第2話 クラスメイトのシクロクロス

 夏休みが明け、学校が始まる。中学3年生である空にとって、それは忙しい時期の再来を意味していた。

「進路か……空、お前はどうする?」

 友達がそう聞いてきたのは、放課後に進路希望調査書類の再提出を食らったからに違いない。その友達は……

「ちなみに俺は賭け麻雀で一攫千金を狙う。プロの雀士が第一希望ってわけだ」

 ルールすら覚えたばかりなのに、そんなことを言っている。まあ、ほかのクラスメイトは上がり手すらよく覚えていないので、彼がクラスで一番の雀士であることは確かなのだが……

「まあ、がんばってね」

「おう。もし億単位のヤマに出会えたら、空にも少し分けてやるからな」

 進路希望の再提出も納得だ。

「そういう空はどうするんだ?」

「僕?……うーん――いったん持ち帰ります」

 空にしても、これと言って進む道が見えているわけじゃない。とりあえず最悪の場合は近くの高校に進学する――ということにしておけば何とかなるだろう。その考えが将来の決定を先送りする。

「まあ、今日中に提出するものでもないしな。諫早いさはやさんは早くも再提出に行ったけど」

「え?諫早さんが?」

 諫早さんとは、空たちにとってのクラスメイトの女子だった。逆に言えばそれ以上の接点はなく、空にしてもあまり喋ったことがない。あえて言えば、女子の中でも浮いた存在だと認識している程度である。

 いくら簡単な調査といっても、一回没にされたものをたった一時間ほどで再提出しに行くのは異常な早さだった。そもそも、こういうのは一回持ち帰って両親と相談するのが筋じゃないかと、少なくとも空はそう認識していた。

「お、噂をすれば戻ってきた」

 ドスンドスンという足音。どうやったらリノリウムの床からそんな音が出るのか疑問に思うほどの重低音が、教室に近づいてくる。


 ――ズダァン!


 反響して尾を引くほどの音を出して、教室の引き戸が開け放たれた。噂の諫早である。

 身長はやや高めだが、しなやかな肢体は軽そうに見える。しかし、先ほどの大きな足音の主で間違いない。鍛え上げた脚力が、その足音を響かせたのだ。

 鋭い目と細い眉は、怒りで吊り上がっていた。高い位置でくくった短めの髪の毛さえ、ツンツンと逆立っている。

「……」

 諫早は無言で周囲を見ると、手に持っていたA4サイズの紙切れをゴミ箱に放り込んだ。苛立っているせいか投球フォームこそ豪快だったが、いかんせん投げるのが紙切れなので勢いはない。

「――くそっ」

 あわよくばゴミ箱を破壊しようとイメージしていた諫早は、暴れれば暴れるほど自分が惨めになると認識して席に着いた。

 またダメだった。そんなことは本人に聞かなくてもわかる。

 教室に残っていた数人が一同、顔をそろえて帰り支度を始めた。これ以上ここにいては巻き込まれかねない。そう察したからだった。

「おい、空。俺たちもそろそろ帰ろうぜ」

 諫早さんの逆鱗の端っこに間違って触れる前に、と言外に付け加えた友人であった。

 しかし……

「あ、うん。じゃあ、また明日」

 と答えた空は、信じられない行動をとる。

 ゴミ箱から、今しがた放り込まれた紙の球を取り出して、きれいに伸ばし始めたのだ。それだけではない。何を思ったのか、それを持って諫早に近づいていくではないか。

「じゃ、じゃあ空。また明日――生きてたらな」

 空の友達は、そんな空をあっさり見捨てて帰る。教室には、空と諫早の二人だけが取り残された。

「はい、諫早さん」

「……いらねぇ」

「いや、でも再提出なんでしょ?」

「……アタイはもうやる気がねぇ」

 空は書類に目を通す。別に進学先を細かく指定するわけでもない書類――将来どんな職業に就きたいかを示すだけの簡素な書類には、


『3年B組、諫早 茜

 第一希望 プロロードレーサー(自転車選手)

 第二希望

 第三希望

                     』


 と、あまりにアバウトに第一希望だけが書かれていた。

「読むな!」

 空の手から書類をバシッと取った諫早は、そのまま机に突っ伏してしまう。

 空はただその場に立ち尽くして、諫早のひっつめた後ろ髪が、風に微弱に揺れるのを見ていた。髪の長さが足りないせいか、無理矢理に縛られたツンツン髪の毛先は、窓から入る微風にも軽くなびく。と――

「何見てんだよ」

「え?ああ、ごめん」

「……お前もう帰れよ。用事もねぇんだろう?お友達も帰ったぞ」

 ぶっきらぼうに、しかし怒っているわけではなさそうに言う諫早。

「アタイは今、一人で考え事をしたいんだよ。目障りだ」

「ところで、諫早さんって自転車詳しいの?」

「話聞いてたか?」

「あ、そうだよね。進路希望に自転車選手になりたいなんて書くぐらいだもん。詳しいに決まっているよね。ごめん。失礼な質問だったよ」

「いや、アタイが言っているのはそこじゃねぇから!」

「あ、話の本題だよね。えっと、僕、最近クロスバイクに乗り始めて……」

「本題に移るなよ。そのクロスバイクでさっさと帰れ」

「帰る前に、自転車屋さんに寄っていこうかと思っているんだけど……」

「うん。よかったな。じゃあまた明日」

「一緒に行かない?」

「お前ってすげぇズレてるよな!?」

 ついに席を立った諫早は、どう当たり散らしたらいいか判らない怒りに混乱する。いつものように物に当たったところでスッキリしそうにないし、かといって空を殴り飛ばしたところで釈然としない。

 なにしろ目の前にいる空は、何の悪気もない顔でまっすぐ見てくるのだ。からかっているわけでないのは誰の目にもわかる。

「――はぁ」

 溜息一つ吐いた諫早は、そこで確信した。どうやら空という人間は会話が成立しないらしい。諦め半分、しかしもう半分に興味を込めて、

「なあ、それでアタイに何の用なんだ?自転車の話だったよな?」

 と、訊いてみる。空は嬉しそうに笑った。

「うん。実は、僕の自転車ってライトがついてなくてさ。今の時期なら日も長いけど、これから秋になると学校の帰りが暗くなってたりするでしょ?」

「ああ、それでライトを買いに行こうっていうわけか」

「うん。でも、どんなライトを買ったらいいかわからないから、詳しい人に聞きたくて、えっと、教えてもらえないかな?」

「ああ、そうだな。アタイのおすすめは……」

 言いかけて、考える。自分が好きなパーツを進めるのは簡単だが、この手の話は好みや癖、走る場所や時間、予算などによっても変わってくる。

 何より、学校でスポーツ自転車の話などできるクラスメイトに出会ったのは、諫早にとっては人生で初めての事だった。クロスバイクという単語が出てくるのも、これまた新鮮な驚きだった。

「よし、じゃあこれから寄り道に付き合ってやるよ。自転車屋に行くんだろう?とりあえずどこに行く?」

「えっと、一丁目のトアルサイクルかな。家に帰る途中にあるんだけどね」

「いいだろう。あの店ならアタイも知っているからな」

 実を言えば諫早の自宅とは逆方向になるわけだが、いずれにしても大した距離ではないので気にしない。もともと家に帰ってからトレーニング目的でサイクリングをしようと思っていたので、順番が少し変わるだけだ。

「よし、行くぞ」

 早速、とばかりに、諫早は席を立つ。

「ありがとう。諫早さん」

「茜でいい」

 諫早茜は、改めて下の名前で名乗る。ちょっとあこがれていたセリフだけに、言った後の達成感と恥ずかしさが同時にこみ上げてくる感覚は新鮮だ。

 しかし、

「うん。あかねちゃん」

 空の何気ない一言で、茜はひっくり返りそうになった。ちょうど踵を返そうかと思った時の事だったので、大きくバランスを崩す。

「ちゃんはやめろ。さんだ」

「あかねちゃ……さん」

「なんで?どうして言えないんだ?どうしてそこで噛むんだ?」

「あかねちゃ……あれ?あかにゃん……あかねや……」

「……わかった。呼び捨てを許可する」

「うん。茜」

「……」

 純粋にイラっとするが、こらえる。いいんだ。もうそれでいい。そう自分に言い聞かせた茜は、

「先に行っておけ。アタイは着替えてから追いつく」

 そういって、空を追い払った。着替えながら、約束通りに一緒に寄り道するか、すっぽかすか真剣に悩む。

「……一度は約束したもんな」




 様々な自転車が――といってもほとんどシティサイクルが並ぶ、学校の駐輪所。ところどころ錆びた銀色(というより鈍色)の車体が大半を占める中、空の愛車である水色のクロスバイクは、明らかな異彩を放っていた。

「エスケープ。会いたかったよ」

 恥ずかしげもなく愛車の名前を口に出した空は、ワイヤーロックの番号4桁をカチャカチャと揃えてキーを外す。南京錠のようなカギを外すと、続いて後輪とシートステーを巻き込んだワイヤーを抜き取り、駐輪所の柱に回していたワイヤーを引き抜き、前輪とボトムチューブを結わえていたリングを解く。

 空が従兄から教わった『一つのカギでしっかりと防犯できる方法』であった。ダブルループというらしく、ホイールがQR式の車体ならおすすめの方法なのだという。

 慣れない手つきでワイヤーを巻き取った空は、それをスクールバッグの中にしまう。

 自転車にバスケットがないため、スクールバッグは背中に背負うしかない。だったら最初からバックパックで登校したほうがいいのだが、カバンまで学校指定なので仕方ないのだ。

 学生服のズボンも、裾がギアに巻き込まれないように工夫する。100円ショップなどで売っているマジックテープ式の裾止めバンドを巻いて、しっかりと固定。とてもダサいが走るうえで欠かせない儀式だった。

「よう、準備はできたみたいだな」

 後ろから茜の声がする。振り向いてみれば、茜はいつものセーラー服だった。

「あれ?着替えるんじゃなかったの?」

「ああ、着替えって言っても、学校の近くにいる間は制服を着ている形はとらないとな。先生に見つかったら、めんどくせぇだろ」

 そういう茜は、スカートを軽く片手で持ち上げて見せた。

「中にはレーパン穿いてるよ。スカートは途中で脱ぐ予定だ」

 空が一瞬目をそらしたのを確認した茜は、満足げな表情で歩いていく。なんとなくそういうお年頃なのだ。

「これがアタイの自転車だ」

 駐輪所の端に止められていたのは、グレーのフレームが特徴の落ち着きある自転車。とりわけタイヤが細い訳でもなく、目立ったカラーリングでもないそれは、後ろから見た限りでは特別な感じがしなかった。

 キーを外した茜は、駐輪所からその車体を引き抜く。フロントが露わになったことで、空はその車体が普通車じゃないことをようやく確信した。

 オフシーズンに対応した非舗装路トレイル用ロードバイク――シクロクロスと呼ばれる車体だ。その知識のない空にも、この自転車の異様さは何となく伝わる。


「CENTURION CROSSFIREクロスファイア-2000だ。まあ、15万くらいの安物だな」


 安物、と茜は言ったが、もちろん本心から言ったわけではない。確かにシクロクロスの中ではエントリーモデルになってしまうが、言うまでもなく15万は中学生にとって大金だ。茜も随分と苦労して手に入れたので、セリフと裏腹に自慢げな表情である。

「それって……ドロップハンドル?」

「おお、なんだ。さすがに知ってやがるじゃねぇか」

 ロードレーサーなどの車体に取り付けられることが多いドロップハンドル……下向きにねじ曲がった独特のハンドルが、茜の車体に取り付けられていた。

 よく見れば、ハンドルには2セットのブレーキレバーがついており、どちらも前後に取り付けられたディスクブレーキにつながっている。

「補助ブレーキって言ってな。ハンドルをどのポジションで持っていても、瞬時にブレーキがかけられるんだ。ディスクブレーキだから急激にロックさせることもできるし、オフロード走行も可能だぜ」

「タイヤも太いね。僕のより太い」

「まあな。そっちは28cのスリックってところだろう?こっちは35cで全天候だ。ドイツのシュワルベってメーカーが作ってるマラソン。高耐久が魅力だ」

 オフロード走行できるといっても、MTBのような力強さは感じず、サスペンションなども見当たらない。空の乗るクロスバイクとは違った意味で、ロードとMTBの中間に位置する車両のようだ。

「ギアの段数は?」

「ああ、20段だな」

「あ、僕は24段だよ」

「勝ち誇るなよ。こっちはShimanoのTiagraだぞ。そっちは……ディレーラーがAltusでシフターがSRAMのX4かよ。比較しづらいな」

「えっと、どういうこと?」

 あまり専門的な知識を持たない空は、首をかしげる。まあ、実をいうと茜もオフロード向けのコンポについては大した知識もないし、スラムに至ってはほとんど見たことがないので

「どうでもいいことだったな。さあ、行こう」

 と、ボロが出る前に話を打ち切る。




 空の言っていた自転車店まで、そう時間はかからなかった。茜は自転車を降りると、物干し竿のような棒にサドルを引っ掛けて自転車を置く。どうやらスポーツ車用のスタンドのようだ。空も真似をして隣に引っ掛ける。

 広い店内にはシティサイクルをはじめ様々な自転車が置かれ、壁には改造用の部品などが陳列されている。いかにも専門店らしい姿の店の中には、ちらほらと客、そしてそれ以上の人数のスタッフがいた。

「さて、ライトだったな。まあ、空の自転車ならこの辺からこの辺までか」

 と、茜は売り場の棚を適当に仕切るように手を振った。

「いろいろなものがあるね」

「ああ、安いのだと1000円くらいから、高いのでもせいぜい6000円くらいか。基本的に見るのは、値段と、それから電源、明るさ、そして偏光だ」

 ほかに耐久性という面もあるが、これについてはメーカーも表示していないことが多いので、使ってみないとわからない。実際に茜も、せっかく買ったライトのブラケット接続部が1週間で破損したり、乾電池を押さえる蓋が外れやすくなったりと、いままで散々な目にあっている。

「えっと――」

「あー、そんな困った顔すんな。ましてメモを取ろうとすんな。ひとつづつ教えてやるから」

 まずは……と、茜は売り場から、大きなライトと小さなライトを持ってくる。

「この二つのライトの違いが何だか分かるか?」

「えっと、大きさ」

「当たりだけどよ。もう少し違うところに注目してほしいんだ」

「えっと、もしかして、大きいほうが明るい?」

「そんなこともないな。どっちもせいぜい800カンデラだとさ」

「じゃあ、えっと――」

「答えは、電源だ」

 小さいほうのライトを見せた茜は、続いてスカートの中に手を入れると、スマートフォンを取り出した。空のいた角度からはよく見えなかったので、どこにスマホを収納していたのかは謎である。

「こっちの小さなライトは、スマホと同じようにマイクロUSBから充電することができる。つまり、乾電池を一切必要としない」

「へぇ。それは便利だね」

「ああ。それに小さいぶん重量も軽い。自転車の重量が気になる人にもお勧めだ」

「僕は気にしたほうがいいのかな?」

「そこは好みによるだろう。まあ、アタイは少し気にするけどな。レーサー希望だし」

 ちなみに、マイクロUSBで充電する場合、自転車からライトを取り外して充電器につなぐ必要がある。その手間を考えると……

「こっちの乾電池式は、仮に旅先で電池切れしても、スペアの乾電池を持っていれば問題ない。仮にスペアを持っていなくても、近くのコンビニで調達することができるわけだ。アタイはこっちのほうが好みだな」

 と、大きなライトのほうを説明する。ちなみに茜は今回、同じくらいの明るさのモデルを取ったが、実際にはUSBより乾電池式が明るい傾向にある。

 続いて、大きなライトを二つ、茜は手に取った。

「あとは偏光。周囲を明るく照らすワイド偏光ライトと、一点だけに光を集中するスポットライトがある。傾向としてはスポットライトのほうがカンデラ数が上……つまり明るいと書かれているが、ワイド偏光のほうが人と状況によっては明るく感じることがよくある」

「えっと、つまりどっちが明るいの?」

「うーん……メーカーも具体的な話はしていないから、アタイの主観で話をするけどな。夕方に走ったり、街灯や車通りの多い道を走るときはスポットライトの方がいいかもしれない。周囲が明るいっていうことは、それだけ相対的に自転車のライトが暗く見えるってことだからな。ここで物を言うのが焦点中心のカンデラ数だ」

「逆に、僕が今走ってきた街灯の少ない道なら、ワイド偏光ってこと?」

 と、空は言うが、実際のところ難しい。たとえばこれが山道や田んぼ道などの、一切の街灯がないと言えるほどならワイド偏光をお勧めしたかもしれないが、

「空の帰り道は、言うほど暗くないからな。それなりに街灯もあるし、車通りもまあ、ある。深夜になれば事情は変わるかもしれないが、下校時の心配だけならどっちでもいい気がするぞ」

「うーん。そう言われると、迷うね……」

 空が迷っていると、茜は別な見解も出した。

「スピードを求める飛ばし屋はスポットライトを好む。コーナリング性能を求めたり、のんびり走りたい奴はワイド偏光を好む。空はどっちだ?」

「あ、それなら僕は、のんびり走りたい。この自転車に乗ったばかりのころは55km/hとか出しちゃったけど、怖かったから……」

「そうだな。それがいい」

 茜は苦笑いしながら答えた。

「ちなみに、この店に来る途中も、のんびり走っていたのか?」

「うん。あ、もっと飛ばした方がよかった?」

「いや、アタイはいいけどさ」

 クロスバイクで25km/hは果たしてのんびりと言えるだろうか?出す気になればママチャリでも出せるが、逆に言えば飛ばす気なしに出るものでもない。

(実際、アタイにとっては走りやすい速さだった。MTB歴5年のアタイが『走りやすい』と感じる速度を、つい先月までママチャリ乗っていたやつが……しかもあのケイデンスで……?)

 疑問が残るところだが、もし虚勢でないならば……

(ん……何だろう?このモヤモヤした感じは)

 茜の中に、あまり感じたことのない感情が沸き立つ。怒りとも違う、しかし呆れでもない、奇妙な感情。

「ところで、これって単三乾電池4本で12時間持続って書いてあるよね?」

「ああ、そうだな」

「こっちは同じ見た目で24時間って書いてあるんだけど……」

「ああ、その分カンデラ数も半分だろう。12時間の方は1200カンデラ。24時間の方は600カンデラだ」

「時間が倍になると、明るさも半分になるって事?」

「同じメーカーの同じシリーズだと、そういうこともある。まあ、時間なんて目安に過ぎないし、使用する乾電池のメーカーや、外の気温にも左右されることだけどな」

 そういえば、バッテリーの駆動時間も重要なファクターだったことを、茜は今更思い出した。それを空に言うのは癪だし、わざわざ自分の失敗を暴露して謝罪する意味もないのだが……

「最初に言うべきだったな。すまない。言い忘れていた」

「え?あ、別に、そんな……」

 茜は自分の騎士道精神に則って謝罪した。困ったのは空の方である。なにしろ、どうして茜が頭を下げているのかさえ分かっていない。

「まあ、時間は大切だな。こっちのライトは、一台で明るさが切り替えられる。2200カンデラで6時間のHiモード。1100カンデラで12時間のLowモード。明るさが欲しい時とバッテリーが惜しい時の使い分けができるってわけだな」

「こっちは点灯モードで24時間。点滅モードで48時間って書いてあるけど?」

「ああ、点滅モードは前照灯としては使えないぞ。ただ自分の位置をアピールするときに使う補助灯なんだ。まあ、そこまでして自転車の位置をアピールする必要もないと思うけどな」

「何が違うの?」

「前照灯は、ライダーが周囲を見るために使う。点滅灯は周囲がライダーを見るときに使う。たまにその辺を解っていないライダーが、前方に点滅灯だけをつけて走っていることもあるが、迷惑極まりないな」

 ちなみに、白色灯は前方に、赤色灯は後方につけることで自転車の方向を示すこともできる。一部の完組クロスバイクの、ハンドルに白い反射板が、シートポストに赤い反射板がついているのはそのためである。

「アタイは先月、赤色点滅灯を前方につけて走っているMTBに乗ったクソジジイに会ったぜ。しかも歩道のない道で右側路側帯を走ってやがった。アタイと正面衝突する気かってぇの」

「僕も気を付けよう」

「その方がいい。道路交通法なんてのはアタイらが守ってても、相手が守ってなければ意味がないからな」

 茜の表情が険しくなる。

「そもそも日本の自転車に関する法律は、昭和から50年もほったらかしにされたかと思ったら、21世紀に入った途端にでたらめな法改正が行われる突貫工事っぷりなんだ。役に立たない国と役所と法と秩序(笑)だぜ」

 話しているうちに、いろんなことを思い出してイライラしてきた。元が短気な性格の上に、根に持つタイプ。自覚はあるし、そんな自分が嫌いだが、変えようと思って変わるものでもない。

「そもそも警察もアホなんだ。『自転車の無灯火運転は禁止する』と言っておきながら、ライトの種類やライトをつける意味については教えない。だから民衆も『ライトがついているなら何でもいい』みたいな考えで前方に点滅灯つけ始めたりするんだろう。意味を知らないまま形式だけを重視するのは、意味がないのと同じだ」

 茜は道路交通法そのものを否定する左翼的な思想を語り、しかし空は茜の言葉を

「そうだね。ひとりひとりが注意して、勉強して、思いやりをもって走れば事故は起こらないんだもんね」

 と、小学校の道徳の授業のような、あるいは事故処理にやってきた警察官のマニュアル対応のような解釈に置き換えた。

「お、おう。そうだな」

 一気に毒気を抜かれた茜だったが、安全に対する心構えについては伝わったと判断して良しとする。実際、茜だって国家の転覆を望んでいるわけじゃない。誰もが安心して道路を通行できる世界を夢見ているだけだ。

「やっぱり、茜はすごいね。自転車に詳しいだけじゃなくて、法律にも詳しいんだもん」

「そ、そうか?」

 このくらい、仮に自転車に免許があったら教習所初日で習うくらいの話だと思うが、空が素直に感心しているようなので言いづらい。

(せめてアタイだけでも、多くの人に安全なルールと正しい考えを伝えていこう。警察や国がそれをしないなら、アタイがやってやろう。日本を救うことはできないけど、友達を救うことにはつながるかもしれない)

 変な正義感を掻き立てられ、また、ナチュラルに空を友達扱いしてしまったことに少し恥ずかしさを覚えながら、

「後ろは赤色反射板か、赤色灯のどちらかがついていれば法律的には問題ないからな。こちらも点滅灯単品での使用は認められていないから、仮に点滅灯をつけるなら反射板などと組み合わせて使うことになる。法律的には反射板があればいいことになっているが、アタイは赤色灯も併用をお勧めするぜ。反射板だけだと見落とすクソドライバーも多いからな。免許教習所は何をしているんだろうな」

 大いに主観の混じった解説を続ける。空はそれを素直に聞いていた。




 結果として……




「すまねぇ。こんな時間まで付き合わせちまった」

「え?ううん。付き合ってもらったのは僕だから」

 買い物を終えて、自転車への取り付けを行ってもらった頃には、もうすっかり暗くなっていた。店もそろそろ閉店の時間らしく、店内からは『蛍の光』が流れている。

「やっぱ、アタイが悪かったよ。つい熱くなっちまって」

「いや、面白い話がいっぱい聞けて良かったよ。それに、茜とはずっとクラスが一緒だったけど、こんなにたくさん話したことないから、今日は嬉しかった」

「……」

 上目遣いでキラキラした視線を送る空を見て、茜は目を背けた。

「さあ、帰ろうぜ」

 茜が自分のシクロクロスをスタンドから外す。

「空の家、近いんだろう。もう暗いし、送って行ってやるよ」

「え?いや、大丈夫だよ。っていうか、逆じゃないの?」

「はぁ?それはアタイをお前が送るって意味かよ」

「え?うん……あれ?こういうときって、男子が女子を送るものじゃないの?」

「……お前、自分が男だって自覚があったんだな」

 どっちが女だか判らない見た目のくせに……と言いそうになった茜は、それがブーメランであることに気づいてやめた。

「まあ、いいから今日はアタイに送らせろよ。っていうか、アタイの家はここから遠いんだぞ。学校より向こうだし」

「え?じゃあ、こっちは帰り道と逆方向だったの?言ってくれればよかったのに……」

「気にすんなよ。いいから行くぞ。考えようによっては、買ったばかりのライトを試運転するのに絶好の時間帯かもしれない」

 たしかに、暗くならないとライトは効果を見せないし、この時間なら車通りも多く、実際にどんな感じで走れるのかを確かめるには好機だ。

「じゃあ、早速点灯してみるね」

 予算の問題で比較的安物に落ち着いた、CATEYE HL-EL140/bの電源を入れる。一点灯の白色LEDに単三乾電池2本の電源からは、想像もつかない明るさが前方に広がった。

「あ、意外と明るい」

「おお、スポットライトのくせに、結構ワイドにカバーするじゃねぇか。しかも400カンデラとは思えない力強さだ」

 これには茜も驚く、このメーカーの商品はしばらく使っていなかったが、思った以上に進化しているらしい。

「よかったな。それだけ明るいなら、どこを走ってもそんなに苦労はしないと思うぞ」

「うん。茜、ありがと……」

 お礼を言いかけた空は、茜の自転車につけられたライトの明るさを見て絶句する。

「な、なにそれ?」

「ああ、さっき紹介しただろう?GENTOSのAX-MG002ってライトだ。ワイド偏光で単三乾電池3本使用。明るさは2200カンデラだ」

 茜が搭載していたライトは、空が買ったライトよりずっと明るかった。もっとも、値段も倍以上の品物で、空が予算的に購入をあきらめたモデルだ。

「まあ、アタイん家までは田んぼや山ばっかだし、獣道みたいな部分もあるからな。このくらいじゃないと走れないんだよ。ちなみに空のクロスバイクだと、路面の都合で走れない道だからな」

 茜はそう解説しながら、片手でスカートのホックを外す。地面にすとんと落としたスカートを足で蹴り上げると、それを平然とスクールバッグに詰め込んだ。しわになるのもお構いなしの手つきだ。

「わわっ、茜。ここ、外だよ」

「ん?ああ、そうだけど?」

「そうだけどじゃなくて……その、スカート」

「ああ、途中で脱ぐって言ったじゃないか。そもそも中にレーパン穿いてるし」

 茜は何が問題なのかと不思議がっていたが、実際のところ軽く問題ではある。知らない人が見たらレーパンかスパッツか判りづらいし、穿いていたスカートを脱ぐ行為自体が余計に、あらぬ誤解を招いている。

 事実、そのあらぬ誤解をした通行人が遠巻きに足を止めていた。

「茜って、結構ズレてるよね」

「え?お前に言われるの?」

 結局、この日はどちらがどちらを送るということもなく、店の前で解散した。

 空は新しいライトを試せてご満悦だったが、家に帰ってから両親に叱られたことも申し添えておく。門限破りはいけない。

 一方、茜はというと、



「ただいまー」

 空と別れた後もしばらく自転車を乗り回し、寄り道に寄り道を重ねて帰宅したのは21時を回ったころだった。

「おう、お帰り。茜」

 茜を出迎えたのは、大学生の兄であった。茜とよく似た顔立ちに、しかし茜のような険しい表情ではなく、穏やかな笑みをたたえてリビングから出てくる。

「遅かったじゃないか。また自転車か?」

「なんだよ。心配するような柄でもないだろう?兄貴」

「そりゃあそうだが、そろそろ母さんもパートから帰ってくるぞ。その時にお前がいなかったら……」

「もう寝た。とか言って適当にいることにしてくれよ。そんでアタイに連絡頂戴。鉢合わせないようにしておくから」

 そっけなく言って、茜はシクロクロスを玄関の中にある縦置きハンガーにかけた。もともと広くない玄関の半分ほどを、シクロクロス一台で占拠する。

「おやすみ。クロスファイア」

 愛車の名前をささやいて、ハンドルにキスをする……という一連の(家族に自転車に対する愛をアピールするための)パフォーマンスを終えた茜は、ついで学校指定のローファーを脱いで、リビングへ直行する。

 カバンをカーペットの上に無造作に投げると、着替えることもせずにソファに身を預ける。結っていた髪を解くと、使い捨ての髪留めをゴミ箱(の近く)に放り投げ、靴下を足だけで器用に脱ぎ捨てる。

 セーラーブラウスとレーシングパンツという奇妙な格好でくつろぎ始めた茜は、

「兄貴ぃ。晩御飯なぁに?」

 と、声まで弛緩させてしまった。だらしないことこの上ない。

「逆に訊こう。何がいい?」

 この光景を見慣れている兄は、たいして気にした様子もなく、台所からレトルト食品を十数個も持ってくる。

 牛丼、親子丼、中華丼などの丼ものから、カレーやハヤシライス、そしてナポリタンやカルボナーラ。より取り見取りなパッケージの中から、茜は数秒で決断する。

「カレーライスとスパゲティ・ミートソース」

「あいよ」

 まるでそれが当たり前であるかのように、兄は電気ポットからお湯を抜いて、鍋でパウチを温め始める。それからスパゲティを電子レンジ調理用の容器に入れて、慣れた手つきでタイマーをかける。

 間もなくして、

「ほらよ。カレーライス一丁。スパゲティは待っててくれ。もうすぐ茹で上がるから」

「ん」

 丁寧に運ばれてきたカレーに満足げな茜は、氷水の入ったコップに突き立っているスプーンを取ると、特に何を言うでもなく食べ始める。そして食事中も特に何を言うでもなく食べ進める。

「そういえば、茜。お前宛に郵便が来てたぞ。いつもの自転車屋から」

「ん?何だよ?」

「なんでも、イベントのご案内だとさ。俺も詳しくは知らないから、あとはお前が確認してくれ」

 自転車については素人と自負している兄は、この手の話に過剰に干渉しない。自転車でスピードを出す行為にしたって、茜が安全だと言い張るなら安全なのだろうと、何の根拠もなく信じている。

 その兄の手によって、カレーの横に封筒が置かれた。食事を中断した茜が封筒を手に取ると、同じタイミングで兄がハサミを持ってくる。

「ほれ」

「うん」

 ハサミを使って封筒を開封すると、そこには聞きなれない法人団体が主催する、開催予定も未定なイベントが書いてあった。



『集え、自転車乗りたちよ!日本を走破せよ!

 チャリンコマンズ・チャンピオンシップ。来年3月開催(予定)


 ありとあらゆる自転車を用いて、日本を縦断する超長距離レース。全世界が注目する、まだ誰も見たことのないレースをあなたも体感しよう』



 以降、詳細は書かれないまま、大げさなコピーだけが踊っている。どうやらショップの(整備時の工賃が割引される)会員たちに郵送されたものらしい。

(ふむ……えっと……何だこれ?)

 これには茜も首をかしげるしかない。読んでみるとロードレースのイベントというわけでもないらしく、しかしレースだという。

「あいよ。ミートソース一丁」

 レストランでバイトしていた過去がある兄は、やはり手慣れた様子でミートソースを持ってくる。

「そのイベント、出るのか?」

 兄がそう訊いた。

「アタイが?……さぁて、どうだろうね。日本縦断レースって書いてあるし、長丁場になるなら難しいんじゃないか?」

「親が許さないって事か?」

「……」

 茜が黙ると、兄はインスタントコーヒーを自分のカップに淹れて、部屋を出ようとする。扉に手をかけた後、

「俺はお前の味方だ。母さんを説得するなら手伝うし、気づかれないようにしたいなら適当にごまかしてやる」

 振り返らずに言って、そのまま扉を閉めた。階段を上る音がする。きっと自分の部屋に戻ったのだろう。

「……ありがとう。兄貴」

 茜が小声で、誰にも聞かれないように言う。面と向かって言うことは全くないが、普段から感謝している。

 今日も茜の夕食を用意するためだけに、リビングで待ってくれていたのだろう。仮に帰ってこないときは、両親にごまかしながら、秘密裏に探してくれたのだろう。

 いつも助けてくれる。そんな兄に感謝しつつ、再び左手にイベントのチラシを持った茜は、

(しかし、これは本当に……なんなんだろうな?何度読み返しても分からない)

 首をかしげながら、右手に持ったフォークで器用にスパゲティを巻き取っていた。



 さて、ここまでの内容は、ほんの序章に過ぎず。あえて言うならもう少し序章は続く。

 これからが本当の意味での、物語の始まりだった。

 それに空たちが気付くのは、ここからもう三か月ほどが経過したころの話である。

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