秋の章・10 そうだ、猫を飼おう

 どうやら猫を飼うと健康にも良いらしい。癒やし効果によって幸福ホルモンと呼ばれる「オキシトシン」などの分泌量が増え、結果的に健康へと結びつくという。

 いいんじゃないか、猫。

 そろそろ健康に気を付けなければならない、三十路に足を突っ込んだ自分にはぴったりだと誉は思う。

 しかも、現在の住まいも猫を飼うのにまったく問題がないときた。

 借家ではあるが、ペット可であることを、契約書を改めて見て確認済みだ。

 この家を借りる当初はペットなんて飼う気は皆無だったから、ペット可であるかどうかなんて気にしていなかったというわけだ。

 さて、誉が住まう借家の間取りは、六畳二間と四畳半の納戸とキッチン。引っ越しする前にリフォームされて、一部屋はフローリングの洋室使用になっている。この部屋は誉の書斎となり、パソコンデスクと書棚、簡易的なベッドが収まっている。

 服や普段使わないものは、四畳半の納戸にほぼ収納されており、寝室にしようと思っていた和室は結局ほとんど使われていない。

 和室だからと、情緒ある卓袱台と座布団を用意したが、篠原や父が時折訪ねてくる時に使うくらいだ。

 テレビも引っ越し当初は購入しようと思っていたが、パソコンやスマホで大体こと足りるから結局買っていない。代わりに整理されていない本が平積みになっているだけだ。

 この持て余した空室を、猫の為に使えばいいのだ。この部屋にある本は書斎に詰め込むか、研究室に持っていけばいい。すでに用済みのものは、学生に提供してもいい。

 あとは猫だ。

 調べたところ、どうやら純血種がおすすめらしい。まず猫の種類で性格や特徴がはっきりしているところであるという。

 飼うなら、やはり躾がしやすく気質が穏やかな猫がいい。

 候補に挙げているのは、まず、折れ耳が特徴のスコティッスフォールド。見た目も可愛らしいが、温和であまり活発ではないところが家を空けることの多い一人暮らしの環境には合っているように思う。

 他に候補に挙げているのは、足が短いのが特徴のマンチカン。大人しく、賢く、躾がしやすいというから、一人暮らしには向いているようだ。

 しかし、どの猫も可愛らしく甲乙付けがたい。実際に目にしてしまうと、どれも可愛らしく見えてしまう。何度かペットショップに足を運んでいるが、なかなか踏み切れないでいた。

 そうこうしているうちに、十一月を迎えた。そう、ひなたのアルバイトが縦断爆撃のように入った月を迎えてしまったわけだ。

 

* * * *


 ひとり暮らしを始めてから、出勤時間が早くなった。単に朝食を父と取っていた時間と通勤時間がなくなったからで、早起きになったわけではない。

 朝食も自分の分だけ用意するのが面倒ということもあり、自宅で取らず外で買うようになった。

 最初の頃は、パンやおにぎりをコンビニエンスストアで買っていたが、大学近くのパン屋が朝七時から開店していることを知った以来、誉の朝食は焼きたてのパンと研究室で淹れるインスタントコーヒーが定番となっていた。

 今日も焼きたてのクロックムッシュとソーセージロールに、濃い目に淹れたインスタントコーヒーを添えて、さあいただこうかと椅子に座った時だった。

 コンコン。

 研究室のドアがノックされた。時間はまだ七時半。こんな早くに誰だと思った直後、「朝からすみません、小原です」と、自らを名乗りを挙げてくれた。

「どうぞ」

「失礼しまーす。すみません、ドア開けてもらってもいいですか?」

「……少し、待ちなさい」

 まだ温かい朝食を名残り惜しく思いつつ、誉は椅子から腰を上げた。

 研究室のドアを開くと、そこには小さな段ボール箱を抱えた順也が立っていた。

「おはようございます、先生」

「おはよう、小原くん」

 すると順也は、人好きのする笑顔を浮かべて段ボール箱を差し出した。

「今日、一時限目から授業があるので、この子を一日預かって貰えますか?」

「この子?」

「猫です。実は、裏門に捨てられていまして」

 段ボール箱を覗くと、丸めたタオルが入っていた。しばらくタオルを見つめていると、その下にうごめく何かがいることに気付く。

「これは……」

 誉は思わず息を呑む。

「捨て猫です。いまどき珍しいですよね」

 ごそごそと、タオルの下から這い出てきたのは、濃い灰色の小さな子猫らしき生き物だった。まだ生後間もないのだろう。手のひらにすっぽり収まってしまいそうなほど小さい。しかも目ヤニがひどく目が塞がれている上、身体の毛もところどころ剥げている。酷い表現だが、ボロ雑巾に似ていると思ってしまった。

「皮膚病かなあ。ちっさいのに可哀想だなあ……だから捨てられちゃったんですかね」

 指でちょいちょいと小さな頭を撫でながら、順也はぽつりと呟いた。

 確かにそうかもしれない。しかし、病気なら病院へ連れて行けばいい話だ。捨てることはないだろうと、子猫を捨てた人物に怒りすら覚える。

「そんなわけで、授業が終わったら病院へ連れて行こうと思いますが」

「そうだな、それがいい」

「今日六時限まで授業が入っているので、研究室で預かって貰えますか?」

「六限だと、病院の受付時間が終わっていそうじゃないのか?」

「大丈夫。適当に抜けて病院行きますから」

「……」

 それは大丈夫と言えるのだろうか。事情があるとはいえ、授業を抜け出すという学生を、教員が見て見ぬふりというのはいかがなものか。

「違いますよ、先生。五時限は授業入っていないんです。だからその間に行こうかと思っています」

「……わかった」

 なるほど。そういうことなら大丈夫だ。

「じゃあ、すみせんがお願いします」

 はい。と段ボール箱をちゃっかりと誉に押し付ける。そして牛乳パックが入ったレジ袋も追加する。

「牛乳買ってきたので、温めて飲ませてあげてください。お願いします」

「お願いしますと言われてもだな……」

 誉にも授業はある。ずっと研究室に居られるわけではないのだが。

「大丈夫ですよ。まだふにゃふにゃして、勝手に段ボールから出たりしませんから。では!」

 と爽やかな笑顔を残して、順也は去ってしまった。

 茫然としたまま、誉は段ボール箱を改めて覗き込む。そこには弱々しい鳴き声を上げる子猫が一匹。

 取り敢えず、朝食を取ろう。そして猫の分も。

 段ボール箱を研究室に持ち込むと、改めて子猫を見る。可愛いというよりも、痛々しい風貌に眉をしかめる。

 取り敢えずティッシュペーパーで視界を塞いでいる目ヤニを拭き取る。子猫は僅かな抵抗を見せて小さく鳴くが、ほぼされるがままだ。

 ようやく目ヤニを取り除くと、子猫は塞がっていた目を薄っすらと開いた。やっと開いた子猫の瞳は、灰色がかった青色だった。

 ちゃんと病気を治し、ちゃんと栄養を取れば、子猫らしい可愛らしさをきっと取り戻すだろう。人差し指で狭いと言われる猫の額を撫でてやると、可愛らしい声で小さく鳴いた。

「…………」

 可愛い。可愛いではないか。

 こういうのが庇護欲をそそるというのだろうか。自分が何とかしてやらなくてはいけないという使命感が湧き上がる。

 このままでは寒かろう。誉は研究室に放置してあったお年賀に貰ったタオルをビニル袋から数枚引っ張り出すと、隙間を埋めるように子猫を包むべく敷き詰める。

「取り敢えず、これくらいでいいか……?」

 カイロでも入れた方がいいだろうか。その前にミルクをあげた方がいいだろうか。順也から預かった牛乳パックを手にした途端、ふと疑問が湧いてきた。

「子猫に、牛乳を与えていいのか……?」

 次々に湧き上がる疑問を解消すべく、朝食はそっちのけで、パソコンに向かい「子猫の飼い方」ついて調べることに没頭するのであった。

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