冬の章・10 もしや恋のライバル?

 橘が去った後、業務に戻るべくパソコンの前に座って間もなくだった。

 コンコン、とノックの音。ひなたかと思って「どうぞ」と答えると、すぐさま開いたドアから現れたのは小原順也であった。

「どうも、先生」

「ああ、小原くんか」

「あれ、先生。マックロはどうしたんですか?」

 順也はきょろきょろと室内を見渡す。

「ああ……実家だ。狭い我が家より、あっちの方がいいようだ」

「駄目ですよ先生。早く取り戻さないと、取られちゃいますよ」

 順也も橘と同じことを言う。

 確かに。早くマックロを迎えに行かないと、このままでは実家の猫になってしまいそうだ。

「……週末にでも、迎えに行くとしよう」

「帰るの、嫌がらないといいですね」

「まったくだな」

 誉は思わず苦笑する。

「あ、飲み物貰いますね」

 一応、といった風に断りを入れると、順也は電気ポットが置かれた棚からカップを取り出しながら訊ねる。

「紅茶淹れますけど、先生はどうしますか?」

「ああ、頼む」

「ひなたちゃんも来ているんですよね?」

「ああ」

「今、どこに?」

「コンビニに買い物に行ってもらっている」

 気を利かせて外に出てくれたが、そろそろ戻ってきてもいい頃だ。

 寒い中、外へ行かせてしまって申し訳ないと思いつつも、橘のあの勢いの前ではああせざる負えない空気でもあった。

「ええと、さっき行ったばかりですか?」

「いや、ずいぶん前だから……そろそろ戻ってくるだろう」

 途端、順也はティーバッグをカップの中で上下させる動きを止める。

「先生、単刀直入に伺います」

「なんだ?」

 モニタに視線を向けたまま、生返事を返す。

「先生って、彼女いるんですか?」

「!」

 順也の口から、このような質問が出てこようとは思わなかった。

 しかし、焦ることはない。実はこの手の質問は、度々あることであった。

「いや、ここ数年はいないな」

 度々聞かれることだから、彼女がいないと告げることに何の気負いもない。気負いはないが「数年いない」と無意識に加える辺り、妙なプライドみたいなものがあるのだろう。

 そしてだいたい言われるのだ。「ああ、やっぱり」と。こんな無愛想な男に交際相手などいるわけがないというのが、第三者の共通認識なのだろう。

 しかし順也は、好奇心を宿した眼差しで質問を重ねてきた。

「じゃあ、好きな人はいるんですか?」

 実に思いがけない質問だ。思わず絶句してしまう。

「…………別に、私の話を聞いたところで面白くも無いだろう」

「面白いから聞いているんです。で、どうなんですか?」

 ここで「いる」と答えたら、根掘り葉掘り聞かれるのだろうか。

 それは不味い。聞かれたところで答えやしないが、もし当の本人である、ひなたが戻って来たら気まずい事この上ない。

「……そういう君はどうなんだ?」

 質問を質問で返すと、順也はケロリとした顔で「いますよ」と答える。

「今、その人の恋愛相談に乗っているんですけど、まったく進展しないみたいなんですよ。そろそろ諦めた方がいいんじゃないかってアドバイスして、俺の方に傾くのを待っているところなんです」

 にっこりと微笑むが、その笑みはどこか挑戦的だ。

 もしかして、順也が好きな相手というのは……彼女ひなたのことだろうか。

 たまに飲みに行ったりと、かなり親しそうだ。恋愛経験が豊富そうな順也に相談を持ち掛けても不思議ではない。まったく進展しないという話も、身に覚えがある。

 ……だとしたら辻褄が合う。

 心臓がバクバクと激しい音を立て始める。

 もし、順也の好きな相手が彼女ひなただったとしよう。

 この老若男女が認める好青年が落としに掛かったら、いとも簡単に落とされてしまうに違いない。こんなイケメンに好きだと言われたら、心が傾くのは必然だ。

 少なくとも、歳の割には奥手なオッサンなんて比べものにならないだろう。

「はい、今度は先生の番ですよ」

 そうきたか……。

 仕方がない。誉は溜め息を堪えて、ぽつりと呟く。

「まあ……一応、いる」

「ええと、つまりはまだ付き合ってはいないってことですよね?」

「ああ、付き合ってはいないな」

「どうして付き合わないんですか?」

 不思議そうに順也は訊ねる。

 相手が学生だから。歳がずいぶん離れているから。まだ未成年だから。

 色んな理由が頭を駆け巡る。

 気持ちを伝えるのが怖い。それに尽きる。

 彼女ひなたも、恐らく自分に好意を抱いてくれていると思う。しかし、その気持ちは人として好意を抱いているけれど、恋愛としての好意ではない可能性がある。

「え、まさか遊びとか……?」

「断じて違う」

 即答すると、順也はニンマリと笑う。

「ですよねー。じゃあ、とっとと付き合っちゃえばいいんじゃないですか?」

 気軽に言ってくれるが、そう簡単なものではないのだ。

「まあ……何というか、タイミングがな」

「確かに恋愛はタイミングも重要ですからね。タイミングを逃したら、相手にはもう付き合っている人がいましたとか、よくある話ですよね」

 二人の間に乾いた笑いが流れる。しかし、誉にとっては笑いごとではない。

 タイミング。確かにタイミングは重要だ。

 しかし、どのタイミングがベストなのか。さっぱり見当が付かない。

「そうだ先生。年末に出張に行くんですよね?」

 唐突に話題が変わり、ホッとするが、ふと疑問が沸いた。

 なぜ、彼が知っているんだ?

 疑問を口にする前に、順也が種を明かしてくれた。

「さっき事務室に行ったら、篠原さんが教えてくれたんですけど」

「……なるほど」

 また篠原か。橘にといい、順也にといい、人の情報を流し過ぎだ。

 今度、しっかりと釘を刺さねばならない……と考えていると。

「先生、俺も同行させてください」

 彼は自分のゼミ生でもあるから、出張に同行しても問題はない。

「別に構わないが」

「ありがとうございます!」

「あと、実は橘先生も」

「同行するんですよね。篠原さんから伺いました」

 篠原め……後で覚えていろ。と、心の中で恨みの念を放つ。

「今から楽しみですね」

「……そうだな」

 順也が淹れてくれた紅茶を啜りながら、やれやれと肩を竦める。

 普段は毎年、一人で出向いていた。学生の頃に卒論のテーマにと訪れた場所だったが、まさかこんな大所帯で行く日が来ようとは思わなかった。

 さて、仕事に戻るかと改めてパソコンに向かった時だった。再びドアがノックされる。また誰が来たのかと眉を潜めたが、「戻りました」という声と共に、そろりとドアが開いた。

「あの……もう入って大丈夫ですか?」

 ドアの隙間から、顔を半分覗かせているのは、コンビニから戻ってきたひなただった。

「あ、ひなたちゃんお帰りー」

「順也くん」

 順也がひらひらと手を振ると、ひなたはホッとしたようにドアを開いた。

「山田さん、もう」

「大丈夫、橘先生いないから」

 なぜか順也に台詞を奪われる。

「そっか、よかった」

 誉も椅子から立ち上がると、ひなたの方へ……歩み寄ろうと思ったが、順也が阻むように、さっさとひなたに近寄った。

「うわ、なんか色々買ってきたみたいだね」

 ひなたの手には大きなコンビニ袋を提げていた。順也はひなたの持つコンビニ袋を受け取り、中身を覗いてクスクスと笑う。

「うん、テレビで紹介していたスイーツがあって……色々散財しちゃった」

 ひなたも少し照れくさそうに笑う。

 二人の親し気な雰囲気に、誉は疎外感を感じずにはいられない。

 彼女ひなたが自分に好意を持っていると思ったのは、やはり幻想だったのだろうか。

 順也が好きな相手というのは、やはり彼女ひなたのことなのだろうか。

 誉がひとり、ぐるぐると頭を悩ませていると、順也がシュークリームを両手に持って振り返る。

「先生、ひなたちゃんが買ってきたシュークリーム、どっちがいいですか? 普通のと抹茶のやつ」

「あ、ああ……では普通で」

「じゃあ、俺は抹茶にしようっと。ひなたちゃん、紅茶でいい?」

「え、あ、うん、ありがとう」

 順也からシュークリームを手渡され、ひなたには紅茶が用意され、研究室は突如ティータイムに突入した。

 小原順也、なぜ邪魔をする!

 さっきから、彼女ひなたと一言も話せていないではないか。ということは、やはり順也が好きな相手というのは……。

 悶々と悩みながら食べたシュークリームの味は、さっぱりわからなかった。

 

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