冬の章・08 「私」と「俺」の使い分け

 彼女ひなたと二人きりになってしまった……。

 誉は動揺していた。しかし動揺を簡単に顔に出すほど、この鉄壁のポーカーフェイスはヤワではない。しかも、珈琲をドリップしている間に、顔の赤みも引いているはずだ。

 よし。

 マグカップの取っ手を握りしめると、誉は意を決して歩き出だす。

 無論、向かったのは、ひなたの定位置であるパソコンデスクである。

 幸い、ひなたはパソコンのモニタに向かっている。さっきまで打ち合わせに使うテーブルの椅子に座っていたはずなのに、いつの間に……と思ったが、まあ気にすることはないだろう。

「山田さん、珈琲だ」

 背後から声を掛けると、ひなたは弾かれたように振り返った。

「あ、ありがとうございます!」

 カップを受け取ると、すぐさまモニタの方へ向いてしまう。

 なぜだろう。最初、部屋に入った時以外、目が合わない。

 彼女が研究室を訪れた時に見たあの笑顔は、もしかしたら幻だったのだろうか。

 ……あり得るな。

 もしかすると、あの夜の出来事も夢……妄想だった気さえしてきた。そもそも、都合よく二人そろって最終電車を逃すなんてあるだろうか。あの、冷たくて、でも柔らかい手の感触も。

 …………少し頭を冷やそうか。

 思い出した、いや想像した途端、また顔が熱くなってきた。篠原の分ということで淹れた珈琲を一口飲むと、自分のデスクに戻ろうかと方向転換した時だった。

「あの、先生」

 ひなたの声に呼び止められ、無条件に足を止める。

「あの、この間は……送ってくださって、ありがとうございました」

「ああ、いや……」

 どうやら夢ではなかったようだ。

 そろりと振り返ると、ひなたはこちらを向いていた。しかし、相変わらず目を合わせようとしてくれない。手にしたマグカップを凝視しながら、ひなたは続ける。

「あの、それで……先生に伺いたいことが、ありまして」

 伺いたいこと……?

 一体何だろう。何を聞かれるのだろう?

 内心冷や冷やしながら、取り敢えず手近な椅子を引き寄せて、ひなたの前に座る。

「私がわかることなら」

「あの、卒論のテーマって、いつくらいまでに決めればいいのでしょうか?」

 なんだ、卒論か。ホッと胸を撫で下ろす。

「遅くても四年生になる時点で決めておいた方がいい。ベストは三年生の後期後半頃だな。四年生を迎える前に準備ができる。だがまだ山田さんは一年生だ。日頃様々なことに触れて、自分が一体何に興味関心があるかを意識して過ごせば、おのずとテーマが定まってくるだろう」

 教員らしい意見を求められ、いつの間にか緊張も解けていた。

 ひなたも、いつの間にかマグカップからメモ帳とペンを手にし、頷きながら誉の言葉を書き留めている。

「あ、ありがとうございます!」

 ひなたはぴょこんと頭を下げる。

 相変わらず目が合わないが、会話ができただけマシというものである。

「他にも聞きたいことがあれば、遠慮なく言って欲しい」

「……では、あとひとつ」

 俯いた頬を真っ赤に染めて、ひなたは遠慮がちに告げる。

「どうぞ」

 ああ、可愛いな。本当に可愛くてどうしてくれようか。

 生まれてこのかた、思ったことが顔に出にくいポーカーフェイスならぬ能面ヅラに感謝したことはない。

「…………先生の、普段の一人称は『俺』なんですか?」

「一人称?」 

 唐突な質問に、誉の頭に疑問符が浮かぶ。

 職場では極力「私」を使っているつもりだったが、いつ「俺」を使っていただろう。

「…………」

 あの時だ、思い出した。

『俺も……もう少しこうしていたい』

 自分が口にした言葉を思い出した。

 途端、誉のキャパシティーは限界に達した。ぶわっと顔に熱が集まるのを自覚する。

「確かに……普段は、そうだな」

 ひなたが驚いたように、目を見開く。

 恐らく赤くなっている自分の顔が、意外過ぎて驚いているのだろう。

 ……恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。

 恥ずかし過ぎて、ひなたの顔が見れない。片手で口元を覆うと案の定、顔はかなりの熱を持っていた。

 きっと、あの夜の話を切り出すつもりなのだろう。その切っ掛けづくりで、誉の一人称を話題に出したのだろう。そうだ、そうに違いない。

 ひなたと二人きりになって、きっと自分は浮かれていた。浮かれずぎて、可愛いと口走るわ、夜道を歩き出すわ、手を繋ぐわと、どうかしていた。

 両手を膝の上に置くと、ひなたに向かって頭を下げた。

「……あの時は、申し訳ない」

「えっ、何がですか?」

 心底驚いたように、ひなたは声を上げる。

「二つ先の駅まで歩こうなんて提案したことだ。夜道を歩くのは……やはり危ないし、暗くて怖い思いをさせてしまったから」

「いいえ! そんなことないです」

 珍しく、ひなたはきっぱりと言い放つ。その意外性に思わず彼女を見ると、ようやく目が合った。途端、ひなたはふわりとほほ笑む。

「先生が一緒だったから、わたし平気でした。でも」

 でも?

 続く言葉を待っていると、誉の視線を感じたのか、ひなたは目を伏せてしまう。

「……タクシーを、見つけなきゃよかったって……思いました」

 振り絞るように囁いたひなたの横顔は、見事に真っ赤に染まっていた。

 俺も、そう思っていた。

 などと言っていいのだろうか。しかし、あの夜とは状況が違う。ここは大学で、業務時間の真っ最中だ。

 いや、問題はそこではない。自分は彼女とどうなりたいのだ。

 恐らく彼女も、自分に好意を持っている。

 自分も、彼女に好意を持っている。

 思いを素直に明かせば、彼女と一歩踏み込んだ関係になれるかもしれない。

 だが、それでいいのだろうか?

 彼女はまだ若い。恐らく男性と付き合った経験もまだないだろう。

 これから多くの人と出会う機会もある。

 ――なのに、相手が俺でいいのか?

 すると、誉の心の声が届いたかのように、伏せていた目を誉に向ける。

「……先生?」

 少し潤んだ目で見つめられ、心臓がどうかなりそうだ。

「俺も……」

 互いの椅子のキャスターが、わずかに軋んだ音を立てる。ひなたとの距離が近づこうとした時だった。

 コンコンッと軽快なリズムでドアがノックされた直後。

「失礼しますこんにちは! 国文の橘です!」

 国文学科助教、橘三花が勢いよく飛び込んで来た。

 反射的に誉は床を蹴り、椅子ごと後ろに飛び退る。

「今大丈夫ですか?」

「あ、ああ……」

 大丈夫か訊ねる前に入ってきて今更聞くか?!

 驚きのあまり、顔の血の気も引いてしまった。赤いどころか青ざめているに違いない。

「あら、山田さんもいたんだ。こんにちは!」

「こ、んにちは」

 ひなたの方も、あれだけ真っ赤だった顔が、今は驚きのあまり紙のような白さだ。

「すみません、お仕事中に。先生、ちょっとご相談よろしいですか?」

「ええ、構いません。では、こちらにお座りください」

 居住まいを正して立ち上がる。橘に椅子を勧めるが。

「いえ、ここじゃちょっと。学生の前では憚る内容ですので」

「では会議室でも借りて……」

 誉がいくつか空いていそうな教室を思い浮かべた時、突然ひなたが立ち上がった。

「あの! わたし、ちょっと買い物に行ってきます!」

 ひなたは普段からは考えられない素早さで財布とコートを手に取ると、一目散に研究室を飛び出してしまった。

 あっという間の出来事に、誉は茫然となっていた。

「いやー、山田さんって、若いのに気が利きますね!」

 ひなたを見習って、もっと気を利かせて欲しかった。

 いや、むしろ橘が来てくれたお陰でよかったと言えるのか。

「……そうですね」

 色々な意味で、危なかった……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る