春の章・13 父の再婚相手

 足早に公園から出た誉は、周囲に人がいないことを確かめると、緩みそうになる口元を押さえた。

 彼女とあんなにたくさん話をしたのは、初めてではなかろうか。楽しかった。単純に。彼女は案外、思ったよりもお喋りは好きなのかもしれない。

 ひなたとの会話を思い起こしながら、再び緩んできた口元を慌てて引き締める。

 おいおい、浮かれ過ぎだろう……。

 気を引き締めようと、自分の頬を軽く叩く。

 女子学生と会話をしたくらいで浮かれるほど、女性と接点が無いわけではない。無いわけではないが、大抵は大学関係者ばかりだ。だが会話の内容も研究や業務に関することばかり。プライベートな会話など、ほぼ皆無に等しいのではなかろうか。

 ふと今更になって気が付いた。毒にも薬にもならないような他愛のない日常会話。こんな話をすること自体が久し振りだったのだと。気付いた誉は、愕然とした。

 もしかすると、誰かと会話をするという行為に飢えていたということか?

 大学教員という仕事柄、人との関わりは多い方だ。しかしプライベートまで関わるような間柄ではない。同じ教員の中には、休日にスポーツや帰りに飲み会と、なかなか楽しげな関係を築いている者もいるが、それを羨ましいと感じたこともなかった。

 年に数回ではあるが、大学時代の友人たちと顔を合わせ、月に一度は篠原の飲みに付き合わされ、家に帰れば父親と他愛のないやりとりもあった。

 だが一人暮らしを始めて知った。家事労働も全部一人でやらねばならない。何よりも普段のどうでもいい話をする相手もいない。

 こういうのを、親のありがたみを思い知る――というのだろうか。

 年齢は世間一般では、一人前(目上の教授連中に言ったら「お前なんかまだまだ半人前だ」と言われそうだが)といってもいい歳だ。就いた仕事も若い頃から「先生」と呼ばれるようなものであるせいか、もしかしたら多少はいい気になっていたのかもしれない。

 中身はまだまだ半人前。大人の体裁を取り繕っているだけだ。

 家事労働と自己管理を怠り体調を崩すわ、つい最近まで高校生だった相手とちょっと話ができたからといって浮かれてみたり……。

 情けない。

 唐突に、頭を抱えてしまいたい衝動に駆られる。

 彼女がもしかしたら自分に好意を抱いているなどというのも、もしかすると寂しさゆえの妄想か?

 考えれば考えるほど、情けなさが募ってきた。頭痛すらしてくる。

 さっきまでの浮き立った気分から一転、今日の天気とは裏腹な曇天のような気分だ。しかし、こんな道端で一人落ち込んでいるわけにもいかない。気付けば歩道の真ん中で立ち尽くし、項垂れたまま弁当容器の入ったレジ袋を握り締めていた。

 我に返った誉は、何事も無かったかのように歩き出す。前方を歩いてきた小学生男子二人組が、驚いたように飛び上がる。じっと立ち止まっていた人間が、突然猛然と歩き出したからであろう。気まずい気分を抱えながら、硬直する小学生の脇をすり抜ける。

 取り敢えず帰ろう。

 今夜はとうとう父圭介の再婚相手と会う約束になっている。まだまだ時間は十分にあるが、家に帰って心の整理をした方がいい。

 結婚か……。

 妻を早くに亡くし、男手ひとつで誉を育ててきてくれた父。幸せになって欲しかった。父と連れ添う相手がたとえどんな人物であろうと、父を大切にしてくれる相手であれば十分だ。

 この歳で、まさか義理の母親ができるとは思わなかった。誉は軽く苦笑すると、晴れ渡った青空を見上げた。


* * * * *


 今日の待ち合わせは、東京駅からほど近い割烹料理店だ。

 午後六時に予約を取ってあるから、十分前に店の前に到着すれば十分であろう。

 ここからの所要時間は、約一時間。徒歩を含めて一時間十五分というところか。

 現在、午後二時五十五分。支度は三時半には終わるだろう。しかしせっかく都心部に出るなら書店に立ち寄りたい。三時半に家を出れば、四時四十五分……いや四時五十分としておこう。目当ての書店から割烹料理店までは十五分もあれば移動できる。

 書店での滞在時間は約四十分。

 計画を立てながらひた歩き、帰宅をするなり誉は浴室へと直行した。

 シャワーを浴び、歯を磨き、髭を剃り、所持している中で比較的新しいスーツを身に纏った。

 ワイシャツは多少皺が寄っているが、上着を着ていれば目立たない。ネクタイを締め、適当に髪を整え、セルフレームの眼鏡から銀フレームのいつものものに変える。

「……よし」

 髪を切りに行けばよかったと後悔するが、今更考えても仕方がない。

 あとは財布と携帯電話をポケットに突っ込むと、慌ただしく家を出た。



 別にわざわざ会食の前に本屋などに行かなくてもいいだろう。言われてみれば(誉自身のツッコミなのだが)その通りなのだが、どうも気が進まないせいだろうか。目の前に自分自身へのご褒美的なものをぶら下げておかないと、回れ右で逃げ出したくなりそうな気がしていた。

 父圭介が選んだ相手と会うのが、正直怖い。

 取って食われるわけじゃないことくらいわかっているが、漠然とした不安が心を覆うとでも言うのだろうか。

 いや……そうじゃないか。

 亡くなった母親の存在が、父の中から消えてしまうのではないかという不安、恐れだろうか。

 それも違うな。

 単純に嫌なだけかもしれない。母親以外の女性が、父の隣にいるということ自体が。

「…………はあ」

 大型書店の真ん中で、誉はひっそりと嘆息する。

 俺はガキか。

 思春期の少年ならいざ知らず、三十路に足を踏み入れた男が何を言っている。

 ああ、目の前には、以前から気になっていた本があったというのに。これから購入しようとしている本を抱えているというのに、一向に心は浮き立たない。

 しかも、こんなにもたくさんの本に囲まれているというのに。

 活字中毒の誉は、ジャンルに問わず書店や図書館といった山のような本に囲まれるだけで心が躍る。本の森の中でなら一日中だって過ごしていられる。

 なのに。

「…………ふう」

 二度目の嘆息をすると、腕時計を見る。

 五時二十五分か。

 あと五分の猶予が残っているが、諦めて店へ向かうとしよう。

 三度目の嘆息の後、誉はレジへ向かった。

 

 重たい紙袋を片手に提げて歩くこと十五分。店の前に辿り着いた。

 一見オフィスビルかと思いきや、一階のエントランスにあたる場所に日本家屋風の門が鎮座していた。

 ……ここか?

 門に掛かった提灯には立派な筆文字で店名が記されている。

 ここで間違いないはずだよな。

 門の奥には着物姿の店員が待ち構えている姿が見える。あちらにも誉の姿が見えているらしく、中に入って来るのを待ち構えているようだ。

 待ち合わせは店の入り口で、という約束になっているが、少々居心地が悪い。煙草でも吸っていれば手持無沙汰にならずに済んだかもしれないが、生憎喫煙はしていない。

 数歩、店員の視界から逃れた場所へ移動すると、携帯電話を上着のポケットから取り出した。メールチェックでもしながら時間を潰そうと思ったものの、一件も受信されていない。

 買った本でも読むかと紙袋をまさぐり、適当な一冊を取り出した。

 休日のオフィスビル群の中のせいか、都心部であるにもかかわらず周囲は薄暗い。唯一店から零れる灯りが周囲を照らしているが、温かみのある赤味を帯びた灯りの下の読書は不向きのようだ。

 数ページ頑張ってみたが、これ以上視力が落ちても敵わない。諦めて本を閉じた丁度その時だった。

「――誉?」

 聞き馴染んだ声に気付いた誉は顔を上げた。

「父さん」

「ずいぶん早かったんだね」

「ああ、まあ……」

 小さく手を振りながら歩み寄って来る父の姿に、思わず目を瞠る。

 見慣れないグレイのスーツ。恐らく新調したのだろう。髪はすっかり白髪と黒髪が半々に入り混じっているものの、若い頃からほぼ体型が変わらない圭介は、遠目で見ると実年齢よりも若く見える。

 もしかすると、誉よりも若々しいのではなかろうか。

 やっぱり髪を切って、新しいスーツを用意しておくべきだったかもしれないと思うが後の祭り。

 まあいい。洒落っ気が無いくらいで、父の再婚相手の印象を悪くすることは無いだろう。

「で、お相手は?」

 一緒に来るものかと思っていた。周囲を見渡すが、それらしき女性は見当たらない。

「少し遅れると連絡があって――ああ、着いたようだ。友紀さん」

 圭介は誉の背後に視線を移すと、嬉しげに手を振る。

「圭介さん、ごめんなさい――」

 駆け寄って来る女性の声は、案外若々しい。背後からカツカツとヒールの踵を鳴らす音の方向へ振り返る。

「――っ?!」

 黒いパンツスーツ姿の女性が、肩を覆う黒髪をなびかせながら駆け寄って来る。年齢は誉とほぼ同世代といったところであろうか。

「お待たせしてしまって、ごめんなさい」

 女性は誉と圭介の目の前で止まると、弾んだ息のまま、ぺこりと頭を下げた。

「大丈夫。僕もついさっき着いたところだから」

「あら、よかった」

 圭介の言葉に、安堵したようにほほ笑む。

 一見すると化粧が濃いように見えたが、近くでみると案外薄化粧だ。元々目鼻立ちがはっきりしているせいだろう。黒いシンプルな、だがシルエットは女性らしさを感じさせるパンツスーツ。髪も毛先に軽くパーマを当てているが、髪の色自体は生まれ持ったままだ。

 ……美人だな。

 切れ長の大きな瞳。華奢だが付くべき部分には、しっかりと付いている均整のとれた身体。

 再婚相手の娘だろうか。相手にも子供がいてもおかしくはない。こうして誉が面会の場に呼ばれているのだから、相手の息子か娘が同席しても、なんらおかしなことはない。

「始めまして。飛沢誉と申します」

 自己紹介をすると、友紀と呼ばれた女性はくすりと笑う。

「廣瀬友紀です。誉さんのことは、圭介さんからいつも色々と伺っているんですよ」

「父から?」

「はい」

 友紀は嬉しそうに頷く。

 すでに再婚相手とは家族ぐるみでの付き合いだったというのか。

 軽い疎外感を覚えるが、今更気にしたところでどうにもならないことくらいわかっている。

 大人げないぞ。

 誉は軽く息を吐くと、再び周囲を見渡した。

「ところで、お相手の……あなたのお母様はどちらにいらっしゃるのでしょう」

 娘が来ているというのに、当事者である母親が不在とはなんたることか。しかし、友紀は不思議そうに首を傾げる。

「私の母? どうして?」

「どうしてって……父の結婚相手はあなたの……では?」

 すると二人は顔を合わせ、ちょっと困った顔になる。

 何かおかしなことを言っただろうか。誉が戸惑いの表情を浮かべると、おずおずと友紀が口を開いた。

「あのですね……それ、わたしです」

「え?」

 思わず父圭介を見る。すると圭介は、照れ臭そうにこめかみを掻きながら言った。

「誉。彼女がその、お相手だよ」

「……え?」

 何度も訊ねるほど馬鹿ではない。父圭介と、友紀が言わんとしていることはわかる。だが、頭がそれを拒絶して、理解をさせてくれない。

 茫然としている誉の前で、友紀は圭介と肩を並べ、満面の笑みで驚くべき事実を言い放った。

「わたしが圭介さんの結婚相手です。よろしくお願いします」

 今度は深々と頭を下げる。


 ……嘘だろう?!

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