春の章・12 犬とコロッケ

「本当に……すみませんでした」

 大型犬、チビ太を抱き締めたまま、山田ひなたは何度も頭を下げる。

 彼女の話によると、散歩の途中でコンビニエンスストアに立ち寄るために、リードを柵か何かに繋いでおいたら、首輪を引っこ抜いて逃走してしまったという。

 この公園は散歩コースだから、逃げたチビ太がここへ来ることは見当が付いていたらしい。だが、人の弁当をおねだりしていたのは予想外だったと、ひなたは話す。

「ちゃんと朝ごはんはあげたんですけど……すみません」

 と、ひなたは頭を下げる。

「いや別に……私が勝手にしたことなのだから」

 誉にしてみれば、犬に弁当をねだられたよりも、こんなところでひなたと遭遇したことの方が予想外だ。

 実を言うと、休みに入れば、しばらくひなたと顔を合わせなくて済むと、少々ホッとしていた。けして嫌なわけではないのだが、最近の不可解な言動のお陰で、ついつい身構えてしまう。

 怯えた態度を見せたと思えば、物言いたげな眼差しで見つめてくる。

 一体何を考えているのか、さっぱりわからない。

 これが、誉を悩ませる原因だった。

 自分で言うのもどうかと思うが、この無愛想面のお陰で、苦手とする人間がいることくらい自覚はしている。しかし、ここまで苦手意識をあからさまにする人間はいなかった。しかも、彼女の場合は初対面からだ。

 そこまではいい。問題は、その後の彼女の態度だ。

 話があると言っては、真っ赤になって逃げていく。それが一度ではない。何度もだ。

 謎の言動が何度か続くにつれ、今まで怯えていたと思っていた態度が、もしかして単に恥ずかしがっているのだろうかと、我ながら馬鹿げた妄想を抱きそうになる。初対面の怯えた態度も、もしやその一環かとも。


 無い。それは無い。


 ここ数年、彼女がいないせいで欲求不満で、あらぬ妄想まで抱くようになってしまった可能性はある。だが、山田ひなたの一貫性のない態度も、あらぬ妄想に拍車を掛ける一因でもあることは確かだ。

 しかしこの際だ、はっきりさせてやろう。

 此処で会ったが百年目。今までの不可解な言動を、今日こそ白日の下に晒してやろうではないか。

 しょぼくれた少女と大型犬の頭を見下ろしながら、静かに決意を固める。

「山」

「実はこの子、ここのお肉屋さんのコロッケが大好きなんです」

 言葉を遮られ、誉は口をぱくぱくとさせる。白日の下に晒してやると意気込んでいたというのに、見事に出鼻を挫かれてしまう。

「でも、もう高齢だから脂っこいものをあげないようにしていたんですけど、まさかこんな。人様のものを欲しがるなんて」

 抱きかかえられたチビ太も、耳を下げ、飼い主と一緒にしょんぼりしている。まるで二匹の犬が耳を垂れているようで、いたたまれない気分になる。

「…………君が気にする必要はない」 

 考えた末、やっと出たひと言だった。気が利いていないのは、承知の上だ。

「あの、わたし」

 突然、ひなたが顔を上げた。

「新しいお弁当買ってきます!」

 誉の返事を待たず立ち上がると、リードをベンチの足に括りつけ、しゃがみ込んでチビ太の頭をわしわしと撫でる。

「チビ太、お座り。良い子にして待ってるんだよ」

 チビ太は困ったように、ひなたを見上げている。

「いや、新しいものなど買いに行く必要はない」

 黙っていたら、このままあの肉屋へ飛んで行ってしまいそうだ。きっぱりと告げるが、ひなたはとんでもないと大きく頭を振る。

「そういうわけにはいきません」

 意外にも頑固なところがあるようだ。しかし、誉とて黙って行かせるわけにはいかない。

「新しい弁当などいらない。必要がないと言っているんだ」

 少々声を荒げてしまったかもしれないと自覚したのは、ひなたが驚いたように瞠目したからだ。

「で、でも」

 大きく見開いた瞳が頼りなく揺れる。

「近いですし、すぐに買ってこれますから……」

 顔を背けるように、視線を地面に落とす。微かながら、声が涙声になっているのは気のせいではないだろう。チビ太が慰めるように、ひなたの手の甲を何度も舐めている。

 不味い……。

 誉の背を、冷たい嫌な汗が一筋伝う。

 まだ半分以上残っているのだから、わざわざ買い直しに行く必要は無い……というつもりで告げたのだが、ひなたはそうは受け取ってくれなかったようだ。

 また言葉が足りないばかりに、誤解させてしまったに違いない。

 これは、何とかしなければいかんだろう。

 曖昧なもやもやとした感情はかなぐり捨て、膝の上の弁当容器を傍らに置いた。

「私が、勝手にあげたわけであり、だから……買いに行く必要は無い。よって新しい弁当など必要は、無くても大丈夫というわけであり……」

「……はい」

 誉は必死に頭を捻りながら、雨垂れのように切れ切れに言葉を紡ぐ。一応は耳を傾けてくれているようで、誉の言葉が途切れる度に、いちいち丁寧に相槌を打つ。

「山田さんが謝る必要は全くないわけで……むしろ私の方が……あれだ、その……」

 自分の何に彼女が怯えているのか見当が付かないせいもあり、言葉を選ぶのも慎重になってしまう。お陰で何を言っているのか、さっぱりわからなくなってきた。

「だから、その……申し訳ない」

 誉は頭を下げる。

「せ、先生!?」

 途端、ひなたは慌てたように顔の前で手を振った。

「そんなことないです! 先生のせいじゃありません!」

「いや、そんなことはある。私も不注意だった」

「いえ! わたしとチビ太が悪いんです!」

 何度か押し問答をしているうちに、この状況が可笑しくなってきた。

「……堂々巡りだな」

「そ、そうですね……」

 力が抜けたような苦笑を漏らすと、同調するようにひなたもくしゃりと笑う。

 ……笑った?

 もしかすると、彼女の笑顔を目にするのは初めてかもしれない。

 これまで怯えたような顔ばかりしか見ていない。それどころか、こうして顔をつき合わせて会話をするのすら始めてなのかもしれない。

 ほんのりと紅潮した頬を、うっすらと覆う産毛が陽射しを受けて柔らかく光っている。

 今日は化粧をしていないと、わかるくらいの至近距離。普段よりも幼い印象ではあるが、まだ肌が十分に綺麗なのだから化粧などしない方が彼女にはよく似合っているのではなかろうか。

 まるで桃みたいだな。

 ぼんやりと、そのような感想を思い浮かべた時だった。

「あの……何か?」

 ひなたに不思議そうに訊ねられ、誉はようやく我に返る。

「ああ、いや……別に何も」

 慌てて視線を外しながら、冷や汗が流れる。まさか肌の綺麗さに見惚れていましたなんて言えるわけが無い。

「ええと、とにかくだ」

 俺は変態か、ロリコンか……何が桃みたいな肌だ、おい。

 誉の頭の中をエロ親父、変態、ロリコンといった文字が、ぐるぐると渦巻いている。あまりにもぐるぐるとして、本当に眩暈がしてきた。

「今回のことはお互いに――うわ!」

 突然、生温かく湿ったものが鼻先を舐め上げた。誰が、と説明するまでもなかろうが、一応説明しておこう――チビ太だ。

「うわ、こら……くすぐった……わっ」

 誉にずしりと圧し掛かり、何度も何度も顔を舐めてくる。名前はチビでも、身体はデカい。圧し掛かられ、顔を舐められ、しかも相手には一欠けらの悪気がないから、無碍にはできない。

「ちょ、待った……あ、はははっ」

 じゃれ付いてくるチビ太を抱え、誉はそのまま尻持ちを着く。

「せ、先生! こら! やめさいチビ太!」

 誉を押し倒した愛犬に、ひなたは叱責の声を上げるが、やんわりとそれを制する。チビ太の頭をわしわしと撫でながら、犬というものは可愛いものだとしみじみ思う。

「先生、犬……好きなんですか?」

「そうだな。好きかもしれないな」

「犬、飼っていたんですか?」

「残念ながら。飼いたいとは思ったことがあったがな」

 子供の頃、犬を飼いたいとねだったこともあったが、ちょうど母親の具合が悪かった時期でもあった上、父親も仕事が最も忙しい時期でもあった。

 今思えば、誰もいない家に帰るのが寂しかったのかもしれない。だから犬でもいれば、と考えたのだろう。子供らしい短絡的な考えだ。

 ようやく落ち着きを取り戻したチビ太を抱え、眼鏡を掛け直すが、唾液でレンズが汚れてしまって視界が悪い。生憎ハンカチもティッシュペーパーも持ち合わせていなかった。仕方なく、自分のシャツの裾で拭くと、改めて眼鏡を掛け直した。

「……?」

 彼女は誉を凝視したまま呆けていた。あるいは驚愕していた。もしくは、宇宙人と未知との遭遇でもしたかのようだと言ったほうが、適切かもしれない。

「山田さん?」

「え、あ、ははいっ!」

 一気に顔を真っ赤に染め、慌てて「気をつけ」の姿勢になる。

 誉は思わず身構えるが、はたと思い出す。

 そうだ、ついさっきまでこれまでの不可解な言動をはっきりさせようと思ったばかりではないか。

 今日こそ彼女の真意を、白日の下に晒してやろう――そう思っていた。が、いざ行動に移そうと決意を固めた途端、急に恥ずかしくなってきた。

 よく考えてみろ……もしかすると大いなる勘違いという可能性だってあるじゃないか。

 自惚れもいいところだ。いい笑いものだ。これまで困るほど女性に言い寄られた経験などないという人間には無用の心配である。

 だがもし。もしも、だ。彼女が本当に好意を持ち、自分に伝えようとしていてもだ、相手は学生だ。教員と学生が色恋沙汰などあってはならない事態である。

 とはいえそもそも彼女が自分に好意を持っているかもわからないし、自分が彼女に対してそのような感情は持ち合わせていない。そもそも、彼女と自分の間にそのような関係が成立するとは思えない。

「あの……先生」

 ぐるぐると堂々周りの思考に囚われていたが、ひなたの遠慮がちな声によって我に返った。

 ひなたはベンチの上の弁当を指差した。

「お弁当、冷めてしまいますよ」

 ひなたが指で示す方向に目を向ける。そこにはすっかり冷めきった弁当があった。

「すみません。食べようとしていたのを邪魔しちゃったのはわたしなのに……」

「ああ……いや」

 やはり柄になく緊張していたのだろう。急に身体中の力が抜けていく。同時にもんどり打ちたくなるような羞恥が身体中を駆け巡る。

 自意識過剰にも程がある。穴があったら入りたい。いや、穴がなかったら自ら掘ってしばらく埋まっていたい。

 冷えたコロッケを噛みしめながら、切に思った誉であった。

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