冬の章・09 橘先生ふたたび
まさか、先生のあんな顔が見れるとは思わなかった。
普段、滅多に表情を崩さない飛沢がみるみる赤面した上、狼狽える姿を見せるなんて夢にも思っていなかった。
―いい感じになったんでしょ? その時を匂わすようなことを言ってみたら?
―何か反応があれば、相手もひなたちゃんのことが気になっているって、わかるかもしれないね。
順也と智美のアドバイスを真に受けたわけじゃない。そもそも、「その時を匂わすような」台詞なんて、恋愛初心者のひなたに思いつくわけがなかった。
飛沢の一人称について訊ねたのは、ふと疑問に思ったからだった。
飛沢の一人称は、普段は確か「私」だ。なのに飛沢の口から「俺」と聞いた時は、ドキッとした。
当たり前だけど、仕事と普段を使い分けているんだと気が付いた。
じゃあ、あの夜の先生は、普段の「先生」ではない先生だったの?
だから、何気なく訊ねた質問のせいで、飛沢があんなに狼狽えるとは思っていなかった。
同時に、今の自分の質問が、智美のいう「その時を匂わすようなこと」だったのだと気が付いた。
順也の言葉を鵜呑みにするなら、飛沢も自分のことを気にしているということになる。
その後、自分が何を話したか、よく覚えていない。だけど、飛沢がまた「俺」を使ったことだけは覚えている。
そして、飛沢との距離が、今までになく近かったことも。
「……橘先生が来てくれて、よかったかも」
財布とコートを抱き締めたまま、ひなたは大きな息を吐いた。
* * *
「それで、話とは?」
橘登場のお陰で、ようやく冷静さを取り戻した誉は、テーブルを挟んで橘と向かい合う。
「その前に質問があります!」
橘が手を挙げる。
「何でしょう?」
「マックロちゃんは、どこに行ったのでしょうか?」
「ああ、マックロは実家にいます」
どうやら狭い我が家よりも、広い実家の方が気に入ったらしい。
連れて帰ろうとしたが、押し入れの奥に入り込んでしまい、その日は連れ帰るのを諦めた。
しかし、今度は父と友紀がマックロの可愛らしさに夢中になってしまったようだ。色々理由を付けて返してくれようとしない。
「……わかります。可愛いでもの、マックロちゃん」
うんうんと、橘は同意するように頷く。
「ですが、マックロもすっかり実家に馴染んでしまって」
「それはいけません! マックロちゃんを取り戻さなければ!」
橘は両手を握りしめて熱弁を振るう。
確かにマックロをこのまま実家に預けておいてはいけないと思ってはいたが。
「無論、そのつもりです……それで、お話とは?」
いつの間にか話が脱線してしまっているので、話の軌道を戻すことにする。
「はい、話というのはですね、年末出張に行かれますよね?」
「そうですが、それが何か」
「わたしも同行させていただきたいのです」
「同行……ですか」
一瞬、「面倒くさい」という思いが頭をよぎる。
他の教員と出張を同行することも無くはないが、人とペースを合わせなければならないのが苦手であった。しかも、相手が橘だ。彼女のペースに巻き込まれそうな予感がする。
「実はわたしが調べている作家の資料を収蔵している方がいらっしゃるんですよ。それが、ちょうど先生の出張先と同じでして。出張の話を事務室でしていたら、篠原さんが教えてくれたんですよ」
また
人の情報を勝手に漏らすなと、一度しっかり文句を言わないと。
篠原に対する不満の数々を思い起こしていると、橘がしびれを切らしたようだ。
「それで、同行の件はよろしいですか?」
ずいっと橘が距離を詰めてくる。その勢いに無意識に後ずさってしまう。
別に出張の同行くらい、よくあることだ。それより何より、断る方が面倒そうだと判断する。
「……わかりました」
「ということは、よろしいんですね!」
「よくあることです」
「わ! よかった!」
橘は「よし!」と拳を突き上げる。いちいちアクションが多い。
「では、さっそく新幹線のチケットと宿の手配を致します!」
移動はともかく、宿は別でいいだろう。しかし、辺鄙な場所ゆえ、手近な宿は片手で数えるほどもない。
「……お願いします」
強引ではあるが、橘はどこか憎めない。張り切っている橘の様子に、誉は小さく笑みを漏らす。
途端、橘は目を真ん丸に開く。
「お! おおおぉ……」
突然、両手で目を押さえて悶絶を始める。唐突な変わりように、誉はさらに後ずさりをしてしまう。
「橘先生、大丈夫ですか」
「大丈夫です……ただ、目が、目が……」
「目がどうしたのです?」
ゴミでも入ったのか?
「いえ、眼福でした」
「…………?」
誉の頭に疑問符が浮かぶ。そろりと手を外した橘は、薄っすら頬を赤らめてニヤリと笑った。
「では、気を取り直してアンケートです! 先生はお酒は好きですか?」
「好きですが、出張の件と何の関係が」
「まったく関係ありません!」
橘は胸を張って答える。
わけがわからない。まったくわけがわからないが、この迫力に抗う気力が削がれてしまった。
「……ビールと、日本酒です」
「おお! 渋いですねー、了解です!」
今度はびしっと敬礼のポーズを取ると、ニカッと笑う。
「では! 決まりましたら、再び連絡致します!」
「……よろしくお願いします」
「失礼します!」
軽く頭を下げると、颯爽と去って行った。
まるで一瞬の出来事、嵐が通り過ぎて行ったかのようだった。
ふう、と息を吐いてから、まだ珈琲が残るマグカップを手に取った。
飲み干した珈琲は、すっかり冷めきって苦かった。
コンビニエンスストアで買い物を済ませたひなたは、一階のエントランスでエレベーターを待っていた。
一階に到着したエレベーターのドアが開いた途端、そこに橘の姿があった。
「あ! 山田さん、ちょうどよかった!」
目が合うなり、橘は飛び付かんばかりにエレベーターから降りてきた。
「橘先生、お話は終わったのですか?」
「うん、終わった! 山田さん、忘年会やらない?」
「忘年会ですか?」
「そうそう、年末だしね」
大学生にもなると、やっぱり高校生の時とは違うんだなと思いつつ、ひなたは頷いた。
「はい、ぜひ」
「よかった!」
万歳をして、橘は喜びを表す。オーバーリアクションだけれど、最近はもう慣れてきた。
「じゃあ、詳細はまた後程! あと山田さん」
立ち去ろうとした橘が、くるりと振り返る。
「好きなお酒はある?」
「……特にはないですけど、サワーとか梅酒とか甘いものなら飲めます」
「了解! ではまた!」
橘は豪快な笑顔を浮かべると、颯爽と去っていった。
「…………」
まるで嵐が去った後のようだ。
橘の勢いに飲まれたまま、しばらく呆然としていた。
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