秋の章・09 ちぐはぐなふたり

 ひなたから十一月の勤務希望日を受け取った誉は、記入された欄の多さに目を疑った。

 ずいぶんと希望日が多い。

 これまでは週に二回、一回程度だったのに、今回はすべての週に五回も希望日が入っている。

 雑務が溜まっているが、なかなか手が付けられない。こんな状況での彼女の申し出は非常に助かるが、距離を置こうと考えていた矢先だ。

 なのに、困ったと思うよりも、嬉しいと思う気持ちの方が勝ってしまうのも事実でたり。

 駄目、いけない。

 距離を置こうと心に決めたのだから。自らに叱咤すると、眉間に力を込める。

「……ずいぶんと多く希望日が入っているようだが」

 厳めしく告げるが、彼女に以前のような怯む様子は見られない。少し緊張した面持ちで誉の前に立つ。

「はい。年末までにたくさん稼ぎたくて、たくさんいれさせていただきました」

 怯むどころか、むしろ挑むような気迫すら彼女から感じる。

 年末は学生にとっては重要なイベントが待っている。それらを楽しむには軍資金が必要なのであろう。

 つい、誰と楽しむのだろうと考えてしまう。だが、知ったところでどうするというのだ。

 見守ることもできないのなら、知ったことではないと強がるしかない。

「……せっかくの申し出は嬉しいが」

 眼鏡のフレームを人差し指で押し上げると、誉は厳かに告げる。

「大学の規定では……月に三十五時間以上は働かせるわけにはいかないんだ」

「えっ」

 知らなかったのだろう。無理もない。誉自身も認識が甘かった故に、彼女に説明していなかったのだから。

「山田さんの希望だと、すでにオーバーだ」

「はい……」

「それに、私としても、ここでの仕事より学業の方を頑張ってもらいたい」

「はい……」

「今週末までに書き直しをして欲しい」

「……はい」

 段々声に元気がなくなっていくのが、手に取るようにわかる。

 勤務時間に限度があるのは事実ではあるが、機転を利かせて稼がせてやることは可能だ。しかし、あまりにも仕事ばかりで学業に時間が割けないのも事実であるのだが。

 やはり彼女との接触時間を減らしたいという気持ちがあるからだろう。真っ当な理由をいくつ並べても、それが事実であろうとなかろうと、後ろめたさを感じてしまう。

「……書き直してきます」

 誉は無言で頷く。

 書類を受け取ったひなたは、ぺこりと頭を下げる。すると、彼女の肩から、長く伸びた栗色の髪が流れ落ちた。

 さらさらと零れ落ちる様子を眺めていたが、顔を上げた彼女は髪をひと筋咥えていた。どういう仕組みか分からないが、たまにお辞儀をした後、髪を咥えている場面を見かけたことがあった。

「山田さん、髪が口に」

 考えるよりも先に、手が動いていた。人差し指で、彼女の頬をそっとなぞる。

 その柔らかさとすべらかさに驚いたが、何より自分の行動に驚いた。

 ぽかんと開いた彼女の唇の端から、髪がひと筋、はらりと落ちた。

 ……しまった。

 やってしまった。

 無意識に触れてしまった。

 自分がしでかしたことに気付いた途端、冷や汗が、どっと噴き出る。

 そんな彼女はというと……フリーズしていた。誉が触れた頬を押さえ、茫然としている。

 やがて、じりじりと俯いてゆき、髪が顔を覆ったところで、誉は謝罪の言葉を述べる。

「余計なことをして……申し訳ない」

 彼女に触れてしまった指を、そっと握り込む。

「いいえ……」

 ゆるゆると頭を振るが、ひなたは一向に誉を見ようとしない。

「では……失礼します」

「あ、ああ……お疲れ様」

 俯いたままで会釈をすると、するりと誉の横をすり抜けて行く。

 ひなたが去ったのを確認すると、誉はふらふらとしながら、研究室のドアを施錠する。そして、デスクの椅子にどっかりと座った。

「やってしまった……」

 呻くように呟くと、両手で顔を覆い、盛大な溜息を吐き出した。

 俯いた彼女がどんな表情をしていたのか。考えるだけで恐ろしい。

 きっと嫌われたに違いない。

 諦めようと考えていた誉にとっては、願ったり叶ったりのはずだ。なのに、喜ぶどころか、まるで重石を飲み込んだかのように苦しいなんて。

 それにしても不味い。あまりに独り身でいる時間が多いせいで、温もりに飢えているのかもしれない。

 そうだ、そうに違いない。だったら、なおさらこのままでは駄目だ。

 誉は目を閉じ、必死に解決策を考える。

 このままでは無意識にセクハラを働いてしまう可能性がある。

 そうだ、何か始終温もりを感じるものを抱えていれば大丈夫であろうか。

 湯たんぽ? ぬいぐるみ? いや……どちらも駄目だ。特に後者は駄目であろう。

 ……猫でも飼おうか。

 ふと、思いついたけだった。しかし、とてつもない名案に思えてきた。

 そうだ、猫を飼おう。

 幸い、今の物件はペットの飼育が可能だ。犬は朝と夕の散歩が大変だと聞いたことがある。猫は昼間は大抵寝ていて、気ままに家の中を歩き回るから散歩の必要がないらしい。

 よし、猫だ。猫に決まりだ。

 思い立ったが吉日。両手で頬を叩き、気持ちを引き締める。

 いつまでも落ち込んでいても仕方がない。この状況を打開するには、もう猫しかない。

 さっそくパソコンを起動させると、猫の飼い方、猫のブリーダーについて調べ始めるのだった。


* * * *


 翌日、ひなたが再提出した勤務希望日を見て、誉は再び目を見張った。

 今度は二時間半ずつ、週四日が二週と、週三日が二週。月十四回。合計三十五時間になるように調整してきた。

「一日の時間も短いですし、学業の負担になりません。篠原さんに確認していただきましたら、問題ないとのことでした」

 用意していた言葉を一気に告げ終えると、今度は少し緊張気味に訊ねる。

「あの……どうでしょうか?」

 まさか、限度ギリギリで入れてくるとは思わなかった。日数は多いが、時間が短い分、無理はない。

 しかし、多い。日数が多いということは、一緒にいる時間が多いということだ。諦めようと思っているのに、こんなに一緒にいては諦められない。

 だか、雑務が溜まっているから、正直助かるのも事実だ。

「……ではこのスケジュールでお願いしよう」

 迷った挙げ句、結局欲に負けてしまたった。己の意志の弱さに頭を抱えたくなる。

「はい!」

 しかし、ひなたの安堵したように笑顔を見たら、まあいいじゃないかなんて思ってしまう。

「先生、ありがとうございます」

「いや、こちらこそ」

 つられて顔が緩みそうになるが、油断するなと表情を引き締める。

 そう……これは試練だ。

 彼女が側にいても、これ以上心を揺らさない試練なのだ。

 要は慣れだ。会わない方が想いが募るというではないか。だったら彼女に会うことによって、この恋心も麻痺するに違いない。

「……では私は授業でしばらく席を外すが、山田さんは次の授業は?」

「今日はもう終わりです」

「じゃあ、もう今日は帰った方がいい。今日は勤務日ではないのだから」

「……電話番くらい、しますよ?」

「……」

 一体どうしたというのだろう。普段なら大抵「はい、お先に失礼します」となるところなのに。

 そんなに収入が必要なのだろうか。しかし、頼む仕事もないのに、勤務時間を増やすのはよろしくない。

「申し訳ないが、残ってくれてもバイト代は出せないぞ」

 さあ、これで帰るだろう。しかし彼女は少し考えてから、給湯コーナーに置かれた紅茶と焼き菓子を手に取った。

「実は……これ、ずっと気になっていたんです。いただいてもいいですか?」

 そして、少しぎこちない笑顔を浮かべる。

 ちなみにこれらは、文学部の長である加納教授がくれたものだ。結婚騒動で彼なりに、誉に気を使っているらしい。

「……では、食べたら帰りなさい」

「はい、わかりました」

 今度はすんなりと頷いた。

 そうか、菓子が食べたかっただけなのか。

 拍子抜けした気分だが、彼女は昨日のことを気にしていないのかが気になった。

 だが、こうして研究室の電話番を申し出るということは……。

 ふと、自分に都合のいい解釈をしようとしていることに気付き、馬鹿馬鹿しいとその考えを頭から追い払う。

「では、お疲れ様」

「お疲れ様です……いってらっしゃい」

 ひなたは小さく会釈しながら、さらに小さく手を振って誉を見送る。

 これは……拷問だろうか。

 込み上げる何かを、ぐっと飲み下す。

「……行ってきます」

 駄目だ。顔が緩む。

 とてもじゃないが、こんな顔を見せられない。さっさとこの場から立ち去らねば鉄壁のポーカーフェイスが崩壊してしまう。

 彼女への気持ちが、早く薄れてくれることを祈りつつ、誉は研究室を後にした。



 飛沢の足音が遠ざかっていく。身動ぎもせず足音に耳を澄ませていたが、足音が聞こえなくなるのを確認すると。

「うわぁ……」

 ひなたは両手で顔を覆い、脱力したようにしゃがみこんだ。

 順也の指導どおり、気になる人と増やしてみようと行動に移したわけだが。

 先生、なんか怪しんでいたな……。

 だが、稼ぎたいからという言い訳自体はおかしくないはずだ。でも、居残るためにお菓子が気になっていたというのは、正直苦しかったと思う。

 あと、順也くんにバレないといいけれど……。

 順也にも「行動に移すために軍資金が必要だから、バイトを増やした」と言えば、多分怪しまれないと思う。それに「気になる相手」が、まさか飛沢だなんて夢にも思わないだろう。

 でも、それよりも、何よりも。

「ううう……」

 今度は頭を抱えて呻いた。

 最後のあれはなんだ。少し照れくさそうに「いってきます」なんて。

 まさかそんな返事が返ってくるとは思っていなかったけれど、それをちょっと可愛いな……なんて思ってしまった自分はどうかしている。

 一緒にいる時間を増やす。単に仕事の時間を増やすだけだから、簡単なことだと思っていた。しかし、変に意識してしまっているせいか、飛沢の一挙一動がいちい気になってしまう。

 これは結構色々と。

「恥ずかしいかもしれない……」

 ぽつり、とひなたは呟いた。

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