冬の章・02 初めての帰省
一人暮らしを始めてから、実家に帰るのは始めてだった。
土曜の夕暮れ時、誉は久し振りの実家の前に立っていた。右手にはケーキの箱、左肩には愛猫マックロが入ったキャリーバッグ。格好はあまりラフなものではと思い、結局仕事に行く時に近い格好になってしまった。
よし、と意を決してドアフォンのボタンを押す。
「いらっしゃい。今開けますね」
待ち構えていたように、友紀の声がした。そして、すぐに玄関のドアが開く。
「誉さん、お久しぶりです」
エプロン姿の友紀が、サンダルをつっかけて出迎える。その姿をぼんやり眺めながら、ここはもう自分の家ではないような気さえしてきた。
「……お久しぶりです。今日はお招きありがとうございます」
軽く頭を下げると、キャリーバッグの中のマックロも「にゃあ」と鳴いた。
「わ、噂のマックロちゃんですね。会えるのを楽しみにしていたんです」
友紀は屈むと、キャリーバッグの中のマックロに語り掛ける。
「マックロちゃん、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
するとマックロは、返事を返すかのように小さく鳴いた。すると、友紀は表情を輝かせる。
「可愛い……」
バッグの中は見えないが、確かにマックロの鳴き声は可愛い。
姿はさらに可愛いぞと、誉はこっそりほくそ笑む。
「後で抱っこさせてもらってもいいですか? 初対面でも大丈夫でしょうか?」
クールな見掛けによらず、彼女は可愛いものが好きなのだ。
「人懐っこいので、初対面の人でも大丈夫ですよ」
「本当ですか? よかった……って、ごめんなさい。玄関先で」
「いえ、あと……ささやかですが」
と、ケーキの箱を差し出した。
「ありがとうございますって、やだ、誉さんのおうちじゃない。あら、わたしも『いらっしゃい』じゃないですね」
ケーキの箱を受け取りながら、友紀は少し照れたように微笑む。
「おかえりなさい」
一瞬、結婚でもしたら、こんな感じなんだろうか。
つい妄想してしまったのは仕方がないと思って欲しい。
彼女に必要以上の好意を抱いているわけではない。しかし、こんな美人が照れくさそうな笑顔で出迎えてくれるというシチュエーションは、上手く言えないが……ぐっと胸に来るものがある。
「誉さん?」
ここは素直に「ただいま」と言うべきか。誉が躊躇していると、友紀の隣りに父圭介がひょっこりと顔を出した。
「おかえり、誉。待っていたよ」
友紀と同じように照れた笑いを浮かべる圭介を目にして、自然に頬が緩むのを感じる。
「ただいま、父さん……友紀さん」
似た笑顔を浮かべる二人を見て、この二人は夫婦なんだなと実感する。同時に、かつてあった自分の家ではないのだと気付く。
ほんの少し、寂しさがよぎったことは、自分の胸の中にしまっておいた方がいいだろう。
家に上がると、間取りもインテリアも大して変わっていないというのに、どことなく違う気がしてならない。
……つい違うところ探しをしてしまうな。
苦笑しつつ、父に案内されるままに居間にたどり着くと、誉は目を丸くした。
「炬燵だ……」
部屋の中央に鎮座するのは、長方形の大きめな炬燵だった。
上にはカセットコンロと鉄鍋、グラスに取り皿と、食品以外の用意がされていた。
「たまにはいいと思ってね」
圭介は、少しばつが悪そうに頬を掻いた。
「寒かっただろ。今、温かいものを持ってくるから待っていなさい」
「いや、手伝うよ」
「まあ、いいからいいから」
「……」
実家ではあるが、すっかりお客様扱いである。居心地の悪さを感じつつも、父の勧めに従うことにする。
ふと、幼い頃、冬の夜や休日に炬燵で過ごしていたことを思い出す。あの時はまだ母も元気で、こんなぬるま湯のような時間がずっと続くのだと思っていた。
母、
食事はキッチンにあるテーブルで取っていたし、テレビは年末年始くらいしか腰を据えて視ることもない。
父も担当教員や学年主任に部活動の顧問など、平日も休日も不眠不休で働いていたといっても過言ではない。
誉も誉で、高校入試を経て、部活動は文化部で大して忙しくはなかったが、進学校故か入学早々大学受験に向けて何かと忙しかった。
だから居間に炬燵だなんて、本当に久し振りに見る光景だった。
「ほら出ておいで。こっちは温かいぞ」
いくら防寒していたとはいえ、子猫には寒かっただろう。さっそくバッグからマックロを出してやるが、初めての場所で落ち着かないようだ。誉の足元から離れようとしない。
仕方がない。誉はマックロを抱き上げると一緒に炬燵に入った。すでに炬燵は温まっている。そのままマックロを膝に乗せて、炬燵布団を小さな背中に掛けてやる。
すると、炬燵の温かさに気付いたようだ。誉の足の間から炬燵の中へ、するりと身を滑り込ませる。
ちょうどそこへ、友紀が温かいお茶を持って現れた。
「あら、マックロちゃん、バッグから出てきたんですか?」
「ええ。今、炬燵の中にいます」
「どれどれ」
友紀と一緒に炬燵の中を覗き込むと、丸くなってくつろぐマックロの姿があった。
「気に入ってくれたみたいですね」
「そのようですね」
黒い団子と化した愛猫の姿に、互いに相互を崩す。
「家族の団欒っていったら、炬燵かなって思ったんです。単純ですけど」
友紀は少し恥ずかしそうに付け加えた。
「実は……こういうの憧れていたんです」
「そう、でしたか」
こういう時に、上手いことを言えない自分がふがいない。しかし、友紀は気にした様子もなく、さらりと告げる。
「あと、来年には家族が増えるので、大きいのを買ってしまいました」
「そうでしたか…………え?」
今、家族がなんといった? 増えると言っていなかったか?
うっかり聞き流してしまうところだったが、本当にそう聞いたか自信がない。聞き返すかどうか迷っていると、友紀の方から正解を教えてくれる。
「はい。今、十週目なんです。安定期に入るまでは、油断できないんですけどね」
そう言いながら、まだ平らなお腹に手を添える。
これはもう、間違いない。
「……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
友紀は心底嬉しそうに目を細める。
……どうやらこの歳になって、弟か妹ができるらしい。
何とも感慨深いというか、恥ずかしいというか。まともに父の顔を見れるだろうかとか、そんなことばかりが心配になってくる。
「ええと……今日はすき焼きです。お肉もちょっと奮発しちゃいました」
「それは……豪勢ですね」
どうぞ、と出された湯呑み茶碗を手に取り、熱いお茶を啜りながら、じわじわと己の不甲斐なさを思い知る。
父と友紀は結婚し、子供まででき、順調な人生を送っているというのに、自分ときたらどうだ。
学生相手に恋をして、くだらない嫉妬などした挙げ句、柄にもなく余計な気を回して空回り。
最近ようやく普通に会話ができるようにまでなったというのに、今はそれすらできなくなってしまった。
週明けには、さっそく彼女がバイトにやってくる。
会えて嬉しい気持ちと、気不味い気持ちが半分半分。謝れば済む問題なら、これ程頭を悩ませることではなかったのに。
「誉さん、どうされました?」
友紀に声を掛けられ、我に返る。
「いえ、あの……」
無意識に溜め息を吐いていたようだ。
せっかく食事に招かれて、めでたい話を聞いたばかりだと言うのに、溜め息はないだろう。
いかん、いかんと気持ちを引き締めと、柄にもない笑顔を浮かべる。
「……炬燵はやはりいいものだなと、しみじみ思っていたところです」
「よかった」
場が和んだところに、父圭介が現れた。
「今日はすき焼きだよ。肉はちょっと奮発したんだぞ」
そう言いながら、圭介は肉と野菜が盛られた大皿を、炬燵の上に並べる。
さっきも聞いたセリフだと思いながら、誉は破顔する。
「それは豪勢だな」
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