秋の章・08 気になる人
人の波を乗り越えて、ようやく店にたどり着いた。店は何度か利用したことのあるチェーン居酒屋だった。
ここの店は他の店舗と趣が違うのか、ずいぶんと落ち着いた雰囲気だ。大人の和風居酒屋とでも言えばいいだろうか。照明も少し暗めで、すべての席が半個室のような状態になっている。
簾をくぐると、すでにジョッキを手にした智美がそこにいた。
「おそーい!」
ほんのり赤らんだ目尻。とろんとした目で、予定より遅く到着した順也とひなたを出迎える。
「智美ちゃん、ごめんね」
「悪いと思うなら駆けつけ一杯!」
ずい、とドリンクメニューを突きつける。
「じゃあ俺もビール」
椅子に座りながら、順也は早々と注文を決める。慌ててひなたもメニューを覗き込むが、色々興味が惹かれるものが多くてすぐには決められない。
完熟ぶどうサワー、梅酒ワインも美味しそうだ。カシスソーダも捨てがたいが、梅酒のバリエーションもなかなかのものだ。
「もう! 決まらないなら、ひなたもビール!」
痺れを切らした智美は、テーブルの呼び出し鈴を押してしまう。
「え! 飲めないよ!」
ビールなんて苦くて無理だ。以前父の飲むビールを少し飲ませて貰ったが、苦くて苦くて舌がどうかしてしまいそうだった。しかし、ひなたの要望は聞き入れられず、即座に訪れた店員に智美は言い放った。
「生中三つでお願いします」と。
* * * *
「お待たせしました」
元気のよい店員の声と共に、リズムよくテーブルに置かれたビールジョッキが三つ。仕方がなく手に取ると、取っ手は氷のように冷たく、ずっしりとした重量感があった。
「はい、乾杯!」
順也の声を合図に、三人でジョッキ同志をかち合わせる。コン、とくぐもった音が立つ。順也と智美はさっそく勢いよくビールを飲んでいる。ひなたもそろりとジョッキに口を付ける。
に、苦い……。
最初は冷たさであまり感じないが、飲み込んだ後、じわじわと苦みが口の中に広がってくる。
「くー美味い。発泡酒も美味しいけど、やっぱりビール美味しいわ」
一方順也は実に美味しそな様子だ。半分以上飲み干して、しみじみとビールの美味しさを噛みしめている。智美も同様、半分以上ジョッキを空けてしまっている。
「日本のビールって軽くて美味しいんだけど、あんまり特徴がない気がするんだよね。なんていうか、ちょっと物足りない」
物足りない? こんな苦いものを物足りないなんて……。
智美が酒豪だとは知らなかった。新しい発見である。
智美とは高校から親しくはしているが、これまで飲みに行く機会などなかった。親しい間柄でも結構知らないことはあるものなのだと、改めて知る。
二人はビール談義で盛り上がっているが、ひなたは話の輪に入れそうにない。先に料理でも選んでいようと、メニューを手に取ると、智美が「はい!」と小学生が発言を宣言するかのように手を挙げる。
「智美ちゃん、何か注文?」
「ひなたに質問です」
「え、なあに?」
何だろうと、テーブルに身を乗り出す。
「今、好きな人っている?」
「えっ?!」
突然の問いに、一瞬放心状態になる。そんなひなたの様子に気付いた智美は苦笑する。
「ごめんごめん! では質問を変えます」
「う、うん……」
一瞬頭をよぎった面影に、ひなたの心臓の鼓動は次第に速くなる。
「じゃあ、今気になる人はいますか?」
「気になる……」
気になる人。別に恋愛感情を抱いているわけじゃない。でも、気になる人。
ふと、さっき浮かんだ面影が誰なのか気付いた途端、みるみる体温が上昇していく。
「いま、せん」
辛うじて答えると、智美は満面の笑みを浮かべる。
「ほおおお、いるんだ」
「だから、いないってば」
必死に否定するが、智美はニヤニヤするだけで聞き入れてくれない。
「だって、そんな真っ赤な顔して言われても……ね?」
「うん。顔に『います』って書いてある」
順也まで智美に同意する始末。
「いや、あの、でも! 別に好きとか、そういうんじゃないから」
「うんうん」
智美はものすごく楽しそうだ。頬杖をついて、ずっと笑顔のままだ。
「最近、偶然会う確率が高いから、ちょっと気になっているだけというか」
「へえ、どういう場所で?」
今度は順也が、智美と同じような満面の笑顔で訊ねてくる。
下手に順也に話すと不味い。智美は学部も違うから、あまり接触はないからわからないだろう。けれど順也なら恐らく気付いてしまうだろう。
「ええと……知り合いの、結婚式とか」
「へえ、結婚式か。あとは?」
「あとは……お気に入りのお店、とか」
「ひなたちゃんのお気に入りの店って?」
「うん、まあ色々」
誤魔化すように笑う。これ以上は言えない。しかし、智美が余計なことを言ってくれた。
「ひなたのお気に入りのお店かあ。荒井精肉店しか思いつかないわ」
カラカラと笑う智美を前に、ひなたは凍り付く。ひなたの様子を目にして、智美の発言がビンゴだと悟ったのだろう。順也は智美に重ねて訊ねる。
「荒井精肉店ってどこにあるの?」
「うん、大学とは駅を挟んだ反対口。ほら、公園があるの知ってる?」
「ううん、知らないなあ。反対口って行ったことがないかも。今度教えてよ、ひなたちゃん」
「あ、うん……いいよ」
流石に駄目とは言いにくい。頷きつつも、ふと気づく。
どうして順也に店を「教えたくない」と思ったのだろう、と。
取り敢えずビールをもう一口飲んでみるが、やっぱり苦くて堪らない。あまりの苦さに涙が出てくる。
「う……他の頼んじゃダメ?」
涙目で訴えると、智美は「そうだなあ」と宙を軽く睨む。
「じゃあ、その人が気になる切っ掛けを教えてくれたらいいよ」
「切っ掛け?」
また智美は無理難題を押し付ける。
「無いの?」
「そういうわけじゃ……」
ないと思うけれど。
初めて出会った時のことを思い浮かべる。
出会いは最悪と言ってもいいだろう。雨の中、荷物をぶちまけ、コロッケをぶつけるわ、罪悪感に駆られて逃げ出すわと、本当に本当に最悪だった。
その後も酔っ払って醜態を晒すわ、お財布を忘れて物を奢らせるわ……考えれば考えるほど最悪だ。
でも、ちゃんと知り合ってからは、少しずつ印象が変わっていった。
最初は近づきがたい人だと思っていたけれど、話てみると案外そんなことはなくて。カチカチに堅い口調も、少しずつ柔らかくなってきたような気がする。滅多に見られない笑顔が堪らなく貴重に思えたり。
「……切っ掛けはわからないけど、気が付いたら、その人のことを思い出しちゃう感じかなあ?」
独り言のように呟いてから、はっとなる。
わたし、何を言ってるんだ!
気付けば、目の前の二人は一層ニヤニヤしている。
「いえ、あの、だから、その! だからと言って、好きというわけじゃないから……」
「そっか、そっかあ」
納得したように、智美はうんうんと頷く。
「もう、一人で納得しないでよ」
「お子様だと思っていた、ひなたと、ようやく恋バナができると思うと感慨深くて」
そんな大袈裟な。と思ったが、確かに特定の誰かが気になるなんて、これまでなかったかもしれない。
「でも、まだその人が好きというわけじゃないから」
「まあまあ、気になるんなら、とことん気にしてみたらいいんじゃない? どうして気になるのか、わかるかも知れないし」
「とことんと気にしろと言われても……」
意識して気にするなんて。
無意識にしていることを、意識してするなんて、わけがわからない。
ひなたが途方に暮れていると、二人を傍観していた順也が「そうだなあ……」と、宙を睨む。
「取り敢えず、一緒にいる時間を意識的に増やしてみたら?」
「一緒にいる時間?」
「そう。ひなたちゃんの話を聞くと、たまにしか会わない相手みたいだからさ。あんまりべったりもどうかと思うけど、ある程度一緒にいないと恋も芽生えないんじゃないかな」
「そっかあ……」
モテの権化みたいな順也が言うと、ものすごく説得力がある気がする。
一緒にいる時間か。
バイト時間を増やすことなら、簡単にできそうだ。一緒にいる時間も増やせて、収入が増える。一石二鳥ではないか。
「……試しに、やってみようかな」
「うん、じゃあ、ひと月後に経過報告会を開くから」
経過報告会?
「賛成! ひなたに、めでたく恋が芽生えるか否かってだね! 楽しみにしているから」
智美も嬉々とした様子で、ビールジョッキを掲げる。
「では、山田ひなたに恋ができることを祈って、乾杯!」
「かんぱーい!」
当の本人は置いてきぼりで、勝手に盛り上がる二人であった。
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