冬の章・06 あたたかい手

 誉は後悔をしていた。

 明らかに彼女は引いていた。ドン引きだ。柄にもないことは言うものじゃないと、改めて痛感した。

 だけど、たまには素直な気持ちを吐露したい時もある。

 こんな夜更けに、しかも二人きり。年甲斐もなく、気持ちが高揚していたのだろう。

 さっきまでの自分が目の前にいたら、首根っこを掴んで問いただしてやりたい。

 そんな気持ちを、彼女に伝えたところで何になると。

 篠原や順也だったら、引かれることなく聞き流して貰えるに違いない。

 普段から気軽に可愛いと連呼すれば……と一瞬考えたが、やはり自分には無理だ。出来そうにない。

 隣を歩くひなたは、さっきからずっと無言のままだ。つい溜め息を吐きたくなるのを堪え、大通りを走るタクシーがいないか探すことにする。

 しかし、タクシーはおろか、車道を走る自動車自体が少ない。たまに大型トラックが走り去るくらいだ。

「この道を、ずっと真っ直ぐですか?」

 ひっそりと、ひなたは訊ねる。

 話し掛けられただけで、たまらなく安堵さてしまう自分が滑稽でならない。

「ああ。地図によると、そのようだ」

 彼女の一挙一動によって、自分の感情が一喜一憂しているのも事実。

 情けないやら、みっともないやら。せめてもの救いは、汚泥のようなこの感情が表に出ないことくらいだ。

「……この線路沿いを走る大通りを真っ直ぐ行けば、二駅先まで辿り着けるようだ」

 余計な感情が混じらないよう、淡々と地図から得た情報を告げることに撤する。

「結構、暗いですね……」

「確かに……」

 もしタクシーが通り掛かったとしても、暗くて運転手に気付いてもらえない可能性が高い。

 すっかり葉を落とした街路樹が並ぶ通りは、歩道も広く歩きやすい。

 しかし、道を照らす外灯しか明かりになるものがない。しかも設置してある間隔が広く、暗い場所の方が多いくらいだ。

 どうしたものかと考えながら歩いていると、突然隣から「ひゃあ!」という声が上がった。

「山田さん?」

 反射的に隣を見ると、ひなたは地べたに伏していた。いや、転倒したのだろう。

「いたた……すみません」

「大丈夫か?」

 転ぶような凹凸はないはずだ。するとひなたは、眉を下げて苦笑する。

「わたし、よく転ぶんです……」

 なるほど、疑問は解決した。

「怪我は?」

「多分、大丈夫です」

 こういう時は、手ぐらい貸しても構わないだろうか。恐らく構わないはずだ。決して、やましい気持ちからではないのだと、高らかに宣言したい。

 それに、転んだ相手を放置しておくほど非情ではない。彼女が相手ならなおのこと。

 何気なく、さりげなく、ひなたの前に手を差し出す。

「ありがとう、ございます……」

 一瞬、声が固くなる。ひやりとするが、ひなたが手を差し出してくれたことに胸を撫で下ろす。

 唯一、その手に手袋がはまっていることを残念に思ったのは、ここだけの秘密にして欲しい。

「あっ、破れてる」

 立ち上がったひなたは、自分の手を見るなり落胆の声を上げる。

「派手にやってしまったな」

「はい……」

 薄明かりの下でもわかるほど、手袋は大きくなります破れていた。転倒した時に手を付いた時に、アスファルトに擦れてしまったのだろう。

 手袋を外し、手のひらに目を凝らす。

「少し擦りむいているな」

「これくらい大丈夫ですよ」

「どれ」

 ひなたの手を取り、傷の具合を確かめる。

「擦れてはいるが、出血はないようだな」

「はい……」

 ふと、無意識に彼女の手を握っていたことに気が付いた。

 これは不味い……。

 セクハラになりかねない。訴えられるのも困るが、何より彼女に嫌悪される方が精神的にキツい。

「帰ったら、消毒しておけば……大丈夫だろう。うん」

 もっともらしいことを言いながら、何事もなかったかのように手を離す。

 その直後だった。

「先生!」

 突然、ひなたは焦ったように、引っ込め掛けた誉の手を掴んできた。

 何事だ?! 

 一瞬甘い展開が脳裏をよぎるが、とてもじゃないがそんな雰囲気ではないことくらいわかる。

 誉の背後を見て、ひなたは言い放った。

「タクシーが!」

「え」

 反射的に背後を振り返った時、目の前をタクシーが走り去っていった。

「ああ……」

 遠ざかるタクシーを、二人で呆然と見送る。

「空車、でしたね……」

「すまん、そこまで見えなかった……」

「ごめんなさい、もう少し早く気が付けば」

「いや、私は全く気付きすらしなかったからな」

 二人して力なく笑って、ふと気が付いた。いつの間にか、手を繋いでいることに。

 冷たく凍えた細い指。手のひらも薄く、誉の手の中にすっぽりと収まってしまう。

「………………」

 ひなたの方も、同じことに気が付いたようだ。手が強張るのを感じたが、手を引っ込めようとはしない。

 こんな時は、どうすればいい?

 三十路を過ぎて、手を繋ぐくらいで何を躊躇っている。中高校生じゃあるまいし。しかし、彼女が嫌がったら……と思うと、それだけで怖い。今彼女がどんな表情をしているのかすら、確認することも怖い。

 とはいえ、握るなり離すなり、どちらかにしなければならないのも事実。

 この手を離すべきだと思う。それが一番問題がない。

 握ったままの手を解こうとするが、ひなたの声がそれを引き留める。

「先生の、」

 ひなたの指先に微かに力が籠る。

「先生の手、温かいですね……」

「え、あ、ああ……」

 そう告げるひなたの手は、氷のように冷たかった。

「山田さんの手は、冷たいな」

「そっ、そうですか?」

「うん」

「でっでも、ほら、あの。手が冷たい人は心が温かいていいますし……あ! 違いますっ、別に先生が冷たいというわけではなくて……あの、その……」

 ひなたは慌てふためく。暗がりではあるが、恐らく真っ赤な顔をしているに違いない。

 ふと、彼女がアルバイトを始めたばかりの頃を思い出す。

 雨の日にぶつかったことを謝ろうと、こんな風に顔を真っ赤にしていたことが、遠い日のことのようだ。

 あの時、ひなたが恋の告白でもするのではないかと、おかしな誤解をしていた。今考えると、なんて勘違いをしていたのだろう。

 あ、冷静になったぞ。

 彼女が頬を染め、上目遣いで見上げてきても、誤解しないくらい冷静になれそうだ。

 目の前のひなたは、あの時のような目をしていた。

 わかっていても、胸が高鳴るのは仕方がない。

「あの……」

 大丈夫。もうおかしな誤解など抱かない。心にそう言い聞かせながら、静かにひなたの言葉を待つ。

「もう少し、このままで……いいですか?」

「…………」

 予想外の言葉に、誉は声を詰まらせる。それをひなたは、駄目だと受け取ったのだろう。

「あ……ヘンなお願いをしてしまって、すみません」

 誤魔化すように笑いながら、離れようとする手を握り締める。

 びくり、と彼女の手が震える。

「俺も」

 声が掠れる。しかし、誉はそのまま告げる。

「もう少し、こうしていたい」

 ひなたは無言で頷いた途端、顔が火を噴いたかのように熱くなる。顔だけではなく、体温自体が上がったようだ。冷えた彼女の手を暖めるにはちょうどいいのかもしれない。

 それにしとも、暗がりでよかった。こんな赤い顔を彼女に見られたら、堪ったものじゃない。

「……行こうか」

「はい……」

 二人はゆっくりと歩き出すが。

「あ! 先生! タクシーが!」

「ああ」

 二人を追い越したタクシーが、近くの信号で停車する。

「まだ間に合う、か?」

「まだ間に合います」

 手と手を取り合い、二人はタクシーに向かって走り出した。


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