秋の章・13 子猫の名前
子猫の世話が、これほど大変だとは思わなかった。
まだ胃が小さいせいだろう。一回のミルクの量が少なく、それ故に一日に何度も飲まなくてはいけないようだ。本来なら親猫が舐めて排泄を促してやるが、今は誉が親代わりだ。代わりに飼い主が取る方向は、大抵インターネットが教えてくれた。Google先生万々歳だ。
しかし、まだ乳飲み子の子猫を留守番させておく有効な方法は見つからなかった。
ハウスキーパー的なサービスを受ける……他人を自分が不在の時に家に上げるのは不安だから却下。
実家に預ける……圭介も友紀も仕事をしているから却下。
ペットショップやペットホテルに預ける……近場にないから却下。
結局、こうして職場に連れてきてしまった、というわけだ。もちろん内密に、である。
授業や会議の合間に研究室に戻れば、なんとか世話ができそうだと思ったが、さてどうなることやら誉自身も検討がつかない。
研究室に着くと、誉は眠たい目を擦りながら缶コーヒーを口にする。
普段なら焼き立てのパンとインスタントだが研究室で淹れたを揃えているが、今朝は缶コーヒーのみだ。
猫を連れてパン屋に入ることもできないし、お湯を沸かすのも手間だ。そして何より、寝不足で食欲がなかった。
夜中も排泄とミルクのお世話で、睡眠は細切れだったせいが大きい。
授乳期は睡眠が取れなくて辛かった、と語るご婦人方の話を他人事のように聞いていたが、今になってその辛さが骨身に沁みる。
寝床となる段ボール箱で眠る子猫を見下ろす。
だが、可愛い。
やはり可愛い。
寝不足は辛いが、とにかく可愛い。ミルクを飲む姿、眠る姿、何をしていても可愛い。
そう、可愛いから何とか頑張れそうな……気がする。
そうだ、名前を決めないといけない。世話に追われて、肝心なことがすっかり抜け落ちていた。
今のところ、仮名で「クロ」と呼んでいる。何故なら毛の色が黒いから。
「……」
もう少し捻りが欲しいと思うが、いかんせん適切な名前が浮かばない。敬愛する学者の名前を頂こうかとも思ったが、この子猫は雌猫で、候補に上がった人物たちはは男性だった。
山田ひなたに名付けをゆだねる案も浮かんだが……駄目だ。
思いを断ち切ろうという相手に名付けを頼もうなど、未練がましいにもほどがある。ふと、彼女の名前をいただこうかと脳裏を掠めたが、それこそ愚の骨頂。愚かの極みである。一瞬でもそんなことを考えた自分を抹殺してやりたい。
「…………」
やはり自分で考えよう。
子供の頃、散々両親に犬や猫が飼いたいと強請っていたではないか。結局、母が亡くなってそれどころではなかったが。
気付いたら成人し、犬や猫を飼いたいという気持ちも、日々の忙しさに忙殺されて薄れていた。
名前、名前……。
誉は再び、子猫の名付けに没頭することにする。
ひとまず、黒から発想を拡げようと思う。何故なら昔からクロ、シロ、ミケ、ブチ、トラと、体毛の色や模様から名付ける風潮があるからである。
黒いもの。炭、墨汁、カラス、黒ゴマ、イカスミ、暗闇、夜空、黒曜石……後は思い浮かばない。
しかし、この路線で名前を考える方が良さそうだ。うんうんと、頷きながら缶コーヒーの残りを飲み干した。
「あ」
そういえば、珈琲も黒い。
「この路線で考えるのもありか……」
そして、子猫の名付けは迷走する。
* * * *
「じゃあ、まだ名前決まっていないんですね」
「……なかなか思い浮かばなくてな」
今日は授業が終わったんですと、順也が昼過ぎにふらりと研究室にやって来た。
やはり拾った当人としては、子猫の様子が気になるようだ。子猫と散々遊び倒してから、ようやく腰を落ち着けた。
「じゃあ、僕が考えましょうか?」
ふと、彼に委ねるのもいいかと思った。しかし、思い直して首を振る。
「いや、せっかくだから、自分で考えたい」
「そうですか。実はいくつか考えていたんですよ?」
そして彼が考えたという名前をいくつか聞いたが、声に出して呼ぶには少々気が引ける、華美で華麗なカタカナ名だった。
「やはり、ここはシンプルにクロにするか」
「先生、それじゃあ……少し捻りを加えてマックロは?」
「マグロ?」
「違いますよ、マックロ……あ、マグロもありですね。マグロにしましょう!」
ちょっと待て。こんな小さな子猫に鮪?
なんて聞き間違えを犯してしまったのだろう。己の耳が恨めしい。
「いや、さすがにマグロは」
「じゃあ、他の人の意見も聞いてみましょう。取り敢えず、ひなたちゃんの意見を聞いてみましょうか?」
今日もここのバイトなんですよね? と、ニコリと笑う。
このままでは「マグロ」に決定しそうな雰囲気だ。マグロになるなら、まだクロの方が可愛らしいではないか。
「小原くん、クロだ。クロにする。クロにしよう」
「まあまあ、山田さんの意見を聞いてからでも遅くはないですから。この先、彼女にお世話を頼むこともあるでしょうし、ね?」
「いや、しかし」
「それに、この子を拾った僕にも名前を考える協力くらいさせて欲しいですよ」
確かに、子猫を保護したのは
「……そうだな」
仮名クロ、もしくはマグロを段ボール箱からすくい上げる。膝の上に降ろすと、昨日のシャンプーの匂いがふわりと香る。
「ずいぶん、毛並みがきれいになってきましたね」
誉の手の中にいる子猫を、横から順也が覗き込む。
確かに、皮膚病もずいぶんよくなって、体毛の量も増えてきた。目ヤニも少なくなり、きれいな青い目がぱっちりと開いている。
「よかったなー、マグロ。この調子で鮪のように大きくなるんだぞ」
「おい、小原くん。まだマグロに決まったわけじゃ……」
その時、コンコンとドアがノックされる。「失礼します」と弾んだ声の後に入って来たのは、案の定山田ひなただった。
「名前、決まったんですか?」
どうやら外まで聞こえていたらしい。もう少し声のボリュームを下げないと不味い。
「いや、まだ名前は」
決まっていない、と言い掛けた言葉に被せるように順也が言った。
「うん、マグロ。魚の鮪のように大きくなるようにって、どう?」
そんな由来はでっち上げだ。マックロの聞き間違えだ。
すると、ひなたは一瞬きょとんと目を瞬く。
「マグロ?」
「うん、マグロ」
「まだ決まっていないぞ。あくまで候補だ」
「他の候補はどんな名前なんですか?」
「クロ。もしくはマックロだ」
「ひなたちゃん、どっちがいいと思う?」
「ええと、わたしだったら……」
軽く宙を睨んだのは一瞬。至極真面目な顔で、彼女は言った。
「マグロよりは、マックロがいいと思います」
見事に意見が割れた。
「そうか……」
「そうなんだ……」
再び、名付けは迷走……いや、もういい加減決めてしまいたい。
「よし」
誉は子猫を抱き上げると、意を決して宣言した。
「お前の名前は、マックロに決定だ」
子猫は了承の返事をするかのように、ニャーと小さく鳴いた。
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