秋の章・01 いよいよ明日は結婚式

 暦の上では九月は秋である。しかし大学の夏休みというものは長い。九月いっぱいまで夏休みという大学も多い。

 誉が勤める大学も、例に漏れず九月いっぱいまで休みである。

 だからつい九月に入っても夏という感覚が拭えず、二人の結婚式は秋に行われるという印象があまりにも強かった。だから、何となく夏休みが終わってからだと思い込んでいたが。

「今週末だったか……」

 誉が頼まれたことといえば、最後の親族からの挨拶のみだ。慌てて書いて、出来上がったのは木曜日の夜だったが、零時を越して現在は金曜日。いよいよ明日かと思うと早いものだ。

 そろそろ寝なければと思いつつ、窓から見える月があまりにも綺麗だった。からりとガラス窓を開いて、秋めいてきた夜空を見上げる。

 つい最近まで夜になっても熱をはらんだ空気が立ち込めていたというのに、いつの間にかひんやりとした風が頬を掠め、薄っすらと鱗のような雲の名残りが夜空に影を作っている。

 ふと、この間も同じような雲を見上げていたことを思い出す。

 あの時は首が痛くなるくらい雲ばかり見上げていたが、本当は突然会えて動揺していたからだと、彼女は気づいていただろうか。いや、気付くはずもないだろうし、気付かれたとしても彼女は気にも留めないだろう。

「……寝るか」

 誉はそっと苦笑するように目を細めた。


* * * *


「まさか、あのスーツ着るつもり?!」

 情報源は、恐らく誉の父圭介であろう。突然研究室に飛び込んで来た篠原の第一声はこうだった。

「誉くん、明日結婚式なんだってね! スーツはどうするわけ?」

 ちょうど珈琲でも淹れようかと、インスタントコーヒーの瓶を手に取ったところだった。驚いて瓶を取り落しそうになるが、どうにか危機を免れた。

「……正確には、父親の、だ。それで、スーツがどうした?」

 危なかった。背中に冷や汗か掻きつつ、平然とした顔でマグカップに粉を入れる。篠原はずかずかと入ってくると、棚から予備のマグカップを取り出し、誉の鼻先に突き出した。

「僕の分も、砂糖ミルク入りでよろしく。で、スーツは新調したわけ?」

 図々しい奴だと思いつつも、マグカップを受け取る。そして篠原の分もスプーンで掬いながら、ありのままを告げる。

「一昨年、一緒に行った式があっただろう。まだ数回しか袖を通していないから、あれを着ていこうと思っている」

 すると篠原はくわっと目を見開いた。

「ちょっと! あのスーツ着るつもりなの? あの時、もう二度と着るのやめなよって言ったの忘れたわけ?!」

「冠婚葬祭用だぞ。何の問題もない」

「あるよ! 大有りだよ! お父さんのハレの日に、何が悲しくて葬式にも着ていけるようなスーツを着るんだよ!」

 頭を振って嘆く篠原に、大げさな奴だと言わんばかりに溜息を吐く。

「だから、ネクタイを白にすれば問題ないだろう?」

「駅の売店で買ったネクタイだよね。却下」

 去年の友人の結婚式には篠原も出席していたから、誉が間に合わせに駅の売店でネクタイを購入したことを知っている。嘆かわしいと言わんばかりに、大げさな溜息を吐いた。

「よし……俺のスーツを貸してあげよう」

「別に必要は無い」

「駄目だって」

 いつになく篠原が強い口調で嗜める。

「金が無いわけじゃなんだからさ、新調しなよ。あ、もちろんオーダーメイドだよ」

 体型が変わらないのをいいことに、数年同じものを順繰りに着ているのは事実だ。まさか篠原に指摘されようとは思ってもみなかったが、篠原が学生の頃から着道楽だったと思い出す。

「親父さんの晴れ舞台っていうのもあるけど、出会いの場でもあるからさ、結婚式って。新婦の友人って結構狙い目らしいよ。だから、せっかくの婚活の場で、もっさりしたスーツで行ったら駄目だって。誉くんも磨けばそれなりになるんだから、もっと頑張らないと」

 もっさりとは、あんまりな言われようだ。

 篠原の遠慮ない物言いは、非常に腹が立つ。事実を告げているからこそ腹が立つのだろうが、とにかく腹が立つ。

 こいつに遠慮など無用だ。そこまで言うなら、遠慮なく新品の一張羅を貸してもらおうじゃないか。

「そこまで言うなら、ありがたくスーツは貸してもらおう」

 借りる立場で偉そうな態度だとは思うが、腹が立つのでこの際気にしない。篠原自身も自分の提案を受け入れたからなのか、誉の態度をさほど気にしている様子もない。それどころか満足そうに、うんうんとひとり頷く。

「そうしなさい、そうしなさい。そうだ。明日お昼からだろう? ついでにヘアセットもしてあげるよ」

「いやに親切だな」

「ま、誉くんの明るい未来のためなら人肌脱ぎますって」 

「何を企んでいる」

 必要以上に親切な篠原なんて気味が悪い。思わす身構えると、篠原はあっさりと白状した。

「ほら、お父さんのお嫁さんって、俺らとそんなに歳変わらないじゃない? だからさ、新婦友人で良い人がいたら紹介してよ」

 ああ、そういうわけか。

 しかし、そう簡単に良い人が見つかるかもわからない。

「いたらな」

「いたら、じゃなくてさ。っと積極的にならないと一生独身だよ?」

「大きなお世話だ」

「もしかして、もう目当ての人がいるから関心がないとか?」

「そういうわけでは……無い。別に」

 あっさり否定するには心当たりがあり過ぎて、思わず言葉を詰まらせてしまう。一瞬、篠原に悟られたかと、ひやりとしたが。

「ふうん、そっか。だったら頑張らないと、結婚式」

「ああ……そうだな」

 どうやら気付かれなかったようだ。こっそりと安堵する。

「じゃあさ、一旦帰ってから誉くんちにスーツ持って行くから」

「ああ」

 上の空で答える。

「夕飯どうする? なんか適当に買ってこようか?」

「ああ」

「弁当でも適当に見繕ってくるから、誉くんは酒ね。俺ビールがいいな。あ、発泡酒はNGだから」

「ああ……」

「スーツに合わせて髪のセットもやるから、今夜泊まるよ。いいよね?」

「ああ……って、ええ?」

 適当に相槌を打っていたものだから、いつの間に篠原が泊まりにくることになったのか理解できない。

「いや……泊まりにくると言われてもだな。我が家には布団は一組しかない」

 生真面目に告げると、篠原は屈託の無い笑顔を浮かべる。

「別に一緒に使えばいいんじゃない?」

 冗談じゃない。心底嫌そうな顔になるのを自覚する。

「真に受けないでよ、冗談に決まってるだろ」

 冗談だったのか。

「まだ暑いんだから、畳の上で雑魚寝で十分だって」

「まあ確かに……だが髪のセットくらい自分でどうにかなる」

 結婚式……父のではあるが、その前日に人が泊まりに来るのは、別に構わないといえば構わないのだが、やはり落ち着かない。

「スーツを借りるだけで十分だから」

 やんわりと断った。しかし。

「駄目。せっかくの俺のスーツが台無しになる」

「どういう意味だ?」

「さあ?」

 誉のセンスに疑いを抱いているのだろう。少々腹立たしくもあるが、ファッションセンスがイマイチなのは自分でもわかっている。

 それに、篠原の言うとおり、少々気合は入れてもいいのかもしれない。

「……わかった」

「よし! そうこなくっちゃ。誰もが振り返るような良い男に仕上げてあげるから期待しておいてね」

 ガッツポーズを作る篠原の姿に、誉はやれやれと首を竦める。

「まあ……期待している」

 

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