夏休みの章・01 飛沢准教授の噂の真相?

 大学図書館の帰り、友人の智美とお茶をしていたら、ずいぶん長居をしてしまった。一緒に夕飯にでもと思っていたが、これから彼氏と会うのだという。

 だから、せっかく外に出たというのに、普段とほぼ変わらない時間に帰宅できてしまった。

 彼氏がいる親友が羨ましい。それは無いものねだりともいうのかもしれない。

 つい最近、万が一の可能性に掛けて合コンに行っても、酔い潰れて周囲に迷惑を掛けただけだった。あれでは彼氏どころか、飲み会にすら当分参加できそうにない。

『山田さんに合コンは向いていないと思う』

 誰に指摘されたのか覚えていないが、まったくその通りだ。引っ込み思案が災いして、これまで親しい男の子はいなかった。そもそも彼氏の前に、彼氏になって欲しい相手がいない。

 ふと思う。自分はどんな人を好きになるのだろう。

 何気なく空を見上げる。まだらに並んだ雲が、夕陽を受けて金色に輝いている。

「きれい……」

 今はよくわからないけれど、この雲を綺麗だと一緒に言ってくれる人がいいな。

「……なーんてね」

 何を柄にもないことを考えているのだろう。我ながら恥ずかしくなってきた。ひなたは軽く肩を竦めると、足早に家路を急いだ。


* * * *


「ただいまー」

 ひなたが自宅に帰ると、家中にカレーの匂いが立ち篭めていた。匂いに釣られてキッチンへ向かうと、そこにいるのは母親ではなく、弟の祥太郎だった。

「おう、おかえり」

 カレーが煮立った鍋をかき混ぜながら祥太郎が振り返る。

「お母さんは?」

 ダイニングテーブルの椅子に座りながら訊ねる。

「ジイちゃんのところ」

「そっか」

「そろそろ帰ってくると思うよ」

 ジイちゃんと祥太郎が呼ぶのは、母方の祖父のことだ。

 祖父正二は近所の老人ホームに入所している。まだ身体もしっかりしているが、祖母が亡くなってから「家族に迷惑は掛けたくない」と言って、さっさと入所を決めてしまった。

 入所してから五年が経つが、時折旅行へ行ったり、囲碁や将棋やカラオケと結構充実した日々を送っているようだ。

 どうせなら一緒に行きたかったな。

 最近バタバタしていて、祖父としばらく会っていない。今度一緒に母に付いていこうかと考えながら、何か腹に収めるものはないものかと冷蔵庫の扉に手を掛けた。

 その時、リビングの電話が鳴り響いた。

「ひな、電話出て」

「うん」

 パタパタと慌てて受話器を取る。

「はい、山田です」

『あら、ひなた?』

 受話器の向こうから聞こえてきたのは、母、さと子の声だった。

「うん、どうしたの?」

『今おじいちゃんのところにいるんだけど、忘れ物をしちゃって……』

 さと子は困り果てたように言葉を濁す。

「忘れ物?」

『おじいちゃんに作ったブラウニーを忘れちゃったの』

 祖父正二は大の甘党だ。和菓子だけではなく洋菓子も好きだ。特に母が作ったブラウニーが大好きなのだ。

「そっか」

 今回のブラウニーは我が家でいただいて、正二にはまた次回渡せばいいだろう。そう思っていた。しかし。

『悪いけど、今から持ってきてくれない? おじいちゃん、どうしても今持ってきて欲しいって言うの』

「ええっ、今から?」

 壁時計を見ると、そろそろ七時になろうとしていた。

 老人ホームまで、電車で片道二十分くらいで行ける。行けないことはないが、少々面倒だと思ってしまう。

『お願い。祥太郎に頼んでもいいから』

「うーん……いいよ。わたし、持っていく」

 どうせ今は夏休みだ。特に明日は予定もないし、正二の顔が見れると思えば少々の面倒も目を瞑ろう。

『ありがとう。ブラウニーは冷蔵庫に入ってるからお願いね。あと、帰りにアイスでも買って帰ろうね』

「ん、ありがと」

 もう子供じゃないのに。

 そうは思いつつ、アイスの魅力は捨てがたい。電話を終えると、すかさず祥太郎が訊ねてきた。

「今から出掛けるの?」

「うん、おじいちゃんにあげるブラウニー忘れたんだって」

「げ、今から?」

「おじいちゃんが、どうしてもって」

 冷蔵庫を開けると、アルミホイルに包まれた正方形のブラウニーを見つける。棚から適当な紙袋を見つけ、その中に入れた。

「俺が行こうか?」

「ううん、大丈夫」

 エコバッグにハンカチとお財布に携帯電話、そしてブラウニーを入れる。

「あ、お父さん帰ってきたら、先に食べててって」

「りょうかーい」

「じゃあ、いってきます」

 慌ただしく玄関を出ると、小走りで夜道を急いだ。


 住宅街の中にある老人ホームは、一見どこにでもあるマンションのようだ。駐車場に建った看板がなければ、老人ホームだとは誰も思わないだろう。

 ひなたは汗を拭いながら、足早に入口へ向かう。携帯電話で時間を確認すると、八時を回ろうとしていた。

 大きなガラスの扉の向こうを覗き込むが、入口付近に人の気配はない。壁に備え付けられたインターフォンのボタンを押した。

『はい』

「夜分遅くすいません。長岡正二の孫の、山田と申します」

『お待ちください』

 職員の女性の声が返答する。乱れた髪を直していると、奥から女性が小走りで現れた。

「こんばんは。長岡さんとお母様がお待ちですよ」

 ひなたを向かい入れてくれたのは、顔見知りの職員、廣瀬だった。ちなみに「長岡」とは祖父の苗字だ。

「こんばんは。ありがとうございます」

 気さくで別嬪だと、正二が贔屓にしている職員さんだ。

 廣瀬は同性の目から見ても、文句なしの美人だと思う。正二が気に入っているのも頷けるものの、自分の祖父が美人を前にニコニコしている状況は、孫の立場としては少々複雑でもある。

 ふと、廣瀬の胸元に付いたネームプレートを目にして――思わず息を飲んだ。

「あの、廣瀬さん。名前……」

 小さなプラスチックのネームプレートには「飛沢」と書かれていた。

 飛沢なんて、あまりない苗字だ。考えられる可能性が頭をかすめ、心臓の鼓動が早くなってくるのを自覚する。

「え、ああ」

 廣瀬は、少し照れくさそうに微笑んだ。

「実は結婚したんです」

「もう、お式はされたのですか?」

「いえ式はこれからなんですけど、籍だけ先に入れてしまったんです」

「そうなんですか……」

 同じ苗字の人間が他にいたっておかしくはない。そうだ、飛沢は確か従弟だと話していたのを思い出す。

「ご結婚おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 できる限りの笑顔でお祝いを告げると、廣瀬は照れ臭そうにほほ笑んだ。純粋な、幸せそうな笑顔だった。

 きっと、飛沢の親戚だ。本人は付き合っている相手もいないと言っていたのだから。

「それで、旦那さんは、何をしている方なんですか?」

 それでも確かめずにはいられない。声がうわずってしまったことに気付かれないことを祈りつつ、廣瀬の返答を待つ。

「……学校の、先生をしている人なの」



「そうなんだよ、廣瀬さんお嫁に行ってしまうなんてなあ……」

 廣瀬の話題を出した途端、正二はせっかく届けに来たブラウニーを喜ぶでもなく、落胆したように肩を落とした。

「お父さん、廣瀬さん贔屓だものね」

 と苦笑するの母さと子の横顔を見る。

「廣瀬さんの相手って、どんな人なの?」

 さと子の質問に、正二は顔をしかめる。

「どうやら学校の先生らしいぞ。お相手のこと先生って呼んでるらしいが……ずいぶん余所余所しいもんだ」

「あら、お父さんヤキモチ?」

 祖父と母の会話が、途中から耳に入らなくなっていた。

 やはり、飛沢のことのように聞こえてならない。しかし、先生といっても、大学の先生とは限らない。小学校の先生という可能性もある。

「近いうちに大学の公開講座にに行くらしいから、やっぱり大学の先生かもしれんな」

 正二の言葉が、わずかな可能性をあっさりと打ち砕く。

 飛沢という苗字で、大学の先生。しかも廣瀬と年齢的にもちょうどいい。

 ……やっぱり、先生なんだ。

 どうしてこんなにショックなんだろう?

 噂だと本人の口から聞いたばかりなのに、誤魔化されたからだろうか?

 飛沢に付き合っている相手がいないと思い込んでいたからだろうか?

 でも、どうして相手がいないと思っていたのだろう?

 背だって高い方だし、いつもスーツ姿で少々堅苦しい印象だが、世の中にはスーツ好きの人だって多い。

 ああでも、休日の飛沢はTシャツとジーンズ姿と、学生みたいだったな、なんて思い出す。

 表情は乏しいものの、それなりに整った顔立ちをしている。眼鏡を変えると若く見えるし、ごくたまに目にする笑顔は……なかなか悪くない。

「ひなた、元気が無いけど、どうしたの?」

 さと子の声に、はっと我に返る。

「ううん、別に。ただお腹が空いちゃって」

 笑って誤魔化してみる。

 しかし胸の奥にぽっかり穴が空いたような、重たい石が詰まったような息苦しさは、そう簡単に誤魔化せそうにはなかった。

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