夏休みの章・02 春の想い出
どうしてこんなにもやもやしているんだろう?
廣瀬の、というよりは飛沢の結婚話を聞いてからというもの、胸の奥のつかえが取れない。
もしかして、愛想の欠片もなく色恋沙汰には無縁そうな飛沢に、そんな相手がいたと知ってショックだったのかもしれない。
あの、無愛想の塊みたいな人に相手が存在するなんて。
しかも、廣瀬のように感じが良い上に、あんなにも綺麗な女性が相手だなんて。
「想像できない……」
無意識のうちに、呟いてしまう。
そう。飛沢先生が、廣瀬に優しく接する姿なんて……まったく想像できない。
エアコンの利いたリビングで、ゴロゴロとしながら悶々と唸っていると、母の声が飛んでいた。
「ちょっと、ひなた。ぼーっとしているなら、チビ太のお散歩行ってちょうだい」
「えー」
バラエティ番組の再放送を流し観ていたが、さほど面白いものではなかったし、今はただBGM替わりになっているに過ぎない。母さと子の言葉を聞き流していると、痺れを切らした母本人がずかずかとやってきて、テレビの電源を切ってしまう。
「もう、お母さん」
観ていないくせに、勝手に消されると腹が立つ。ムッと非難の目を向けるが、さと子が動じるわけが無い。
「もう、じゃないでしょ。せっかくの夏休みなのに、一日中ゴロゴロして……太るわよ」
最後のさと子の言葉が、ぐさりと心に突き刺さる。確かに最近ちょっと太ったかもしれないという自覚はあったから尚更だ。
「……わかった、行ってくる」
さと子の言うとおり、少しは動いた方がいいのはわかっていた。ひなたは勢い良く立ち上がる。
「いってらっしゃい。よろしくね」
さと子の声に追い立てられるように、財布と携帯電話の入ったエコバッグ、リードを手に玄関へ向かう。すると今までどこにいたのか、チビ太が飛び跳ねながら、ひなたの足元に擦り寄ってきた。
「わわ、ちょっとチビ太! リード付けなきゃダメだってば」
喜びのあまり鼻息の荒いチビ太を宥めながら、ようやく首輪にリードを装着する。
「じゃあ、いってきます」
チビ太に引っ張られるように外へ出ると、途端にまとわり付くような熱い空気に包まれた。
もう五時を過ぎていたが、暑さはまだ引いていない。クーラーで冷やされていた肌に、じっとりと汗が滲み出る。
並木通りの木陰を選んで歩いても、暑さはそう簡単に和らいではくれない。
ふと、久しぶりにあの公園に行ってみようかと思った。
最近散歩コースから外していたのは、もしかしたらまた飛沢と遭遇してしまうのではないかと思っていたからだ。
別に飛沢に会いたくないからではない。化粧もせず、適当な格好をしているところを、顔見知りの人間に見せるのが恥ずかしかったからだ。相手が飛沢ではなくても、恐らくそう思っただろう、多分。
今日だって、スッピンだし、服装だって適当だ。でも。
「チビ太、こっち行こう」
もしも会えたら、噂の真相を確かめてみたいという気持ちもある。
なんて、会えるわけなんてないけどね。
軽くリードを引っ張ると、チビ太は嬉しげに以前の散歩コースに方向を変えた。
まだ明るいせいもあって、思っていたより公園には人が多かった。夏休みということもあり、公園内を駆け回る小学生の姿も多い。
すれ違う小学生たちは、チビ太に興味ありげな視線を送るが近寄っては来ない。背後から「今の犬でっかい」とか「怖えー」という声が聞こえてくる。
「……怖くなんてないのにね」
飼い主としては、怖いと言われてしまう愛犬が不憫でならない。よしよしと頭を撫でると、チビ太は嬉しそうに尻尾を振った。
公園内の木々の間は、思っていたとおり涼しかった。スポーツ施設の付近まで行くと、木陰に木製のベンチが並んでいる。
そうだ。この辺だった。
お弁当を食べていた飛沢に、チビ太が飛びかかったのは。正確には「飛沢のお弁当に」だが。
西陽が作る濃い影が、ベンチの上に落ちる。ここに座って飛沢と話をしたのが、ひどく遠い日の出来事に思える。
あの時は、どうしてよりによって恐れていた飛沢に遭遇してしまったのだろうと絶望的な気持ちだった。でも、大学で見る飛沢とは違う一面を知ったのも、あの時だった。
あの日チビ太が飛沢に飛びかかっていなかったら。研究室でのアルバイトなどすぐに辞めてしまったかもしれない。
ここで会って、話をして、飛沢の新たな一面を知ったから、勇気を出して入学前の失態を謝罪することができたのだ。
だから、またもう一度、あの時みたいに話ができたらいいのにと思ってしまう。
どうしてだろう。自分でもよくわからない。しかし、都合よく飛沢がこの場にいるわけがない。
馬鹿げた自分の考えに苦笑すると、ひなたはリードを引いた。
「チビ太、帰ろうか」
いつの間にか足を止めていたらしい。大人しく足元で座り込んでいたチビ太は、ひなたの呼びかけにすぐさま反応する。尻尾を振りながら立ち上がると、小さく「ウォン」と返事をする。
「そうだ、コロッケ買いに行こうか?」
夕食前だが、チビ太と半分こなら差し障りないだろう。
今の時間なら夕食の買い物をする客が多いはずだ。きっと揚げたてのホカホカのコロッケが置いてあるはずだ。
公園を足早に抜け、荒井精肉店に向かう。店の看板が見える辺りまで来ると、香ばしくいい匂いが漂ってくる。店の前には幸い並んでいる人の姿はない。チビ太を連れているので、並ばず買える方が好都合だった。
店のショーケースを覗き込むと、今上がったばかりの牛肉コロッケや肉じゃがコロッケが並んでいる。メンチカツも捨てがたいが、やっぱりここにきたらシンプルなコロッケだろう。
「あの、すみません」
ショーケースの向こうにいる店員に声を掛ける。今日は見かけない若い男性の店員だった。普段は親しみやすい雰囲気のこの店の奥さんなのだが、目の前にいる店員はあまり愛想がなくとっつきにく雰囲気だ。
「コロッケを一つお願いします」
「はい」
店員は簡潔に返事をすると、手早く揚げたてのコロッケを小さな紙袋に入れた。
「八十円です」
「はい……あっ」
熱々のコロッケを受け取りながら、肩に掛けていたエコバッグに入った財布を取り出そうとしたが。
「ない……」
入っていると思っていた財布が無かった。ひなたは、慌てて店員に伝えようと顔を上げる。
「あの、すみません……」
「早くしてくれる? 後がつかえてるから」
財布を忘れてしまったことを店員に告げようとしたが、いつの間に背後に並んでいた女性が尖った声を上げる。
「ごめんなさい、あの。お財布を忘れてしまって……あの」
店員と女性を交互に見ながら告げるものの、声が小さかったのか二人には届いていなかったようだ。店員はひなたが料金を払うのを無言で待ち、背後の女性は苛立った視線を向けてくる。
ひなたの傍らでは、チビ太が心細そうな顔で見上げている。
「お、お財布を忘れてしまって」
「すみません、いくらですか?」
蚊の鳴くようなひなたの声に、聞き慣れた低い声と影が重なる。
この声は。はっと顔を上げると、長身の男性が間近にあった。
うそ……。
嘘みたいだが、普段着姿の飛沢が目の前にいた。
「八十円です」
「じゃあこれで」
どうして先生が、こんなところに。近所だから、飛沢がいてもおかしくはないかと、ぐるぐると考える。
財布を忘れたひなたにとって、飛沢はまるで救世主のようだ。
コロッケの危機を救う救世主なんて、あまりカッコいいものではないけれど。と、冷静な自分が突っ込みを入れた。
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