能面准教授に恋はできるか

小林左右也

春の章・01 父の再婚

「実は父さん、再婚しようと思うんだ」


 父圭介が唐突に話を切り出したのは、普段と代わり映えのない朝食の最中だった。

 朝のニュース番組を見ながら小鉢の納豆をかき混ぜていたが、耳慣れない言葉を耳にした誉は思わず箸を止める。


「……再婚?」


 自分でも驚くほど訝しげな口調になってしまう。

 母が亡くなってずいぶん長い。だが今まで女性の気配など匂わせたことがなかった父から、再婚という言葉が出てくるとは思いもしなかった。


「実は、交際している女性がいてね」

 交際している女性!


 またもや父のものとは思えない発言に、ほまれは言葉を失ってしまう。


「こんな歳にもなって再婚なんてと思うかもしれないが……」


 我が息子に真っ直ぐ向かい合う父の顔には、多少の気恥しさと決まり悪さが混在している。それでも圭介は真剣に言葉を続ける 。


「できれば父さんは……その人と結婚したい思っているんだ」


 誉があれこれ考えている間、父にもそれなりの葛藤があったのだろう。誉が呆気に取られていると、圭介は気まずそうに視線を泳がせる。


「……そうか、なるほど」」


 一体何が「なるほど」なのか自分自身でもわからないが、半ば呆然としながら誉は頷いた。ようやく再婚、結婚という言葉がじわじわと浸透してくる。


「父さんが、結婚か」


 呆然とくり返すと、圭介は少し気恥しそうに頷いた。


 五十を過ぎた父親が再婚。昨晩みたドラマの中で、似たようなシチュエーションがあったが、あれはあくまでドラマだ。まさか 五十を過ぎた父親が、再婚を考えているなど夢にも思わなかったし、思ったこともなかった。


 まるで少女のように頬を赤らめる父を見るのも驚きだが、何よりも結婚を考えるような付き合いをしている女性が存在しているという事実がさらに驚きだった。


「お前はどう思う?」

「……俺は」


 妻を亡くして約二十年、男手ひとつで息子である自分を育ててくれた父。当時まだ中学生だった誉は己のことで手一杯だったが 、あの頃の父と同じ年頃になった今ならわかるような気がする。


 誉自身はまだ未婚だから想像に過ぎないが、共に長い人生を過ごそうと決めた伴侶を失い、これから成長していく子供を一人抱 えて生きていくのは容易な道では無かったに違いない。


 そんな父が再び人生を共にしたいと考える相手を見つけたというならば、祝福してやるのが息子の役目ではなかろうか。


「……そうだな」


 眼鏡を人差し指で押し上げながら、唸るように呟く。

 加えて正直な感想を述べさせてもらうなら、まさか自分よりも先に(先に、というのは少々違うかもしれないが)結婚されてし まうとは夢にも思っていなかったが、今はどうでもいいことだ。


「別に、良いと思うよ」


 なんだか心許なくて、すがるように湯呑茶碗を手に取った。

 中のお茶は冷めてしまっているようだが、まだ湯呑茶碗にはほのか な温もりが残っている。


「父さんの好きにすればいいんじゃないか?」


 つまりは賛成、と言うつもりであった。だが、口から飛び出してきたのは、拗ねた子供のような投げやりな言葉。三十路を迎えた 男が、反抗期の少年のような言い方は、如何なものかと即座に反省する。


「あ……いや、ええと」


 これではいかん。湯呑茶碗を両手で握りこみ、小さく息を吸い込んだ。


「おめでとう」

「……ありがとう」


 父自身も恐らく不安であったのだろう。肩の荷を下ろしたように力が抜けた笑顔を浮かべる。


「いや、別に。お礼を言われるようなことは何も」

「誉に賛成してもらえただけで嬉しいよ。ありがとう」

「ああ……」


 なんてこそばゆい会話なんだ。

 気恥ずかしい空気が二人の間に流れる。この場の空気を誤魔化すように、少々漬けすぎた胡瓜の糠漬けとご飯をせっせと口に運ぶ。


 父親と結婚がどうのという話題をするのが、こんなにも恥ずかしいものだとは思わなかった。


「すぐに、というわけではないが……近いうちにお前にも会って欲しいと思っているんだ」

「わかった」


 テレビから七時を迎えたとニュースキャスターが告げるのが聞こえる。七時半には家を出る。


「じゃあ、話の続きはまた後で」

「うん」


 いつの間にか、先に朝食を終えていた圭介は手早く茶碗や皿をまとめると、席を立って流し台へと向かう。


 誉も今日は一時限目から授業があったのだ。職場である大学までは徒歩、電車移動などすべて含めて約一時間。授業の準備は前日に済ませてあるから、開始する九時までには研究室に立ち寄ってから講義室へ行っても多少の余裕はあるはずだ。


 ぼんやりしてはいられない。誉はさっそく朝食を片付けに掛かる。納豆を茶碗に盛られた白飯の上に乗せ、少々行儀が悪いが掻き込むように腹の中に納める。


 朝食をせっせと片付けながら、考える。

 いい加減、独立してもいい歳だ。独り身の父親を一人にはできないと思ってきたが、どこか甘えの気持ちもあったのだろう。


 ――ひとり暮らしでも、するか。


 これまでも何度か考えたことはあったが、そろそろ具体的に考える時がやってきたようだ。


 飛沢誉、三十二歳。春を迎えたばかりの朝の出来事であった。

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