秋の章・15 揺れに揺れる男心
最近、よく橘先生が飛沢研究室を訪れるようになっていた。以前は飛沢が不在時だったというのに、今は飛沢が在室時にやって来ることが多い。
ひなたがアルバイトの時間の前に、すでに橘は研究室に来ていたらしい。ドアを開く前に、かすかな話声が聞こえる。一瞬、中に入ってもいいものか躊躇するが、こちらが遠慮しなければいけない理由は……恐らくないはずだ。多分。
「失礼します……」
控えめにノックして、一息ついてからドアを開く。まずは、そっと顔を覗かせると、マックロを抱いたまま仁王立ちの橘と、椅子に座って仏頂面をした飛沢の姿があった。
どうやらノックに気付かなかったようだ。二人はひなたの存在に気付いていないらしい。
「だから、ここは大人が一肌脱いで……あ、山田さん!」
このままだとただの盗み聞きになってしまうと思った直後、橘がひなたの存在に気が付いた。彼女は笑顔で小さく手を振るが、飛沢は途端に何とも複雑な表情を浮かべる。
「すみません……お取込み中に。一応ノックはしたんですけど」
「うん、大丈夫大丈夫。もう終わったから。では、飛沢先生。わたしはこれで失礼します」
飛沢は無言で頷く。
「じゃあね、マックロ。じゃあね、山田さん!」
「はい……」
マックロを手渡され、慌ててしっかり抱き締める。驚いたマックロは、ニャーと小さく声を上げる。
「では、失礼しました」
軽やかな足取りで退室する橘を、呆気に取られて見送った。そして訪れる沈黙。
「あの……」
橘先生と一体何を話していたんだろう?
思わず疑問を口にしようとしたものの、自分にそんなことを訊ねる権利はあるのだろうかと思うと、それ以上何も言えなくなってしまう。
「……昨日の続き、始めますね」
「ああ……よろしく」
飛沢の返事が心なしか素っ気ない。
せっかく橘先生と話していたところを邪魔したからだろうか?
そうだとしたら、どうしよう。もっと遅れて行くか、いっそのこと休んだ方がよかったのだろうか?
しかし、アルバイトのシフトは入っている。それを放って帰るわけにもいかない。
仕事をしよう。仕事を。うん、それしかない。
飛沢が自分のデスクに座るのを目の端で見届けながら、ひなたが使っているデスクに置かれたパソコンの電源を入れた。
もしかして……。
ふと、橘が言い掛けた言葉が妙に引っ掛かる。
大人がひと肌脱いでって……。
『山田さん、小原くん狙いでバイト続けているんでしょ?』
もしかして、飛沢先生にもそれを言っちゃったとか……?
橘がその発言を飛沢にしたのか、わからない。しかし、もし橘が飛沢に話していたとしたら?
どうしよう……。
心臓までもが、次第に鼓動が速くなる。
橘みたいに「応援するよ」なんて言われでもしたら、立ち直れそうにない。それよりも、順也目当てのミーハーだと軽蔑されてしまうかもしれない。
しかし、まだ可能性だ。そう決まったわけじゃない。
……と、己に言い聞かせて、ひなたはふと頭を捻る。
どうしてわたし、泣きそうになっているのだろう?
* * * * *
ここ最近、国文科の助教、橘三花がよく研究室を訪れるようになった。
彼女の目当ては猫のマックロだ。自分の猫を可愛いと言ってくれるのは悪い気はしないが、ここに連れてきていることを、あまり大っぴらにして欲しくないというのが正直な感想だ。
彼女にどこで猫の存在を知ったのかを訊ねてみると「もはや公然の秘密ですよ」と胸を張って断言された。
「あの小原くんが、猫を拾ったところを目撃した女子学生からの通報ですよ。小原くんが頼るっていったら、もう飛沢先生のところしかないじゃないですか」
通報とは物騒な言い回しだ。しかし、これは橘流言い回しであるのだと、何となく悟った。
「なぜでしょうか?」
「なぜって、普段から先生の研究室に入り浸っているじゃないですか」
「そんなことは無いですよ」
実際、入り浸っているというほど、順也はこの研究室を訪れているわけではない。恐らく彼が目立つから、ちょっと足を運んだだけで「入り浸っている」と言われてしまうのだろう。
「でも、先生と仲が良いですよね?」
「特別仲がいいわけではないですが、彼が人懐っこいからでしょう。人と壁を作らないタイプだから、話しやすいというのはあります」
「ですよね! いやーわたしも後十年若かったらって思いますね」
あははと橘は笑うと、唐突に真顔になる。
「それでですね。山田さんって、小原くんのこと好きですよね?」
唐突な話の展開に、それ以上に衝撃の言葉に一瞬思考が止まる。
「小原くん、ですか?」
「だって、顔良し、性格良し、将来性恐らく良しと三拍子揃った青年ですよ? 他の女子学生だって密かにどころか間違いなく好意を持っている子が盛りだくさんですよ。山田さんだって、年頃の女の子なんですよ。先生のところでバイトを続けているのも、間違いなく彼狙いです!」
ああ、確かに。
だから彼女は、小原くんがよく顔を出すからここでバイトを続けているのか。
思い出せば、最初は自分に怯えていたではないか。あんなにびくびくしながら、どうしてここでバイトをすることにしたのだろうと不思議だったが……。
ものすごく、ものすごく納得してしまった。
「……そうなのですか」
「そうですよ!」
ここまで橘が言うのだ。周囲の目がそういうのなら、きっと間違いないのだろう。
「確かに……ここでアルバイトを始めたのも、小原くんの紹介が切っ掛けでした」
「ほらビンゴ!」
得意気に息巻いた橘の言葉に、思わず苦笑してしまう。
そもそも彼女との間に「教員と学生」という関係以外存在しない。
彼女へ対する思いを諦めなくてはと思っていたが、諦めようが諦めなかろうが関係ない。
万が一、自分が彼女へ思いを伝えたとしても、セクハラ教員の道を辿るだけだ。そう、彼女とこれ以上、どうにかなるわけがないのだ。
「クリスマスも近いですからね。山田さんも、それまでに何とかしたいって思っているんじゃないですか?」
もしや、最近アルバイトのシフトを急増させたのも。
「ああ……確かに」
納得したように頷くと、そうでしょうそうでしょうと言わんばかりに橘は何度も頷く。
そして、マックロを抱いたまま……マックロ自身は迷惑そうだが。彼女は仁王立ちで熱弁を振るう。
「だから、ここは大人が一肌脱いで……あ、山田さん!」
はっと顔を上げる。
いつの間にか半開きになったドアのところで、山田ひなたが戸惑った表情で佇んでいた。
* * * *
気まずい……。
お互いがキーボードを打つ音だけが室内に響く。
こんな時、マックロが愛想を振りまいてくれればと思ったが、残念なことに今は昼寝中だ。
順也目当てで来ていると、これまで一度も考えたことがなかった。
恐らく後者であるのだろうが、これまでその考えに至らなかったのは、
だから、彼女が順也に惹かれているなんて、ごく当たり前のことすら思いつかなかった。
……いや、違うか。
キーボードを叩く手を休めて、口元を押さえる。
自分がそのことに、気付きたくなかっただけだったのだろう。
少しずつ彼女の態度が和らいできたと喜んでいた自分が馬鹿みたいだ。というか馬鹿である。浮かれていた自分が恥ずかしい。
知らず知らずのうちに、溜息を吐いていた。ふと、目の端でひなたがこちらを見ていることに気が付く。
「あの、先生……お疲れでしたら珈琲でも淹れましょうか?」
「いや……」
いい、結構だ、と言い掛けて、ふと言い淀む。
せっかくだ。ありがたく受けようではないか。それが業務の一環だと思っての行動だとしても、嬉しいものは嬉しいのだ。
そこに、欠片でもいいから好意が混じってくれていたらと思ってしまう。情けない。
「ありがとう、じゃあお願いしようかな」
すると、ひなたの表情がぱっと嬉しそうに綻ぶ。
「はい! 少し待っててください」
ここでその表情は反則だろう。あらぬ期待を抱いてしまいそうになるではないか。
思わず溜息を吐きそうになるが、辛うじて飲み下す。
そうこうしているうちに、珈琲を淹れ終えたようだ。誉のマグカップをデスクまで持ってきてくれる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
インスタントだが、良い香りだ。すると、マグカップの横に銀紙に包まれた菓子がひとつ置かれる。
「このチョコ、コンビニで売っているんですけど、今はまっているんです。これはナッツのクリームが入っているんですよ」
嬉しそうに彼女が言うものだから、ついついそのチョコレートとやらを手に取ってしまう。
大きい。大人でも口いっぱいになってしまいそうだ。そう思って端を齧ると、サクサクとした食感である。その中にナッツクリームが詰まっていて、とても甘い。
「……美味いな。とてつもなく甘いが」
だか、この甘さは癖になりそうだ。
「だから珈琲に合うんです」
「なるほど」
その通りだと、珈琲を一口含む。
「この間、小原くんにこのお菓子のことを話したら、食べてみたいっていうから。持って来たんです」
途端に、口にした珈琲がとてつもなく苦くなる。
「……小原くんよりも、先にいただいてよかったのかな」
ふと、無意識に呟いていた。しまった、と思ったが、彼女は特に気にする様子もない。
「別に小原くんは、そういうこと気にしなそうな気がしますよ?」
よく彼のことをわかっている風の口振りに、多少の苛立ちを感じてしまう。
もう何も言うな。
口をつぐむべきだとわかっているのに、余計な言葉が口をつく。
「いや、彼のために用意したのなら悪いかと思ってね」
「確かに小原くんからのリクエストですけど、そのためだけにと思って持ってきたわけではないですよ?」
「いや、しかし……小原くんが先にいただくべきかなと」
「……どうして、さっきから小原くんのことばかり気にしているのですか」
「別にそんなつもりはないが……」
強く否定できず、視線をさ迷わせてしまったのが不味かった。ひなたの顔は見る見る固くなっていくのが、手に取るようにわかってしまう。
「橘先生、ですか?」
咄嗟に言葉が出てこない。だが、そうだとも言えず無言でいると、彼女は肯定だと受け取ったようだ。
「橘先生は何を……」
能面だの鉄面皮など言われている自分がいうのもなんだが、彼女の今の表情こそ能面のようである。
「……何を、先生に、話されたのですか?」
「別に、何も」
聞いていない、と言うには態度は白々し過ぎた。秘密を聞いてしまったような後ろめたさと、聞きたくなかった事実を突きつけられるような苦い思いが込み上げて、彼女の顔を直視できない。
恐らく、彼女の目には誤魔化しているようにしか見えないだろうけれど。
仕方がない。
誉は小さく息を吐くと、くるりと椅子を回してひなたと向き合った。
「……山田さんはいつも真面目にやってくれている。だから、ここで働いている理由を問うつもりはない」
「だから、違います!」
彼女は強い口調で否定する。
初めて聞く彼女の声に驚いたが、ここまで必死に否定するのだから、明らかに橘の言葉は彼女の本意とは違うのだろう……と、平常の時ならそう思えたはずだった。
橘からの妙に説得力ある発言や、自分の中で腑に落ちて落ち込んだ経緯が、冷静な判断を鈍らせたのだろう。
ひなたの必死な否定の言葉を聞いた途端、誉の中に湧き上がったのは、怒りにも似た苛立ちだった。
「……では、どういった理由があるというんだ」
頭の片隅に残った冷静な部分で「それ小原に会うためだろうが」と突っ込む声が聴こえたが、ここは敢えて無視をする。
「それは……最初はサークルの勧誘を逃れるために、小原くんの提案に乗ったから、というのもありますけど……」
誉の少々威圧的な態度に怖気づきながらも、普段の彼女には見られない気丈さで答える。
「怖くてたまらなくて、後悔したのだろう?」
「それはっ……」
ひなたは困ったように視線を彷徨わせる。
彼女が酔っている時に聞いたことだ。ここで出すことは無いだろうと思うのに、敢えて口にする自分は意地が悪い。
「……最初は、そうでした」
怖いと思っていたことも、後悔したことも認められてしまった。自分から言い出したくせに凹む羽目になろうとは。
「けど」
ひなたはぐっと唇を引き結ぶと、眼差しを強くした。
「先生が、飛沢先生があの時ぶつかった人だと気が付いたから……とにかく謝らなくちゃと、思っていました。謝るタイミングを伺っているうちに、仕事も慣れてきましたし、先生が最初の印象とは違う人だとわかりましたし……だから、小原くんが目当てで、バイトを続けているわけじゃありません」
確かに、以前そんなことを言っていたような気がする。
恐らくこれが彼女本心なのだろう。そうだ、彼女はいつも真っ直ぐだった。
つい、橘の言葉に翻弄されて、意地になっていたようだ。じわじわと我に返り、冷静さを失っていたことを自覚する。
何か言わなくては。しかし、返す言葉が見つからない。
「……申し訳ない」
やっと謝罪を口にすると、ひなたは俯いたまま、無言で頭を振った。
「……余計なことを言って、本当にすまない。今日は、もう仕事はいいから帰りなさい」
「あの、でも……」
「私の都合だ。勤務したことにしておく」
「そうではなくて……」
さすがにこの状況で、業務に戻るのは難しいだろう。それに誉自身も、頭を冷やす時間が欲しかった。
束の間の沈黙の後、ぽつんと返事が返ってきた。
「わかりました……そうさせていただきます」
「……今日は色々すまない。気を付けて」
今度は無言で頷いた。
普段よりも倍近くの速度で帰り支度を終えた彼女は、普段どおりドアの前で律儀に帰りの挨拶を終える。
「お先に失礼します」
「お疲れ様」
こちらも普段どおりの受け答えを終え、ドアの向こうに彼女が姿を消すと、壁に頭を打ち付けたい衝動を堪えて、替わりに宙を仰いで額を押さえた。
自分に対する罵りが喉までせり上がってくるが、どうにかそれを飲み下して、替わりに重い溜め息を吐き出した。
「何をやっているんだ、俺は……」
明日から、どんな顔を彼女と会わせればいい?
新たな課題に、もう一度溜め息を吐いた。
*** 冬の章へ続く ***
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