冬の章・03 終着駅にて
少し飲み過ぎたかな……。
ひなたは、ふわぁっと欠伸をひとつする。
気分は悪くない。むしろ気分は良いくらいだ。ただ、やたらと眠いだけ。
帰りの電車の中、ひなたは襲い来る睡魔と戦っていた。
席が空いても、座ってはいけない。そのまま眠ってしまいそうだから。そう、間違いなく眠り込んでしまうに決まっている。
だから、ひなたは手すりに掴まって、必死に眠気に抗っていたが。
…………ねむい。
手すりに縋り付くように立っていたが、何度も膝から崩れ落ちそうになってしまう。電車は揺れるし危ないこと、このうえない。
電車が揺れた拍子に、ぐらりと身体が傾いた時だった。
ごち。
鈍い音を聞いた。手すりに思い切り額を打ち付けてしまう。
「いた……」
目から星が飛び出るほど痛いとは、こういうことを言うのだろう。
恥ずかしいやら、痛いやら。一気に眠気は吹き飛んだ……と思ったが、再び眠気が襲ってくる。
……ちょっとくらいなら、座ってもいいかな。
座ってしまえと、悪魔が耳元で囁く。
最寄駅まで、あと二十分くらい掛かる。このまま立っていたら、また頭をぶつける可能性は大きい。それに、何といっても眠たくて堪らない。
うん、ちょっとだけ、ちょっとだけ。絶対眠らないから、大丈夫大丈夫。
心の中で言い訳をしながら、ひなたは目の前の座席に座る。
うわぁ……。
これまで座席のありがたみを、こんなに感じた事はあっただろうか。特にこの端っこの席は、もたれ掛かるのにちょうどよい構造になっている。
自然と瞼が下がり、あっという間に睡魔に飲み込まれたことは言うまでもない。
* * * * *
「最悪だ……」
居眠りをしていたわけではない。つい、本に没頭してしまい、降りるべき駅をやり過ごし、終着駅にたどり着いてしまった。
とはいえ、三十分もあれば自宅の最寄り駅にたどり着く程度の距離だ。これがもっと早い時刻ならば問題がなかったのだが、残念なことに誉が乗った電車は最終電車であった。
やってしまった……。
半ば茫然としながら、電車を降りる。
人気も少なく、電車の出発時間を告げる電光掲示板もすでに電源が落とされ、何も映し出していない。普段と違う駅の様子は、寒々しさを感じる光景だった。
しかし、このままぼんやりとしていても仕方がない。締め出される前に駅から出なければならない。
「お客さん、終点ですよ」
夜風の寒さに身を震わせていると、車内から駅員の声がする。どうやら降り過ごしてしまった人が、他にもいるようだ。
まあ頑張れ、と心の中で告げながら、立ち去ろうとした時だった。
「え、あ、うわっ……」
「はい、降りてください」
「はい…………」
誉は思わず足を止めてしまう。
背後から聞こえてきた女性の声は、聞き覚えのあるものだった。
嘘だろう……。
もしかすると、妄想と願望が入り交じって幻聴を聞いているのだろうか。こんな時間に、こんなところで。彼女、山田ひなたの声がするなんて。
振り返るのが少し怖い。いや、かなり怖い。本当に彼女だとしたら、非常に気まずい。
もし、背後にいるのが彼女だとしたら、会ったところで何を話せばいいというのだろう。
背後から、その山田ひなたらしき人物がホームに降り立つ気配がする。
焦った誉が取った行動は、身を隠すことだった。咄嗟に、そしてさりげなさを装って、
ホームに設置されたベンチに座り込んだ。
幸いこのベンチは背もたれが高い位置まである。お陰で、彼女の位置からは死角に入るはずだ。
「…………」
息を殺して、背後の様子を伺う。
どうしよう、と途方に暮れた呟きが聞こえる。小さな溜め息をひとつ。そして、頼りなげに歩く微かな足音は次第に遠ざかっていく。
とぼとぼとホームを歩く後ろ姿を、こっそりと盗み見る。そして思う。
ああ、やっぱり彼女だったと。
肩まで伸びた癖のない髪、白っぽいダウンコートに包まれた小柄な背中が遠ざかっていく。
何をやっているんだ、俺は……。
誉は冷たいベンチの上で、己の情けなさを噛み締め溜息を吐く。
もうすっかりいい歳だというのに、この体たらくは一体どうした。
こんな終電も終わる時間に、どうして彼女がいるのか……恐らく飲み会の帰りで、居眠りでもして、降りるべき駅を降り過ごしてしまったのだろう。
もしや、また小原順也と一緒にいたのかと思うと、胸の奥がもやもやとする。
ともかく、とにかく。
こんな夜更けに若い女性がひとりでいるなんて危ない。なのに、気まずいのを理由に見過ごすとは何事か。それに、気まずいと感じているのは自分だけかもしれない。彼女の方は、まったく気にしていない可能性もある。
だったら行け、さっさと行け。
そうは思うが、重い腰が上がらない。
その時だった。
「お客様」
はっと我に返る。顔を上げる。目の前にはまだ若い駅員が、誉を覗き込んでいた。
「もう最終電車は終わりましたよ。そろそろ改札も閉めますから」
さっさと外に出て欲しいらしい。
「……はい」
駅員は誉が立ち上がるのを見届けると、そのまま立ち去った。恐らく、まだホームに残っている客がいないか確認に向かったのだろう。
誉は夜風に首を竦めると、まだ迷いを残したまま改札口へと向かった。
実家を出るまで毎日のように利用していた路線だが、終着駅までは行ったことがなかった。用事もないから行ったこともないのだが、正直どんなところかも知らなかった。
改札口はひとつしかないから、どこから出ようかは迷う必要はなかった。
「…………」
一瞬、己の目を疑う。
駅前だというのに、何もない。潔いくらい何もない。
唯一あるのは、小さなコンビニめいた商店と定食屋。どちらも個人商店らしく、当然閉まっている。
暗いからよくわからないが、他に店らしいものはないようだ。外灯に浮かび上がる車道に以外は、明るい建物はない。
何人か改札口から出ていく人たちはいたが、迷いなく歩いていく様子から、この駅を最寄りとしているに違いない。
それにしても、彼女はどこに行ってしまったのだろう。
道沿いに立てられたバス停の表示板に向かい、時刻表を覗いてみる。案の定、運行はもっと早い時間に終了していた。
隣にはタクシー乗り場の看板があるが、見渡す限りタクシーは一台も見つからない。看板に書かれた電話番号に掛けてみたが、一向に繋がらない。
「参ったな……」
携帯電話を睨みながら、つい弱音が漏れる。
時間を潰す店もなければ、タクシーもない。都合よくタクシーが通り掛かってくれたら……と願いつつ、視線を上げた時だった。
距離からしたら五、六メートルは離れているだろう。街路樹をくるりと囲むように備え付けられたベンチに、項垂れるようにして座る人影を見つけた。
薄明かるい外灯に浮かび上がるのは、顔を覆い隠す癖のない髪と、白っぽいダウンコート。
さっき背中を見送った人物に間違いないようだ。
どうしようか……。
再び迷いが生まれる。しかし、このままにしておくには危ないし、彼女がぴくりとも動かないことにも気になった。
そうだ。ここは、大学関係者として、年長者として見過ごすわけにはいかないだろう。
己に散々言い聞かすと、恐る恐るベンチに座り込んだままの彼女、山田ひなたの下へ歩を進める。
とうとう彼女の下へたどり着いてしまったが、ここに来て急に、ここにいる人物がひなたではなかったら……という不安が込み上げてきた。
考え、悩み抜いた末に、誉が取った行動は、ひとまず声を掛けることだった。
「……もしもし」
返事はない。今度はしゃがんで声を掛ける。
「大丈夫ですか」
反応なし。今度は肩を軽く叩いてみる。すると、小さな呻き声を漏らした後「おかあさん、あと五分だけ……」と寝惚けた声で呟いた。
眠っていたのか……。
間違いない。ここで居眠りをしているのは、山田ひなただった。
「山田さん、起きなさい。風邪を引くぞ」
今度はゆさゆさと肩を揺すぶるが「あと五分……」と繰り返し、目を覚ます様子もない。
「参ったな」
さっきも同じことを言ったと思いつつ、気持ち良さそうな寝顔を目にして、苦笑が漏れる。
「……あと五分だけだぞ」
誉はひなたの隣に座ると、巻いていたマフラーを解いて、彼女の肩に掛ける。
さて、彼女が目を覚ましたら、何とこの状況を説明しよう。冷たい夜風に当たれば頭も冷えて、いい案が浮かぶだろうか……。
隣にある温もりのせいで、火照る頬を冷えた指先で冷やしながら、今日もう何度目かしれない溜め息を吐くのだった。
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