、まだ現役として教壇に立っている。


 今年度は一年生のクラスの担任で、文化部の顧問もしている。中学校は年中行事も多く、多感な年頃の生徒を相手にするのは、想像するだけでも気苦労が多そうだ。顧問をしている部活も、文化部……何部だったか忘れてしまったが、なかなか活動的な部であるらしい。


 毎日部活にも顔を出し、休日も持ち込んだ仕事をし、暇があれば我が家の家庭菜園の世話をしたりと、どう考えても女性と付き合っている様子はなかった。


 気になるなら本人に尋ねればいいのだが、根掘り葉掘り聞くのも気恥ずかしい。再婚の話をされた時に、勢いで尋ねればよかったのだが、朝の忙しい時間帯だったということもあり、タイミングを逃してしまった。


 だがまあ、いずれわかることだ。今聞いたからどうなるわけではないのだから、急いで確認する必要もないだろう。


 それよりもだ。圭介が再婚するということは、恐らく、いや間違いなく相手はこの家に住むことになるだろう。


 いい加減、独立してもいい歳だ。独り身の父親を一人にはできないと思ってきたが、どこか甘えの気持ちもあったのかもしれない。そう決意すると、いつもは素通りしていた不動産屋の物件情報が自然と視界に飛び込んできた。


「和室六畳二間、台所三畳。四畳半の納戸と、風呂とトイレ別……か」


 窓ガラスに貼られた物件情報に足を止め、まじまじと見入ってしまう。

 しかもアパートやマンションのような集合住宅ではなく、一戸建ての借家である。しかも小さいながら庭もあると記していある。


 しかし、これで家賃が八万五千円というのは、はたして安いのか、はたまた高いのかがわからない。

 この辺りの相場はいくらなのだろう。


「だが、一戸建てというのが魅力だな」

 思わず一人ごちると。

「でしょう? お客さん」


 突然、耳元で話し掛けられて、飛び上がりそうになった。



* * * *



「あのさあ、どうしてこんな時期に、よりによって年度末の忙しい時期に引っ越しちゃったわけ?」


 誉の職場である大学の、文学部教員室の担当である一職員である篠原真人は、不満を隠しもせず、つっけんどんに訊ねる。


「色々あってな」


 父が再婚するからだとは、人には少々言いにくい。言葉を濁すと、篠原は面倒臭いと言わんばかりに憂鬱そうに文句を言い出した。


「できればもうちょっと早く書類出して欲しかったな。やっと仕事が落ち着いてきたっていうのに、少しは職員の手間も考えて欲しいんだけど」

「それがお前の仕事だろうが」

「うわ、偉そう! 誉くんのくせに生意気だ」

「……どういう意味だ」


 怪訝そうに目を細めると、篠原は誉よりもさらに鬱陶しげに目を細くする。


「いちいち真に受けなくていいから。冗談冗談、冗談ですよー」


 人を小馬鹿にしたような態度は如何なものか。しかし、いつものことだから大して気にはならない。毎度のことである。軽いため息ひとつでやり過ごす。


「ちょっと待ってて。今書類出すからさ」


 ぶつぶつと文句を言いながらも、篠原はカウンターの引き出しから書類を引っ張り出した。何種類か書類をクリップで留めると、誉にずいと差し出す。


「じゃあこれ。今週中に提出だから」

「ああ、わかった」

「どうせ不動産屋の口車にまんまと乗っかっちゃったんでしょ」

「…………」


 図星である。篠原の言うとおり、不動産屋の口車に乗ったと言えなくもない。


 父の再婚話を聞いた当日、なんとなく不動産屋へ立ち寄った。偶然良さそうな物件があったものだから、つい賃貸契約を交わしてしまったのだが、実は誉自身が一番驚いていた。


「それにしても、またどうして急にひとり暮らし?」

「別に。大した理由はない」

「あ、できたんだ。ずいぶんと久々じゃない?」

「できた?」


 すると篠原は、周囲の教職員の存在などお構いなしに「またまたーとぼけちゃって」とのたまいながら誉の肩を軽く小突く。


「彼女だよ。彼女ができたんでしょ? だからひとり暮らし始めた。違う?」


 なんて短絡的な。

 無意識のうちに眉間に皺を寄せる。


「あのな……」 


 呆れてものが言えない。篠原も誉と同い年。いい加減、浮かれた学生のような話題を、しかも職場でするのは如何なものか。


「何でも色恋沙汰に結び付けるな」

「でもさ、この歳で実家を出てるっていったら、普通は彼女ができて、そろそろ結婚って……普通思うじゃない?」

「普通がどんなものかは知らんが、違う」


 誤解がないように、きっぱりと言い放つと、篠原はあからさまに同情の眼差しになる。


「そっかあ……」


 篠原め、そんな目で俺を見るな!


 気が付くとカウンターに背を向けて座る年若い男性職員……宍戸は、モニタを見つめながら小刻みに肩を振るわせている。同じく女性職員の石原も、彼を制しながらも自らも肩を振るわせている。


 くそう、笑うなら笑え。まだ二十代の若者にはわかならいであろう。笑っていられるのは今のうちだぞと、心の中で呪詛を唱える。


「……早めに提出する」


 この場の空気が耐え難い。さっさと退散しようと書類を無造作に鞄に突っ込む。


「飛沢先生、今度合コンでも開いてあげようか?」

「断る」


 追い駆けてくる篠原の発言を、脊髄反射のように即座に跳ね退ける。そして逃げるような早足で教員室を後にした。


 ちなみに彼女いない歴は、この三月で五年目に突入。しかも父親に結婚まで先を越されてしまったなどとは口が裂けても言えもしないし言いたくもない。


 せめてもの救いは、他の教員がこの場にいなかったころだろうか。万が一、学部長の相場の耳に入りでもすれば、たちまち見合い話を持ちかけられるに違いない。片っ端から独身教員に見合いをさせるのが趣味らしい。お陰で文学部教員の独身率は低いが、結婚相手くらい自分で見つけたいものである。


 そんなこと言っているから、いつまでも彼女なしなんだよ。

 そんな篠原の声が聞こえた気がして、冗談じゃないと頭を振る。


 ふう、とため息を付きつつ、無意識に眉間に触れる。

 深い皺が刻まれている。半ばトレードマークになっている皺をリセットしようと指で摩るが、そう簡単には消えてくれない。


 眉間を摩りながら、ようやくエレベーターに辿り着く。小さな空間へ足を踏み入れた瞬間、篠原の声が引き止める。


「飛沢先生、ちょっと待った!」


 篠原の足が半分閉じかけたエレベーターの扉に割り込んでくる。足を突っ込みこじ開けられた扉から姿を現した篠原は、両手に持った大きな手提げ紙袋を誉の足元に重たげに置いた。


「じゃあ、お疲れ様でーす」


 茫然とする誉の目の前で、扉が閉じる。


 これは……。


 大きな二つの手提げ紙袋には、いっぱいに詰まった本、本、本。紙袋の中に詰まっていたのは誉の書籍であった。研究費で購入したものではなく、純粋な誉の私物。学生の頃から買い集めたものだ。中にはすでに絶版となった貴重なものもある。


 恐らく自宅に押し掛けられた時に、少しずつ持ち出されていたのだろう。持ち出されて気づかなかった自分自身にも非があるが、勝手に持ち出す篠原の非は大きい。


 ……篠原め。


 何もわざわざ大学に持って来なくてもいいだろう。自宅にさっくり返却してくれればいいものを。しかもだ。人が帰路に着こうとしている時に渡さなくてもいいのではなかろうか。


 まったく、こんなに重たい荷物をどうしろというんだ。


 手提げ紙袋の中に、これでもかと詰められた本の量を見て、思わず眉を潜める。自宅に持ってくるなり、宅配便で自宅に送るなり、他にも返す手立てがあるだろうに。気が利かない奴だなどと考えているうちに、エレベーターは四階から一階へと到着した。


 何気なく手提げ紙袋を手に取った途端、衝撃が走った。


「っ!」


 両手で持ち上げた手提げ紙袋は、恐ろしいほどの重量だった。篠原の奴、よくこんなに重いものを軽々と持ってこれたものだと感心しつつ、取り敢えずエレベーターから本の山を引きずり降ろした。


 自宅まで持って帰れるだろうか?


 一瞬無理だと思いつつも、同い年の篠原が運べたのだ。自分にも出来ないはずはなかろうと、妙な対抗意識が頭をもたげる。


「…………よし」


 そうだ。奴が持てるものが、自分が持てないはずがない。取り敢えず正門まで持っていければいいのだ。タクシーでも捕まえれば問題なかろう。


 この安易な考えが大間違いだった。しかし誉は後悔することも知らず、荷物の重さによろけながら歩き出した。

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