秋の章・11 意識しているのは、きっと自分だけ
コンビニエンスストアで、子猫用のミルクが購入できるらしいが、大学近くの店には残念ながら置いていなかった。しかし、代わりに購入できたものがある。
まさか人間用のミルクを、独身の身の上で買うことになろうとは……。
たかがミルク。されどミルク。しかしミルクが今は必要なのだ。
誉は買ってきたばかりのミルクを、きれいに洗ったマグカップにほんの少し注ぐ。そして、電子レンジで二十秒。少々温まり過ぎたので、ぐるぐるとカップを回しながらちょうどいい温度に冷ます。
哺乳瓶……はさすがになかったので、売店で売っていたスポイトで代用することにする。
子猫をタオルに包むと、そっと抱え込む。あまりの小ささに不安になるほどだ。まだ猫らしくない鳴き声を短く上げながら、もそもそと動いている。
小さな口の中にスポイトで、少しずつミルクを垂らす。最初は悪戯に口の周りを濡らすだけだったが、どうにかコツを掴んできた。
「……もう満足したのか?」
どうやら、一度に飲める量はずいぶんと少ないようだ。この小さな身体では当然かと、改めて思う。
タオルに鼻先を突っ込んだ子猫は、うっすら開いていた目を閉じて、うとうとと眠り始めた。
まだ体毛も少なく、尻尾も肢も木の枝のように細い。子猫の背をそっと撫でると、柔らかく温かい。ちゃんと生きているのだと実感して、安堵の息をつく。
眠っているのだから段ボール箱に戻してもいいのだが、何となく離しがたい。しばらく眠る子猫を眺めていたが、不意に手のひらがじんわりと温かくなるのを感じる。しかも、子猫を包んだタオルが、しっとりと濡れているではないか。
「やられたか……」
手のひらを温める熱の正体は、子猫のおしっこだった。ミルクを飲むのだから、排出するのは当然の摂理である。
幸いタオルはたくさんある。誉は苦笑すると、乾いたタオルで子猫を包み直した。
* * *
授業を終えて戻ると、子猫の入った段ボール箱と、治療代を入れた封筒が消えていた。替わりにコピー用紙にマーカーで荒々しく「お金はいただきました。子猫連れていきます!」と書いたメッセージが残されていた。
順也からのメッセージを手にして、子猫に思いを馳せていると、不意にドアを叩く音がした。
「失礼します」
そうだ。今日から山田ひなたの縦断爆撃出勤の初日であったことを思い出す。
誉の返事を待たず、勝手知ったるといった様子で研究室に入ってきたひなたは、誉が手にした手書きのメッセージを目にして首を傾げた。
「先生、それ……脅迫状ですか?」
「いや、事件は起きていないぞ山田さん」
「でも、お金はいただいたって……」
A4用紙にマーカーで書かれた文字は、紙の裏まで透けていたらしい。
確かに、脅迫状にも見えなくもない文面ではある。
「これは、小原くんの置き手紙だ」
作業用のデスクに脅迫状めいた手紙を置くと、いつのまにか隣に立ったひなたが、興味深げに覗き込んできた。
近い! 距離が近い!
彼女が事も無げに誉の隣にやってくるのは、まったく意識していないからだろう。
パーソナルスペースが近いということは、以前より気を許しているという証拠だ。喜ばしくもあるが、異性として意識されていないと思うと地味に凹む。
隣に並ぶ存在に、気付かれないように視線を落とす。
さらりと肩から流れる栗色の髪。さぞかし触り心地がいいのだろう。
「ところで、子猫って何のことですか?」
「ああ……」
声を掛けられ、我に返った。無意識のうちに伸ばそうとしていた手をすばやく引き、戒めるように固く手のひらを握りしめる。
何をしようとしていた、俺。
未遂で終わってよかった。彼女に変態扱いされるだけではなく、社会的に抹殺されるところだった。どっと冷や汗が流れるのを隠して、淡々と猫について語る。
「今朝小原くんが拾ってきたんだ。授業があるから、しばらくここで預かっていた。今は病院に連れていっている」
「怪我とか、病気とかしているんですか……?」
子猫と聞いて彼女は表情を輝かせたものの、病院と聞いた途端、今度は不安げに表情を曇らせる。
「特に怪我はしていないが……皮膚病があるな。他に病気がないか、念のため診てもらってくるそうだ」
「そうですか……病気、ないといいですね」
「そうだな」
会話が途切れ、不意に思い出した。
そうだ、今後は彼女の関わりを減らしていこうと思っていたのに呑気に猫の話題で盛り上がってしまった。まあ、バイトの勤務時間を増やすことに同意した時点で、色々計画が崩れてしまっているのだが。
考えていることと、やっていることが噛み合わないのは、己が優柔不断であるせいだ。
思わず漏れそうになるため息を噛み殺すと、しっかりしろと自らを震い立たせる。
誉が静かに葛藤していると、ひなたは思い立ったように、コートとバッグを定位置に片付け始める。
「では、郵便確認してきます!」
「……ああ、ありがとう」
棚からパートの大原が用意した書類を手に取り、颯爽と研究室から立ち去っっていった。声を掛ける間もなかった。閉ざされたドアを三秒見つめてから、誉は溜まっていた溜息を吐き出す。
自分だけが意識していて、まったく馬鹿みたいだ。
彼女はまったくいつも通りで、バイトを増やしたのも、単に収入を増やしたいからに過ぎないというのに。
「何をやっているんだ、俺は……」
ふらふらと自分のデスクに戻ると、突っ伏した。
下階へ向かうエレベーターに乗り込んだひなたは、ドアが閉まったのを見計らって、大きく息を吐き出した。
「きんちょうしたぁ……」
これまで平気だったのに、あの二人……順也と智美に色々言われたせいだ。飛沢と二人きりでいるという状況に耐えられなくなって、つい飛び出してしまった。
これでは駄目だ。一緒にいる時間を敢えて増やすことによって、飛沢のことをどう思っているのか確認するのだから。こっちが意識したところで、相手は意識なんかしていないのだから。意識し過ぎるくらいしたって平気なはず。
でも。
急に話が途切れてしまったからと言って、逃げるように飛び出すなんて。
沈黙が嫌だったわけじゃない。言葉が途切れても、居心地が悪くないことに動揺してしまっただけ。とはいえ、突然飛び出すように研究室を出てしまったことに、後悔を覚える。
でも、郵便だって確認しに行くのは普段どおりであるし、書類を事務所へ持っていくのも普段どおりのことだ。
うん、おかしくない。大丈夫!
握りこぶしを胸の前で固めた途端、エレベーターが一階に到着したが、そのことに気が付いたのは、ドアが開いてからだった。
「あれ? ひなたちゃんだ」
「あ、わっ!」
慌てて握り締めた拳を背後に隠す。目の前に登場したのは、小さな段ボール箱を抱えた順也だった。
段ボール箱からは、微かな子猫の鳴き声が小さく聴こえた。
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