春の章・15 彼女の告白

 何を動揺している? そうだ、篠原に余計なことを言われたせいに違いない。

 ――誉くんもいいんじゃない。教え子。

 いやいや! 駄目に決まっているだろう! あの馬鹿の戯言に感化されているんじゃない!

 頭に浮かんだ邪念を振り払うと、こっそりと咳払いをする。

「……どうぞ」

 平坦な声で答えると、ゆっくりとドアが開く。

「こ、こんにちは」

 ひょっこり顔を出したのは、案の定というべきか、予想通りというべきか……とにかくやっぱり山田ひなただった。

 緊張気味の口調、ぎこちない、はにかむような笑顔。彼女はいつもこんな調子であるのはわかっているのに、篠原の余計な言葉のせいで、つい余計に意識してしまう。

「……こんにちは」

 挨拶を返しながら、ふと気が付く。

 今日、彼女の仕事は無いはずだ。どうしてここに来たのだろう――と考えているうちに、いつのまにか彼女は誉の目の前に立っていた。

「あの……今、お時間いいですか」

 覚悟を決めたような面持ち。薄っすらと紅潮した頬。緊張したように小刻みに震える手。

「ああ、大丈夫だ」

 どくん――と、心臓が大きくなる。

 不味い。何が不味いのかわからないが、とにかく不味い。

「や――」

 やっぱり用事があると告げようとしたが、ひなたが口火を切る方が早かった。

「先生! 今日は折り入ってお話があります」 

 いつになく、彼女のしっかりとした口調に驚く。

「話とは?」

 心臓がどくどくと打ち続けるが、耳に届いた自分の声は相変わらず素っ気ない響きで安堵する。

 そうだ。彼女が何を言おうと、年長者である自分が冷静に対処すればいいまでのこと。

 冷静になれ。落ち着け自分。彼女が何を言おうと、自分させ落ち付いていれば問題は無い。

 息を吸い込み、机の上で軽く手を組むと、さあ来いと言わんばかりに身を乗り出した。

「じ、実はわたし……」

 ひなたは一気に頬をさらに赤く染め上げると、誉の視線から逃れるように視線を泳がせる。しかし、それではいけないと思ったのだろう。覚悟を決めたように、大きな瞳を誉に向ける。

「わたし! あの! ごめんなさい!」

 勢い良く頭を下げる。

 ――ごめんなさい?

 彼女が謝る理由がわからず、誉はぽかんとしてしまう。

 顔を上げると、こちらが居た堪れなくなるような表情を浮かべている。誉もどうすればいいのかわからず、内心おろおろしながら彼女を見守っていると、彼女は迷いを振り切るように眼差しを強くする。

「……先生、入学式の前に女子高生とぶつかったの、覚えていますか?」

「女子高生?」

 問われたものの、咄嗟には思い出せない。

「コロッケと、先生の本」

 あ、と思わず声を上げる。

「先生にぶつかって、コロッケをぶつけて、本を駄目にしちゃったのは……わたしなんです!」

 ひなたは一気に言い放つと、もう一度頭を下げた。

「最初にお会いした時から気が付いていたんです。でも……怖くて…………あの時は、本当に申し訳ありませんでした!」

 思いもよらないひなたの告白に、誉はしばらく呆気に取られていたが、じわじわと当時の状況を思い出す。

 雨粒が散ったレンズ越しに見えた、怯えた女子高生。すでに顔など覚えていない。ただ、畏縮するように誉を見つめる瞳だけは脳裏に焼き付いていた。

 九十度の角度でお辞儀をしたままの、ひなたの栗色の頭を見つめながら、これまでの彼女の態度を思い出す。

 極端に怯えたような様子だったのは、時折何か言いたげにしていたのは……。

 ああ、そうか。ずっとこのことを詫びたかったのだ。彼女は。

 それなのに、彼女が自分に好意を抱いていると勘違いをしていたとは。

「…………」

 額にへんな汗が滲んできた。何だか顔まで熱くなってきた。恐らく赤面しているだろう。

「………………」

 口元を手のひらで覆うと、堪らず嘆息する。

 なんという勘違い。

 なんという自惚れ。

 考えてみればわかることだ。こんなにも若い彼女が、会って間もない、十歳以上も歳が離れた男を、この能面と称される男を、そのような対象にするわけがなかろうが。

 色々と思い起こすと、穴があったら入りたくなるほど恥ずかしい。

「あの……先生」

 ひなたが顔を上げようとする気配を感じて、誉は焦る。こんな真っ赤な顔を見られるわけにはいかない。

 素早く椅子から腰を上げ、身を乗り出し、伸ばした手を彼女の頭の上に置いた。びくっと彼女の肩が跳ね上がる。一瞬「セクハラ」の文字が頭を掠めるが、そのまま彼女の柔らかな髪をくしゃくしゃと掻き回した。

「せ、先生?」

「山田さんは…………良い子だな」

 黙っていれば、そのままやり過ごせただろうに。

「えっ?」

「いや、あの……」

 おい、何を言っているんだ。ほら、彼女も戸惑っているじゃないか。

「そうではなく……」

 ああ、どう言えばいいのだろう。

 そんなこと気にしなくてもいい、とでも言えばいいのだろうか。それも違うような気がする。

 じゃあ、何を言えばいい?

 雨の中、彼女が傘を残して立ち去った後、何を思った?

 どうすればよかったと、後悔しただろう?

「……あの時は」

 ゆっくりと思い起こしながら、素直な気持ちを口にする。

「私も不注意だったんだ。私の方こそ……申し訳ない」

「いいえ、そんなことは!」

 頭を撫でる手を止めると、ぽんと軽く叩き、ゆっくりと手を離す。

「………山田さん」

「はい?」

 ひなたが顔を上げるタイミングを見計らって、くるりと背を向ける。まだ熱の引かない顔を見られたくなかったからだ。

「……あの時は、傘を、ありがとう」

 助かったと付け加えるように呟くと、背後でふわりと笑ったような息遣いが耳に届く。

「いいえ……お役に立てたなら嬉しいです」

 ――彼女の方が、案外大人かもしれないな。

 火照ったままの頬を撫でながら、入る穴が本当にどこかにあったらいいのにと、我ながら馬鹿げたことばかりを考えていた。


* * * *


『先生、もう始まっちゃいますよ』

 帰りの電車を待つホームで、突然の順也からの電話に首を捻る。

「……何のことだ?」

『何って、ひなたちゃんの歓迎会に決まってるじゃありませんか。もう皆集まってるんですよ』

 皆って一体誰だ。しかも歓迎会なんて初耳である。どうやら誉の知らない所で話が決まっていたようだ。

『篠原さんから聞いてないんですか?』

「篠原がなぜ参加している?!」

『だって、篠原さんが幹事ですから』

 あの男は、まったくわけがわからない。

『てっきり、篠原さんが連絡してくれていたと思っていたんですけど』

「恐らく篠原も、小原くんから連絡すると思っていたのだろうな」

『あー……有り得ますね』

 今日が誉の出張だということも忘れていたのだろう。

「すまないが、私は参加出来そうにない。篠原の奢りで楽しんでくれ」

 昨日から泊まりの出張で、これから帰路に着くところだが、確実に歓迎会には間に合わない。自分でセッティングした歓迎会なら、自腹をかっさばいて楽しむがいい。

『……ところで先生、今どこにいるんですか?』

「岩手だ」

『確かに無理ですね』

 どうやら、研究室のホワイトボードに書かれた予定表は、誰の目にも留まらなかったらしい。今から新幹線停車駅に向かって、東京に着く頃には歓迎会はとっくに終わっているだろう。

「では、楽しんでくれ。また明日」

『はい、お土産楽しみに待ってます』

 ぶつり、と通話が途絶えた後、液晶画面に表示された時刻と、電車の出発時間を見比べる。

 あと二十分か。

 駅構内の売店でなら、まだ間に合うはずだ。携帯電話と切符を服のポケットにしまうと、お土産を買いに売店へと向かった。


 



*** 夏の章へ続く ***

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