秋の章・14 思わぬ珍客

 ここ最近、飛沢研究室にはよく人が訪れる。しかも本人が不在の時にである。

「失礼します……」

 控えめなノックの後に、留守番のひなたが「はい、どうぞ」と返事をする。

 すると、恐る恐るドアが開かれる。ひょっこり顔を出したのは、二十代半ばくらいの女性だった。

「橘先生」

 ひなたも童顔だと言われるが、橘だって負けていない。教員というよりは、学生と言った方がしっくりくるくらいだ。

「あはは、こんにちは……飛沢先生は?」

「事務室に行ってます」

「良かった。お邪魔します」

 この女性は文学部助教、橘三花たちばなみか。ひなたが籍を置く国文科の教員である。眼鏡とお下げがトレードマークとなっている。いい大人がお下げはどうかと思うかもしれないが、橘がすると様になっているから不思議である。

「マックロちゃんは?」

「今眠っています」

 飛沢が猫を飼い始めたと、どこで聞きつけたのか。飛沢が苦手らしいが、猫は好きらしい。最近、飛沢の不在時を狙ってよく研究室に訪れる。

「マックロちゃん、こんにちは……あらら、ホントにねんねしている…………可愛い」

 段ボール箱を覗き込むと、橘は眠るマックロをそっと撫でる。そして、うっとりとした顔のまま、ひなたの方を振り返る。

「山田さん、マックロちゃん大丈夫?」

「大丈夫ですよ。最初の頃は皮膚病も酷かったですけど、今じゃ毛もふわふわになって、最近は柔らかいキャットフードも食べれるようになってきました」

 目ヤニも治まり、今では目もぱっちりと開いている。生えそろった体毛は灰色がかった黒で、真っ黒ではなかったが。最近はマックロという名前が自分のものだと理解しているらしく、名前を呼ぶと可愛らしい声で返事をしてくれる。

「そっかあ。それはよかったけど……大丈夫っていうのは、そうじゃなくて」

「え?」

 橘はひなたに近付くと、耳元で囁く。

「飛沢先生って、ちゃんとお世話しているのかなあって……」

 ひなたは思い出した。飛沢が巷では、無表情無愛想を絵に描いたような人物であることを。だから、冷たい印象を抱かれがちである。

 しかし、実際の飛沢は感情を表に出すのが苦手なだけで、けして冷たい人ではない。

 ここは飛沢の名誉を挽回しなければ。

 ひなたは、ぐっと手のひらを握りしめる。

「飛沢先生、結構面倒見いいですよ。ミルクのお世話が大変みたいで、いつも目の下に隈作っていますし」

「ええ? 飛沢先生、ちゃんとお世話するの?」

 目を丸くする橘に、ひなたはさらに畳みかける。

「そうなんです! 先生、子供の頃から犬や猫が飼いたかったみたいで、すっごく可愛がっているんですよ。この子の名前を付けるのも、ものすごく悩んでいて……結局小原くんが考えた名前になっちゃんですけどね」

「へえ……そうなんだぁ」

 ひなたの話が意外だったようだ。橘はしばらく感心したように「へえ」とか「なるほど」とブツブツ呟いていたが、ふと思いついたように「あ!」と小さく手を打った。

「そっか、なるほどね……」

 イシシシ……と、まるで漫画のような含み笑いをする橘に、ひなたは首を傾げる。

「えっと、橘先生?」

「わたし不思議だったのよね。どうして山田さんが人文の飛沢先生のころでバイトなんかしているんだろうって」

「ああ、それは小原くんの紹介で」

「それよ!」

 びし! とひなたに人差し指を突きつける。

「山田さん、小原くん狙いでバイト続けているんでしょ?」

「ええっ!? 違いますよっ!」

 ひなたは慌てて否定する。しかし橘が簡単に納得してくれるわけがなかった。

「だって、あの小原くんよ? あんなイケメン青年の紹介なんて断れるはずがないし、たまにというか、頻繁にここに来るんでしょ? 彼、飛沢先生に懐いているから。しかも子猫! 不良青年が雨に濡れそぼる子猫を拾うシチュエーションも萌えるけど、イケメン青年がって……できすぎでしょ! 絵になる……ああ、そのシーン見たかったなあ……」

 一気に捲し立て、恐らく順也が子猫を拾うシーンを想像しているのだろう。うっとりしながらマックロの背中を撫でる橘を、ひなたは茫然と眺める。

 そっか。傍から見たら、そういう風に思われていたんだ。

 確かに最初の頃は順也と話すとドキドキしていたが、最近はすっかり慣れてしまった。

 小原順也という青年は、確かにカッコいいし、面倒見も良いし、人付き合いもいい。

 でも最初の印象が「ああ、自分とは次元が違う人だ」と思ったせいかもしれないが、順也に恋愛感情を抱くなんて考えたこともなかった。

 もちろんそれは、飛沢にも同じであったのだけれど。

 もしかしたら飛沢先生も……。

 不意に、新たな事実に気付いてしまった。

 わたしがここでアルバイトを続けているのは、小原くんが目当てだからって……思われているのかもしれない。

 飛沢目当てで、と本人に気付かれたら居たたまれないことこの上ない。しかし、順也が目当てでなんて思われていたら、やるせないことこの上ない。

 顔色を失ったひなたに、橘は気付いたようだ。

「大丈夫よ、山田さん。このことは黙っていてあげる」

 フォローするかのように、ひなたの肩をポンポンと叩く。そして、満面の笑顔で親指を立てる。

「陰ながら応援するからね、頑張れ!」

「だから! 違いますってば!」

「まあ、照れるな照れるな」

 今度はバシバシと背中を叩いてくる。橘本人に自覚はないようだが、地味に痛い。

 騒いでいたらマックロが目を覚ましてしまった。うるさいと抗議の声を上げるマックロを、ひなたが抱き上げようとしたが、横から橘に掠め取られてしまう。

「マックロちゃん、うるさくしてゴメンね ー」

 マックロが不機嫌な声を上げた時だった。研究室のドアが不意に開いた。

「あ」

 ちょうどドアの方を向いていた橘が、マックロを抱いたまま硬直する。

「とっ、飛沢先生、お邪魔していますっ!」

 橘の強張った表情を見て、背後を振り返る。そこには一見、普段と変わらない飛沢がいたが、明らかに驚いていることは確かで。

 わたしがフォローしなければ!

 ひなたは慌てて立ち上がる。

「先生おかえりなさい。そして、こちら猫好きの橘先生です!」

「橘先生……?」

 一瞬訝しげに眼鏡の奥の目を細めた。しかし、すぐに思い出したかのように、わずかに目を見開く。

「ああ、今年赴任した国文科の」

「はいっ! 新参者の橘三花と申します! 飛沢先生のところに子猫がいると噂を聞いて、お伺いしてしまった次第でございます!!」

 そして、角度90度の深々としたお辞儀をする。

「猫、お好きなんですか?」

「はい! 三度の飯より大好きであります!」

 背筋を伸ばし、大真面目に橘は答える。

「そうですか……」

 不意に言葉を濁すと、作った拳で自分の口元を押さえる。

「ふっ……」

 そして固く閉じた唇から、小さな笑いが漏れた。最初は堪えていたようだが、一度堰が切れたらもう限界だったようだ。顔を背けて肩を小刻みに震わせる。

 先生が、笑ってる!

 たまに笑顔を見る機会はあるものの、ここまでの爆笑(飛沢先生比)はお目にかかった試しがない。

 ひなたも驚いたが、それ以上に驚いているのは橘だった。驚きというより、驚愕に近い。唖然となって、笑う飛沢を無遠慮に凝視している。

「ふっ、はは……失礼しました。猫がお好きなら、いつでもどうぞ」

 破顔一笑。初めて見る飛沢の笑顔、まさに笑顔を目の当たりにして、心臓を鷲掴みされるとは、こういう感覚なのだなと実感する。

 マックロ、すごすぎる……。

 能面、仏頂面、鉄面皮と名高い飛沢先生にこんな顔をさせるとは。

 ふと橘の反応が気になって、ちらりと盗み見る。すると。

「はい……是非。あ、ありがとうがざいます!!」

 打って変わって、頬を紅潮させた橘が目をキラキラさせているではないか。さっきまでの警戒した様子はまるでない。

「ではごゆっくり。山田さん、会議の資料は印刷してくれた?」

「は、はいっ」

 我に返ったひなたは、慌てて頼まれていた資料の束を渡す。何だか恥ずかしくて、飛沢を直視できない。

「ありがとう。じゃあ、行ってます」

「はい、行ってらっしゃい」

 そして、飛沢はあっという間に去って行った。

「あの、橘先生…」

 ぼーっと立ち尽くしたままの橘に声を掛けようとしたが。

「飛沢先生って、いい人なんだね……」

 と、独り言のように呟やくと「山田さん」と、突然ひなたの方に振り返る。

「先生のお許しも頂いたし、またちょくちょくお邪魔させてもらうわね!」

「え、あ、はい……………?」

 よくわからないが、一瞬橘に対してイラッとしてしまった。

 わたしってば、橘先生になんて失礼なことを……。

 飛沢の名誉を挽回できたことを喜ぶべきなのに、それができないなんて。

 わたしって、こんなに心が狭かったっけ?

 そんな自分に嫌悪を抱きつつ、何ともいえない不安に囚われるのを自覚せざるおえなかった。

 



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