夏の章・02 父の頼みごと
『明後日の午後、空いてますか? もし空いていたら、頼みたいことがあります』
研究室に戻り、さっそく父圭介からのメールを開いた誉は、思わず眉を寄せた。
頼みたいこと?
明後日は土曜日だ。町内の草刈り当番の代理を頼みたい、という可能性が濃厚だ。休日と言えども、仕事以外の仕事も飛び込んでくることもよくあったものだと思い出す。
誉が小中学校の頃、圭介が務める中学校はかなり荒れていたらしく、生徒が補導されたとかなんとかで、休日だけではなく深夜でも警察から呼び出されたりしていたものだ。
とはいえ、あれから二十年近く経っているのだ。今はさほど中学校も荒れているようではないし、圭介自身の立場も変わった。若い頃のように駆けずり回るようなことも、今は無いはずだ。しかし、忙しいことには違いないのだろう。
今回はさほど緊急性は無さそうだが、予期せぬ用事が入ってしまったに違いないと、誉は判断する。
生憎今週末は特に予定も入っていない。大学のオープンキャンパスがあるお陰で授業もない。昨年は公開授業に駆り出されたが、今年は無罪放免だ。もちろん、やらねばならないことはあるにはあるが、半日くらい親孝行だと思って空けられないわけではない。
『空いているけど、何?』
素っ気ないメールを返すと、数分も経たないうちに圭介からの返信が届いた。
『私の代わりに、友紀さんに付き添って欲しいんだ』
* * * * *
「誉さん」
その人物は、改札口を出るなり大きく手を振った。
――誰だ?
待ち合わせ駅の改札口から、人波をすり抜けながらラベンダー色の服を身に纏った女性が駆けよって来る。
「お待たせしました」
女性は軽く息を弾ませ、ぺこりと小さなお辞儀をした。
「今日は、よろしくお願いします」
親しみを込めてほほ笑む女性は……思い出した。先日、父の再婚相手として紹介された女性、廣瀬友紀であった。
「いえ。こちらこそ」
誉も慌てて頭を下げる。
圭介の頼みとは、友紀のウェディングドレス選びに同行して欲しいというものだった。
一応は抵抗を試みたものの、圭介の強い押しに押されまくって、結局は折れて今に至る。
――女性は、服装でずいぶんと印象が変わるものだな。
どうも黒いスーツ姿の印象が強かったせいもある。しかし今日は涼やかなラベンダー色のワンピース姿だ。長い髪は髪飾りでひとつにまとめて、さらに涼やかだ。ワンピースのデザインはシンプルだが、顔立ちが派手な彼女にはちょうどいいくらいなのかもしれない。
「歩くとちょっと掛かりますけど、よかったら歩いて行きませんか?」
友紀が提案をする。
予定の時間よりもまだ早い上に、今日は気温も湿度も低く過ごしやすい気候だ。おまけにこの辺りは、都心部に位置しながらも街路樹などの緑も多い。少し奥に行けば閑静な住宅街が立ち並ぶ。つまりはちょっとした散歩に相応しい雰囲気だった。
「そうですね」
友紀の提案に頷くと、彼女の歩調に合わせて、青々と茂った街路樹が並ぶ歩道をゆっくりと歩き出す。
「この道を真っ直ぐ行って、大通りを渡ったら桜並木があるんですよ」
「あの通りには、自然酵母で作ったパン屋さんがあって」
「この花屋さんは野草も置いてあるんですって」
ぽつりぽつりとではあるが、行く道先で友紀はあれやこれやと説明をする。
「この辺りは詳しいのですか?」
この界隈は、女性がいかにも好みそうなカフェやレストランも多い。友紀が詳しいのも当然だろうと思っていたが、彼女は「実は……」と、はにかんだ。
「式場探しの時に、何回か通っただけなんですけど。圭介さんと散策しながら歩いていたものですから」
「へえ……」
意外な知らない父の一面を見た気がして、むずがゆさを伴った奇妙な気分である。
意外。意外といえば、割と会話が続いていること自体が意外である。
彼女の話の振り方が上手いのか、お互いに会話を続けようと無意識に努力しているせいなのか。
――そう言えばこの人、俺とたいして歳が変わらないんだよな。
美人な上、気さくで、初対面でも話やすい。どうして親子ほど歳が離れた圭介と結婚などしようと思ったのか、さっぱり理解できない。
まさか――今流行りの保険金狙いか?
不吉な考え頭を呼びる。圭介が契約している生命保険の受取人は現在は誉の名義になっているが、結婚すれば彼女が受取人になる可能性が高い。
――退職金という線もあるな。
あと十年くらいで圭介も定年退職を迎える。大企業の幹部役員ほどは貰えないとしても、公務員である圭介はそこそこの退職金が支払われるだろう。
だが、彼女のような美人だったら、わざわざ初老の中学校教師なんて狙う必要があるだろうか?
――ますます、わからん。
考えてもわからないなら、探りを入れてみるかと不埒な考えに至った時だった。
「今日は……ごめんなさい」
突然の友紀の謝罪に、誉は足を止める。
「何がでしょう?」
「本当は、結婚式なんて挙げる必要は無いと思っていたんです。でも、土壇場になったらつい欲が出てしまって……すみません」
友紀は苦笑いを浮かべると、足元に視線を落とす。
恐らく彼女に対して、不信感までとはいかないものの、この結婚に疑問を抱いていることを感じ取ったのだろう。そして圭介に対しても感じていたのたわろう。彼は再婚なのに、わざわざ式など挙げる必要がどこにあるのかと。
そうだ。彼女にとってはこれが初めての結婚なのだ。
「……いいじゃないですか、結婚式」
しばし考えた挙句、こんな気の利かない台詞しか出てこなかった。不甲斐ないとはわかっていながらも、自らの意見を語る。
「うちの父だって望んでいるのですから、挙げてください」
「いいのですか?」
「もちろんです」
「じゃあ、わたしのこと『お母さん』って呼んでくれますか?」
思っても見ない発言に絶句する。すると友紀はくすりと笑う。
「冗談です」
「……冗談で安心しました」
誉が本音を漏らすと、今度は明るい笑い声を立てる。どうみても保険金や退職金狙いの悪女には思えない。
「誉さん、良い方ですね」
「……いや、そういうわけでも」
お世辞か本音かわからない言葉に、困り果てた誉は、無造作に頭を掻き毟る。
「今日は本当にごめんなさい。ドレス選びなんて、男の人には興味がないでしょう?」
「確かにドレスにはさほど興味はありませんが、父があなたを一人で行かせるわけには行かないと煩くて」
しまった。これでは嫌々来ましたと言っているようなものではないか。
「……いえあの、何事も経験と言いましょうか。今後の参考になるかとも思いまして」
何が今後の参考だ。心にも無いことを。だが友紀は口からデマカセだとは知るわけもない。
「誉さんの彼女さんに悪いことをしてしまいましたね……」
どうやら誉に付き合っている相手がいると勘違いしたらしい。
「いえ! 今後とは言っても、一体いつになることやら、私自身見当もつかないくらいですので……」
慌てて訂正を始めたものの、彼女不在をわざわざ宣言しているようで、つい語尾が濁ってしまう。
「とにかく、お気になさらずに」
「……わかりました」
神妙な面持ちで頷いた彼女だが、笑いを堪えようと努力しているのだろう。一文字に引き結んだ唇が、微かに震えている。
「……あなたこそ、いいのですか?」
今度は誉の方から訊ねてみる。
「わたし、ですか?」
友紀は、きょとん、と目を瞬いた。
「私ではなく、親御さんに同行していただいた方がよかったのでは?」
口に出して今更思う。
そうだ、彼女のご両親の方が適任ではなかろうかと。つい圭介の懇願に負けて引き受けてしまったが、その方がごく一般的であり、一番問題が無いように思えた。
しかし。
「いえ、もう両親は他界してしまったもので」
さらりと彼女が告げた事実に、一瞬言葉を詰まらせる。
「……ああ」
申し訳ない、と続けようとするが、ここで謝っていいものか悩む。
誉も中学生の頃、母親と死別している。何かしら母親のことを聞かれ、事実を告げると、誰もが決まって「ごめんね」と言われるのが嫌だった。
しかしそれは誉の場合だ。友紀がどう思うかまではわからない。
「今日来れなかった父の分も、良い物が見つかるよう努力します」
そして彼女の両親の分も……などと言ったらおこがましいかもしれない。それは胸の内に留めておく。
そんな誉の気持ちが伝わったかはわからないが、友紀はそっとほほ笑んだ。
「ありがとうございます」
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