秋の章・06 呪いの言葉

 約束の時間に、五分ほど遅れてようやく到着した。

「いらっしゃいませ」

「篠原で予約を取っていると思うのですが」

「篠原様ですね。ご案内いたします」

 若い男性店員は、爽やかな笑顔を浮かべた。

 篠原が人気の店で予約を取るのが大変だったと、言っていたのは頷ける。店は活気に溢れていた。店内には美味そうな匂いが店中に漂っている。狭い店内を占める弧を描いたカウンターの中に、五、六人の店員が忙しそうに調理する姿。肩を寄せ合うように込み合ったカウンター席は人気のようだ。

 少ないテーブル席は店の一番奥にあるようだ。店員は予約席に誉を案内すると、「ご注文が決まりましたら、お呼びください」と、一礼して去っていった。

「誉くん、遅いよ」

「すまん」

 合コンと聞いていたが、まだ二人、誉を含めてまだ三人だけのようだ。気付けばテーブルも四人掛けだ。もう一人はまだのようだ。

 一番最後ではなかったことに安堵しつつも、篠原と並んで座る女性の姿を確認する。

 やっぱり来ていたか……。

「飛沢くん、早く座ったら?」

「はい……」

 奥に詰めた方がいいかと思うが、彼女の目の前に座るのを躊躇してしまう。彼女の視線を感じつつも、篠原の前に座る。

「飛沢くん、お久しぶり」

 小柄な、ふんわりとした雰囲気を纏う女性は、笑顔であっても油断できない。

「お久しぶりです」

 恐れを隠して会釈をすると、彼女は「にこり」と「ニヤリ」の中間くらいの笑みを浮かべる。

 加藤眞子。篠原の大学時代の友人で、何度か顔を合わせたことはあるものの、個人的な接触は皆無である。

 ただ、篠原主催の会合には必ず彼女がいる。そしてなぜだかわからないが、顔を合わせるたびに辛辣な言葉の洗礼が待っている。彼女が持つ柔らかな雰囲気とは相反した、棘と毒を隠し持った恐るべき存在だ。

「飛沢くん、前よりカッコよくなった?」

 はい?

 予想だにしない発言に、驚きのあまり思わず目を瞠る。

「気のせいですよ」

 見え透いたお世辞なんて嬉しくもない。なのに、篠原が話題に食いついてきた。

「眞子さん、やっぱりわかる? 恋する女の子がきれいになるみたいに、恋する男もカッコよくなるのかもね」

「ふうん、面白いじゃない」

 恋、なんて、自分には恐ろしいほど似合わないことは重々承知だ。故に、自分に対して使われると、なんて滑稽に響くのだろう。

 つまり、恥ずかしということなのだが、「恋なんてしていない」と否定したとしよう。篠原の言葉を肯定するようなものだ。

 肯定したらしたで、どつぼに嵌まるだけだ。しかし、沈黙もまた、肯定しているのと同じだと気付く。

「そんなわけで、全員揃ったことだし乾杯しようか」

「全員?」

 この三人で合コン? それはないだろう。すると、篠原は企むようにほくそ笑む。

「そう、合コンから緊急会議に変更になりました。恋する誉くんに合コンをさせるほど、僕らは野暮じゃありませんよ」

 メニューを眺めながら、眞子も共犯者の顔で目を細める。

「今日は洗いざらい吐いてもらいわよ」

 一体何を?!

 青ざめる誉を他所に、二人はメニューの選別を始める。

「最初は、ええと……フルボトルでいいよね?」

「うんうん、やっぱりアルコールが必要だよね、誉くんの固い口を割らせるには」

「いや、ビールが」

「度数が低いから却下。真人くん、これでどう?」

「口当たりが良くていいんじゃない? 誉くん、泡のワインにしてあげるから大丈夫大丈夫」

 何が大丈夫なのかわからないが、誉の意見は聞き入れるつもりはないようだ。

 眞子は店員を呼び止めると、ボトルワインと料理をいくつか注文する。

「飛沢くんが、とうとう女子大生に墜ちるなんて……楽しいことになってきたわね」

 眞子はメニューを閉じてニッコリ笑う。

「堕ちてなんかいませんよ」

「それに、若い女を好む男って、精神的に未熟だって聞いたことがあるわ」

「大きなお世話です」

 憮然として答えると、眞子はさらに笑みを深める。

「ふうん、相手が女子大生だとは認めるわけね」

「…………」

 絶句する誉を、篠原は気の毒そうな視線を送る。

「誉くん、眞子さん相手に隠し事は無理だし無駄だよ」

 情報発信源が何を言う。ギロリと篠原を睨むが、奴はどこ吹く風。ちょうど店員が運んできたワインボトルとグラスを喜々として受け取ると、さっさと三つの細長いグラスに並々と黄金色のワインを注ぎ、誉の手に無理やり持たせる。

「何はともあれ、乾杯!」

「かんぱーい」

 誉を除く二名は、楽し気にグラスを鳴らす。

 二人のペースに取り残された誉は、泡が立つワインに目を落とす。

 どうすればいいのだろう。今すぐ、直ちにこの場から消えてしまいたい。帰るなんて生ぬるい。この場から蒸発してしまいたい。

 だったら、直ちに椅子から立ち上がり、この場から立ち去ればいい。それはわかっているが、そうしようとしないのは、恐らく誰かに話してしまいたい願望があるのかもしれない。

 しかし、話を聞いてくれそうなのが、面倒くさい事この上ない二人しかいないとは。

 誉は深い溜息を吐くと、微かな泡を立てるグラスの中身を一気に飲み干した。

「おお、良い飲みっぷりだね」

「よしよし、飲みなさい飲みなさい」

 篠原はウキウキと誉のグラスにおかわりを注ぐ。新たに注がれたワインを今度は半分だけ口にすると、静かにグラスをテーブルに置く。

「……で、何を話せばいいんだ」

 ぶっきら棒に言い放つと、さあ来いと腕組みをする。眞子は軽く瞠目すると、口元をほころばす。

「あら、もう酔ったの? 安上がりな男ね」

「まあまあ、眞子さん。もう少し優しく扱ってあげて」

「わたしはいつでも優しいつもりだけど?」

 手酌でワインを注ぎながら、ケロリと眞子は答える。言葉の端々がきついことに、彼女自身は気付いていないようだ。篠原は諦めたように、はははと力なく笑う。

「それで、その女子大生をどうしたいの?」

 どうやら篠原には、彼女ひなたへの気持ちは知られていたようだ。誉は諦め、そして開き直った。

「どうしたいとは?」

 その時、店員が料理を運んできた。籠に入った山盛りのバケットと、厚めにスライスされたスモークサーモンがテーブルに並ぶ。眞子はバケットにサーモンを乗せると、豪快にかぶりついた。

「若い娘をちょっと味見したいだけ? それともちゃんとお付き合いをして結婚まで漕ぎつけたいわけ?」

「……大まかには後者ですが」

「そう。よかった。だったら応援してあげるわよ」

「応援は結構です」

「どうして?」

「相手は学生ですから」

「いいじゃない。あなたのお父様も教え子とご結婚したんでしょう?」

 飛沢家の家庭の事情まで筒抜けのようだ。

 篠原……後で覚えておけ。残ったワインを飲み干すと、ふうっと息を吐く。

「父の相手は、すでに成人していています」

「そっか。飛沢くんの相手はまだ未成年なのね。今手を出したら犯罪者になりかねないんだ」

 犯罪者。その言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。

「だから……眞子さん。もう少しお手柔らかに! そんなダイレクトに言わないであげて!」

 篠原は必死にフォローしようとするが、正直なところフォローになっていない。

「じゃあ、相手が成人するまで清らかなお付き合いをすればいいんじゃない。大した問題じゃないわ」

 そう言って微笑む眞子は、ぐびりとワインを飲み干した。そして再び手酌でグラスぎりぎりまで注ぐ。可愛らしい見た目に反して、豪快な飲み食いっぷりである。

「取り敢えず付き合ってみれば?」

「無理です」

「無理って何よ?」

 簡単に言うが、それ以前の問題だ。

「そもそも相手にされていません」

「ああ、その能面みたいに喜怒哀楽がさっぱりわからない面構えと、威圧的な態度に、愛想の欠片も無いくそ真面目な性格のせい? 確かに、まだ若い子だったらまずは周囲の学生に目が行くわよね。年上といっても、せいぜい二つか三つ程度が許容範囲だろうし。ひと回り以上離れている三十路男を恋愛対象にはしないだろうし」

「…………その通りです」

 眞子の言葉すべてが、ざくざくと誉の心に突き刺さる。まさにその通りとしか言いようがない、反論のひとつも言えない事実である。

「だから眞子さん、もう少しオブラードに包んであげようよ……」

 篠原が珍しくオロオロしながら、眞子と誉の仲介をしようとする。

「でも事実でしょ?」

「まあ、そうだけどさぁ……あ!」

 しまった、と篠原は口元を押さえる。

 篠原は所詮篠原だ。眞子と一緒に誉の心の傷に、塩を擦り込むだけだった。

 わかっている。第一、最初から印象は最悪だったのだから、どう考えても彼女に好かれる要素など欠片も無いことを。

 しかし誉にとっても、彼女の印象は最悪だったはず。コロッケはぶつけられるわ、本は台無しにされるわで散々だったというのに。

 一体いつからだろう。彼女を意識し始めたのは。

 そうだ。最初、自分に謝る機会を懸命に探していた彼女の態度を、恋の告白をされるのではないかと勘違いしていた。あの時はどう断ればいいかと考えていたが……今思えば始まりだったのかもしれない。

 だからといって、どうして好きになっていたのか、自分でもよくわからない。

 でも気が付いたら、目が彼女を追っていた。

「でもよくある話じゃない? わたしも大学生の頃あったあった。助教が女子学生妊娠させちゃった話が。その後退学して結婚したとかしないとか」

「あー、あるある。うちの学校もあったあった。高校と大学で。今の職場でも、去年退職した教授がそうだったかも」

「可能性はゼロじゃないんだから、頑張ってみてもいいんじゃない?」

 まったく勝手なことを言う。 

「加藤さん、いい加減に」

「後悔するよ飛沢くん」

 誉は思わず声を呑む。意外にも眞子の眼差しは真剣だった。

「言いなよ。その子に自分の気持ち。横から掻っ攫われて後悔するなら、真正面からぶち当たってセクハラ扱いされてきたら?」

 セクハラ。自分の思いを伝えたら、セクハラになるのか。

「……あんまりな言い様ですね」

「いいじゃない。本当のことだし。骨は拾ってあげるから安心して振られてくれば?」

 だから眞子さん、オブラードに……と篠原のフォローが虚しく聞こえる。

「それにね、この歳で好きだと思える相手ができるって、とっても貴重だよ? もうこの先そんな相手は現れないかもしれない。飛沢くんの性格からしたら、もう二度と現れないんじゃない?」

 どうしてこの人は、人の心を抉る言葉ばかりを言うのだろう。わかっている。この人が言うことは、本当のことばかりだからだ。

「万が一にでも可能性があるんだから、簡単に諦めるのはやめなさい。一生後悔するから、絶対に」

 眞子は今まで見たことも無い怖いくらいの真顔で、呪いの言葉を言い放った。

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