秋の章・12 よし、子猫を飼おう

 書類を事務室に届け、飛沢宛に来ていた郵便を回収し、ひなたはようやく研究室へ戻った。

 ノックしてからドアを開くと、そこにはデスクに置かれた段ボール箱を覗き込む飛沢と順也の姿が飛び込んで来た。そこには、子猫にすっかりメロメロになっている男二人の姿があった。

 声を掛けていいものか一瞬迷うが、このまま立ち去るわけにもいかない。

「……ただいま戻りました」

 すると、飛沢が弾かれたように顔を上げる。不意打ちに遭ったかのような表情に、ひなたは思わず目を瞠る。

「あ、ああ……ありがとう」

 ひなたは見てしまった。子猫を愛でる飛沢の顔を。見る人によっては、それほど変化はわからないだろう。しかし、もう半年以上飛沢の近くにいるせいか、些細な変化でも気付くようになっていた。

 穏やかに細められた目元。僅かに口角があがり、綻んだ口元。何より違うのは、普段の眼光の鋭さがない。優しく穏やかな瞳をしていた。

 それを誤魔化すように、飛沢は皺ができるほど眉根を寄せてしまう。

 もったいない。この場に誰かがいたら、きっと同じことを思うだろう。

「ひなたちゃん、おかえりなさい」

 飛沢とは真逆に、誰もが見惚れてしまうような笑顔を浮かべた順也は、段ボール箱の中からそっと何かを取り出した。

「あ!」

 子猫を目にして、ひなたは歓喜の声を上げる。

「ほら、この子だよ」

 順也の手の中にすっぽり収まったそれは、安心したかのようにくったりと眠っている。灰色っぽい毛の色、手のひらから伸びた細い手足。長い尻尾と小さな頭。すべて順也の手のひらに、すっぽりと収まっている。それほど小さいということだ。

「かわいい……」

 思わずひなたは両手を握りしめる。

 可愛い。可愛すぎる。

 痩せて、毛がところどころ生えていない姿は痛々しくもある。しかし、安心したように眠っている姿は、純粋に可愛いくて目が離せない。

「小原くん、眠っているのだから、そっとしてあげなさい」

 飛沢が咎めるように、そっと囁く。

「少しくらい大丈夫ですよ、先生」

 飛沢としては、眠る子猫をそっとしてやりたいのだろう。しかし順也は気にする様子もなく、人差し指で、ちょいちょいと子猫の頭を撫でる。

「いや、すぐに目を覚ますんだ。だから早く箱に……」

 そう言っている側から、子猫は目を覚ましてしまった。うっすらと目を開いた途端に、ニャアニャアと小さな鳴き声を上げ始める。

「ほら、先生が大きな声出すから起きちゃったじゃないですか」

 順也は子猫を宥めながら、飛沢に非難の目を向ける。

「…………私のせいか?」

 いえ、順也くんのせいです。

 端から見ても、明らかに順也のせいだ。しかし飛沢には、不本意ながら自分のせいでもあるという自覚もあるのだろう。

 今更口元を手で覆い、苦い顔をした飛沢の様子が微笑ましい。

 微笑ましい……?

 心に浮かんだ思いに、ひなたは首を傾げる。

 どうしてしかめっ面をした飛沢が微笑ましく思えるのか、さっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、微笑ましいと思ってしまっているのは事実で。

「……」

 駄目だ。意識してしまったせいで、何でもかんでも、飛沢のことを好意的に見てしまっている気がする。

 冷静になれ、わたし!

 しかし、徐々に頬が熱くなってきた。

「あの! わたし、珈琲でも淹れますね!」

 返事を待たず、二人に背を向ける。壁際の湯沸かしポットへ向かうと、赤らんだ顔が見えないだろうという算段だ。

「ひなたちゃん、俺の砂糖とミルクお願いします」

「はーい。先生は、どうされます?」

 声がうわずらないように、細心の注意をしながら飛沢に訊ねる。

「私は……ブラックで」

「わかりました」

 慣れた手つきでカップをポット置きにしている引き出しから取り出すと、二人に気付かれないよう、こっそりと息を吐き出す。

 一瞬、順也と目が合ってしまったのは、どうか気のせいであって欲しい……。


* * * *


 誉の心はすでに決まっていた。この子猫は自分が貰い受けようと。

 しかし、順也がもし飼うつもりで拾ったのなら?

 ひとまず確認が必要だ。はやる気持ちを押さえながら、誉はさりげない口調で切り出した。

「その子猫は、これからどうするんだ?」

「あ……実は」

 誉の問いに、順也は困ったように笑みを零す。

「実はうちのアパート、ペット厳禁なんですよ。数日なら、何とか誤魔化せるかと思うので、その間に飼い主を捜そうかと思っています」

「そうか……」

 だったら、我が家で。そう告げようとした時、パソコンに向かっていたひなたが、唐突にくるりと振り返る。

「あ、あの! ごめんなさい! 本当はうちで預かるのがいいんだろうけど……うち、犬がいるから」

 無理なんです、と蚊の鳴くような声で呟いた。

「違う違う、そういうつもりで言ったつもりじゃないからさ。ひなたちゃんは気にしないで」

 順也は、ひなたの頭をよしよしと撫でる。

 自然に女性の頭を撫でるなんて、誉には真似ができそうにない。ひなた自身も、彼にそうされることに慣れているのだろうか。恥ずかしがりやの彼女が、まったく動揺の色を見せないことに、誉の方が動揺してしまう。

「うん、でも……こんなに可愛いのに、力になれないなんて……」

「ありがとう、ひなたちゃん」

 順也が彼女を見下ろす目がひどく優しいのは気のせいだろうか。どうか気のせいであって欲しいと願うばかりだ。そして、この二人の世界が形成されつつある状況も、どうか気のせいであって欲しいと説に願う。

「小原くん」

 若い二人の会話に割って入るのはどうかと思うが、敢えて割って入ることにする。

「はい、なんでしょう?」

「その猫は、うちで預かろう」

「え? 先生んちですか?」

「ああ、うちは幸いペット可の物件なんだ。日中はここに連れてくれば面倒もみれる。それに」

 誉は軽く咳払いをすると、思い切って口を開く。

「……ちょうど、猫を飼おうかと思っていたところなんだ」

「先生が、猫を」

「ああ」

 これ幸いと預けてくると思ったが、順也の反応はイマイチだ。もしや、ろくに世話ができないとでも思われているのだろうか。

「君が授業の間、ちゃんと世話をしていただろう? だから大丈夫だ」

「いえ、そうじゃなくてですね……」

 順也が珍しく言葉を濁す。

「ほら、一人暮らしで猫を飼うなんて、もう一生独り者でいいって宣言しているようなもんじゃないかなーって」

 誰だ。そんなことを言い出した輩は。

「……余計なお世話だ。それに、一応結婚願望はある」

「え、あるんですか!? 結婚願望!」

 しまった。余計なことを口走ってしまった。しかも彼女の前で。しかし、言ったところでどうした。誉に結婚願望があろうがなかろうが、気にも留めないであろう。

「……あって悪いか?」

 それは順也のせいではないのに、つい声に恨みがましさが宿ってしまう。幸い、順也は気付くようすもなく、普段通りの人好きのする笑顔を浮かべる。

「いえ、先生って恋愛とか興味なさそうだから意外だっただけです。あ、でも篠原さんに合コンとかよく誘われていますもんね。興味なかったら、行かないですよね。合コン」

 彼女の前で「合コン」を連呼しないで欲しい。しかし名誉のために言わせて貰うが、決して誉自身が望んで合コンに参加していたわけではない。

「私のことはどうでもいい……取り敢えず、子猫の名前を考えなくてはいけないからな。君たちが協力してくれると助かる」

「お安いご用です」

 順也は軽く自分の胸を叩く。

「先生が飼い主になってくれるなら安心ですね」

 よかったね、と子猫に語り掛けるひなたの横顔を盗み見て、この判断は間違っていなかったと安堵する。


 しかし、この時誉は気付いていなかった。生まれてまもない子猫の世話が生活リズムを壊すほど、困難極まりないことを。

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