第25話 反逆者とペニー・ファージング

『おはようございます。チャリチャン7日目の朝ですねぇ。あいにくの天気と、一週間という区切りの良さからか、今日は走らないと宣言する選手も多くいます。

 で、す、が、たった一人でも走り続ける人がいる限り、私は実況を続けますよぉ。たとえ一人も走らなくなっても、ハイライトと選手紹介で繋ぐから安心してください。ガチでネタ切れしたら、私のオナニー実況に切り替えますねぇ』


 1月だというのに、この日は雨が降っていた。雪ではないあたり、気温は高いという事なのだろう。しかし体感温度は低い。

 濡れた身体は、自転車の空気抵抗による風で冷やされる。空は昨日せっかく洗濯したばかりの服を濡らすことを、残念に思いながらも走っていた。

「っていうか、茜は寒くないの?」

「クソ寒い」

 珍しく寒いという回答が返ってくる。いつもの茜なら、走ってれば温まるとか言い出しそうなところだった。という事は、よほど寒いのだろう。

 ジャージが半袖なのも問題だが、それ以上に通気性のいい素材なのが問題だろう。夏用ジャージはあくまで夏用である。まして濡れながら走ることは前提にしていない。

「路面から水が跳ね上がるのも嫌だよね」

「ああ、こういうときだけはフェンダーが欲しいよな。まあ、持ってても付けられないけどさ」

 タイヤが跳ね上げる泥水が、自分に降りかかってくる。おかげで足元と背中、場合によっては頭まで泥だらけだ。しかも空のエスケープはともかく、茜のクロスファイアに至ってはジオメトリの都合上フェンダーをつけにくい。


 後ろから、自転車が迫る音がする。


 ばしゃああっ


 水しぶきが、茜と空を襲う。さっき後ろから来た自転車が、すれ違いざまに水を跳ね上げていったのだ。

「うわっ、酷いな……」

 茜がずぶ濡れになりながら呟く。

「……」

 空は、その相手の自転車を見た。そして、あまりの奇妙さに言葉を失う。

「ねぇ、茜。あれ……」

 やっと振り絞った言葉に、茜も相手の車体を確認する。

 茜も、その車体を実際に見ることは初めてだった。もちろん、歴史的には知っているし、写真も見たことがあるのだが……

 まさか、21世紀に現存しているなんて、茜も思ってなかった。

「オーディナリー型」

「ダルマ自転車」

 二人は、その自転車の名前を口にした。どちらも正解である。


 それは、今から100年以上も前――19世紀末に流行った自転車の形態だ。

 まだチェーンが開発されていなかったころ、自転車は前輪のハブにペダルを直結していた。ホイール中心から直接クランクが生えている感じだ。幼児向けの三輪車のような前輪と言えばわかりやすいかもしれない。

 その状態では、クランクの一回転がホイールの一回転と同じになる。現代で言えば、フロントのギアをリアと同じ歯数にするようなものだ。ペダリングは軽くなるかもしれないが、いくらケイデンスを上げても進まない。

 ならばホイールの直径を長くすることで、速度を上げることは出来ないか?その考え方で作られたのが、この自転車だ。

 大きなホイールの円周は、そのまま一回転で進む距離となる。

 冗談のように大きなサイズの前輪と、対して小さすぎる後輪を持つ自転車。歴史の教科書にすら出てきても不思議じゃない車体だろう。

 その見た目から、日本では「ダルマ自転車」と呼ばれる。そして日本に自転車が伝わった時に、「一般的オーディナリー自転車」という呼び名も与えられた。


吾輩わがはいとしては、ペニー・ファージングと呼んで頂きたいがね?」

 頭上から、声が降ってくる。深くて渋い低音の声。その自転車に乗っている男は、自らのダルマ自転車をペニー・ファージングと呼ぶ。

「ペニー……」

「ファージング?」

 空と茜が首をかしげるのを、男は笑った。

「はっはっは。そうとも。英国の通貨として使われていたコインのサイズに由来する。海外では、その呼び方の方が一般的だよ」

「……そうなのか」

 茜は上ハンを持って、ペニー・ファージングの男を見上げた。ドロップハンドルで上を向くのは出来なくもないが、体勢としては辛い。首が痛くなる。

 相手は、意外に若い男だった。この雨の中で濡れることを気にせず、スーツにトレンチコートという服装で走っている。靴こそビンディングを使っているが、それ以外はクラシックスタイルと言われる着こなしだ。

「吾輩は、ミハエル・フォン・アイゼンリッター。もちろん本名ではないがね。君たちは?」

「空です。えっと、よろしく」

「茜だ」

 その名前は、ミハエルも聞いたことがあった。多方面に局所的な勝負を挑んでいる中学生がいると。

「ふむ……なるほどな。ここで出会ったのも何かの縁。ミスター空。ミス茜。よろしければ吾輩と手合わせを願えないだろうか?」

「え?手合わせって、競争ですか?」

 空の問いに、ミハエルは渋い声で答える。

「うむ。それ以外に何があろうか?自転車乗りが出会ったら、やることは一つ。存分に競い合おうぞ」

 その声は楽しそうであったが、同時に怖くもあった。少なくとも空はそう感じる。

「勝負って……」

「アタイらと……このペニー・ファージングが?」

 この雨の中である。滑ったら最後、思いっきり落車しかねない。しかも見通しが悪い。さらに言えば、ゴーグルも持っていないので、目に雨粒が入るとキツい。

 そういった理由で、空としては気が進まなかった。

 理由は違えど、茜も気が進まない。

 今まではスポーツバイクを相手取っていたので楽しめたが、今回は違う。相手はレース用の車体でもなければ、現代の技術が使われた車体でもないのだ。骨董品を相手に弱い者いじめ――傍から見ればそうなる。

「ふむ。受けてはくれないようだね?吾輩に恐れをなした、という事でいいかな?」

「いいわけないだろ。ただ勝負にならないのが目に見えているだけだ」


 茜が答える。すると、ミハエルは近くにあった水たまりを踏んだ。茜に泥水がかかる。

「いや、吾輩もこのような事をするのは気が引けるのだが……これで、やる気を起こしてはくれまいかね?」

 故意であることを悪びれもしない。そんな勝手なミハエルに、茜も少し腹が立った。

「ああ――そっか。そんなにアタイとやりたいか?いいぜ。お望みどおりに勝負してやんよ」

「そう来なくては、な」

 ミハエルがにやりと笑う。こうなると、空も参戦するのが流れになって来た。どうせなら雨の中で無茶はしたくないと思いながらも、茜についていくしかない。

「で、どんな勝負にするんだ?ここで車高の高さ対決とか言い出すなら蹴り飛ばすぞ」

「はっはっは。スピード勝負だよ」

 ミハエルが自転車を降りる。茜もそれに従って降りた。空はオーバーランして戻ってくる。わざわざ戻ってくるあたり、付き合いがいい。

 スマートフォンを取り出したミハエルは、ミスり速報への凸電を行う。

「スマホ持ってんだな……」

「さすがに吾輩も、こう見えて現代人だからね」

 茜の言葉に、ミハエルは軽く答える。走行しているうちに、ミス・リードとの電話がつながった。


『はいはーい。呼ばれて飛び出てどぴゅぴゅぴゅーん。ミス・リードですぅ。

 おやぁ、ミハエルさんから電凸なんて珍しいですねぇ。どうしましたぁ……って、空さんと茜さんも一緒にいるんですかぁ?わぁ、びっくりですぅ。ちょっと選手紹介のコーナーをやっていたので気付きませんでしたぁ。

 ということは……勝負ですかぁ?それとも雨宿りですかぁ?いずれにしても、私のリードが必要ですねぇ。名前はミス・リードですけど、頑張りますよぉ』


「話が早くて助かる。競争の方だ」

 雨にもかかわらずテンションの高いミス・リードに、ミハエルも少したじろぐ。

「ここから彼らと競争したい。そうだな……どのくらい先をゴールにしようか?あまり短距離でもつまらないだろう?空君」

 急にミハエルに話を振られて、空は迷う。

「え?えっと……」

「100kmだ」

 茜が空の代わりに答える。正直に言えばかなりの長距離だ。ロードバイクならともかく、並の車体に吹っ掛ける距離じゃない。だというのに、ミハエルは頷いた。

「ミス・リード。この先100km程度で、何か目標物になるところは?」

『そうですねぇ……何もないところなんですよぉ。ああ、逆に何もなくて良いかもしれないですねぇ。三車線の道路が交わる交差点がありますぅ。歩道橋のある豪華な信号機なんですけどねぇ。その歩道橋がゴールでどうでしょう?』

 日本列島全体で見れば、何かがあるところの方が珍しいのかもしれない。ましてチャリチャンのコースは観光コースではない。むしろそういったところを避けて閉鎖されたコースだ。

「ふむ……つまり、その交差点までの間に、歩道橋は一切ないのだね?」

『はい。見間違うこともないと思います。で、あからさまに何もない状況から、急に人里に入りますので、分かりやすいゴールだと思いますよぉ』

 ミス・リードの言う事に、3人が全員で頷く。全員承諾だ。

「スタート合図はどうする?」

『それなら、このミス・リードにお任せですよぉ』

 そうして、3人は適当に道の端に並んだ。



『それでは、イキますよぉー。レディー……』

 ミス・リードの声に、茜は右足のビンディングをはめる。空も自転車に跨ってスタンバイ。そして……

「ほっ――」

 ミハエルが、フレームの横に付けられたステップに左足をかける。

 規格外な大きさのホイールのせいで、一息にペダルに足をのせることも、サドルに腰を掛けることもできないのだ。それを考慮して、フレーム左側に足をかけるための棒が付いている。

(スタートダッシュで勝負が決まりそうだな)

 と、茜は思ってしまった。

『ゴー!』

 ミス・リードの声に、3人が反応する。最初に飛び出たのは空。フラットペダルの利点を生かして、細かいことを考えずに漕ぎ出せる。続いて茜。ビンディングペダルのはめ込みで一瞬遅れて、すぐに空に並ぶ。

 そして、最後にミハエル。


 とん、とん、とん――


 三回ほど右足で地面を蹴って、勢いをつける。倒れかけた自転車に飛び乗ると、サドルに体重をかけて姿勢を制御。それからゆっくりとペダルに足をかける。たしかに、スタートで出遅れる車体ではあるようだ。

 腕をだらんと下ろして、腰ほどの高さにあるハンドルを掴む。徐々に加速する車体に合わせて、ケイデンスも上がる。そして……

 ミハエルは、変速ギアを上げた。


『さて、面白そうな戦いが始まったので、私もそちらの実況に移りますよぉ。

 早速、選手を紹介しましょう。まずはエントリーナンバー360 ミハエル・フォン・アイゼンリッター選手。彼の愛機は、QU-AX G-bikeジーバイク 36というペニー・ファージングですぅ。なんと、発売元であるQU-AXは、ドイツにある一輪車のメーカーですよぉ。

 たしかに、この車体のフレーム構造って、現代の自転車よりは一輪車寄りなんですよねぇ。同社のレース用一輪車に、後輪とハンドルを取り付けた車体なんですぅ。

 最大の特徴はやはり、36×2.25inのタイヤですねぇ。このサイズ、日本では耳馴染みがないかもしれませんが、海外では身長2メートル以上の巨漢向けの自転車等に使われています。あとは……京都とかで走っている人力車にもついていますねぇ。

 まあ、元々はレトロな楽しみを持った車体なわけですが……ミハエルさんのG-bikeは一味違います。

 前輪ハブに組み込まれているのは、なんとShimano alfineの11速。一部のシティサイクルや、コンセプトMTBに搭載される最新の変速ギアですよぉ。19世紀の見た目に、21世紀のテクノロジーを詰め込んだ車体ですぅ。

 対するのは、エントリーナンバー435 諫早・茜選手。同じく451 ソラ選手。こちらはお馴染みの……』


 ミス・リードの紹介が続く中、レースは変化のないまま進んでいた。

(ミハエルさんが、ついてきてる?)

(つーか、気を抜いたら抜かれるんじゃないか?)

 空と茜は、後ろを気にしながら走る。そこから4馬身ほど離れて追走するミハエルは、その差を縮めてもいない。開かせてもいない。

 茜のサイコンに表示されているのは、28km/hの文字……これが本当だとすれば、ミハエルはロードバイク並みの速度で巡行していることになる。

「ふはははっ、意外だったかな?吾輩がここまで速度を出すことが」

 余裕の表情で、茜たちに語り掛けるミハエル。その声に息切れの様子はない。つまり、この速度を余裕で出しているのだ。アタックではなく、あくまで巡航速度として。

「そういえば、君たちには二つ名があるらしいね。ネット上でファンに付けられた名は、噂の中学生コンビ――だったかな?」

 自信たっぷりに、その噂を喰らってやると言わんばかりに、ミハエルは語る。空たちはそれを黙って聞いていた。

「吾輩もあだ名を持っているのだよ。人呼んで、ロードキラー。ナンセンスな事だと思わぬかね?何しろ、この車体がロードバイクを殺すのは、ごく自然な事なのだからね」

 ロードバイクより速くて当然。そんな持論を、ミハエルは展開する。


 雨は強くなり、アスファルトにバチバチと跳ね返る。地面は濡れていると表現すべきか、それとも沈んでいるというべきか……

 雨粒で見通しが悪くなり、濡れた服は体温を容赦なく奪う。コンディションとしては最悪な中を、それでも30km/hほどで走行する3台の自転車。

(おかしいな……いつもよりペダルが重い)

 空がそう思うのも無理はない。路面温度の低下により、タイヤの気圧が下がる。濡れた影響でチェーンルブも落ちる。各部の摩擦係数が上昇。。

 何より、自転車の最大の敵は空力抵抗だ。車体が空気にぶつかることで押し戻される。その空気に雨粒が混ざるのだ。空たちは今、雨粒に衝突しながら走っている。水の抵抗を受けている。

 雨の中で自転車を走らせるというのは、思っているより大変なのだ。

 それを誰よりも知っている茜は、にやりと笑った。

(まあ、空が知らなくても無理は無いよな。なにしろ雨が降ったら自転車に乗らない連中には、知る由もないことだ)

 晴れた日にしか自転車に乗れないママチャリ乗りは言わずもがな、プロのロードレーサーさえ、この状況の走りを知らないだろう。大雨が降ったら大会中止。練習もローラー台に切り替えるような連中だ。

(アタイは違う。たとえ真冬の雨の中でも、走れる)

 ここを勝負どころと判断した茜が、ペダルを強く漕ぐ。

「悪いな、空。アタイは先に行く」

「え?ああ、うん。それじゃ、後で連絡とってね」

「合流できないままゴールしたら、な」

 この状況で必要なのは、ペダリング効率を重視した大人しい走りじゃない。時間の経過で奪われる体力なら、いっそ最初から全部くれてやる。

 平地であるにもかかわらず、まるで峠を越えるような激しいダンシング。一度でも勢いをつけたら、それを殺さないようにペダルにテンションをかけ続ける。

 頭を下げても、必要以上に上半身を下げない。空力抵抗を恐れるより、呼吸を確保する方が課題だ。上ハンドルを持ったまま、車体を大きくゆすっていく。燃焼するカロリーは体温の確保のために必須だ。温存する意味はない。


 燃やせ。燃やせ。燃やせ。

「はぁあああ!」


 雨粒を砕き、水たまりを蹴散らす。目の前にあるものは、たとえ空気でも水でも寒さでも轢き殺す。

 山奥で育った茜にとって、天気に戦いを挑むのは日常だった。

「ふむ。素晴らしい走り方だな。ミス茜?」

(なにっ――!?)

 その茜の横に、ミハエルの36inホイールが迫る。

「追いついてくるのかよ……この雨の中で」

「分かっていないようだね。スポーツ競技用の自転車なら雨に弱いかもしれないが、このG-bikeは実用的な自転車だ。それこそロンドンの大雨にも耐えられる能力を持っていると思ってくれていい」

 いったいどんな理屈なのか、ミハエルは平然と雨の中を走る。大きな前輪が跳ね上げる水しぶきが、茜の顔を直撃する。

「うゎっぷ……」

 顔に水をかけられる形になった茜は、思わず目を閉じて、補助ブレーキを握り込んだ。少し泥が目に入ったようで、開けるのが辛い。

「ああ、失礼した。今のは吾輩の不注意だ」

「いや、いいよ。自転車走らせてたら仕方ない事だろうからな」

「そうかね。本当なら、レディにこんな仕打ちをした私を、責めてくれてもいいのだがね」

 ミハエルもブレーキを使って、茜と同じく減速する。ここで引き離そうとしない辺り、意外と紳士的である。


 G-bikeは、後輪にだけブレーキをつけている。元々フリーハブを搭載しない前提の車体だったため、前輪はバックを踏むことで止まれるだろうというのが理由の一つ。もっとも、ミハエルの車体はフリーハブを後付けしているが……

 もう一つの理由は、前輪でブレーキをかけると転倒するからだ。あまりにも大きな前輪と高い重心のせいで、前のめりに勢いよく転ぶ――いわゆるピッチオーバーを起こしやすい。そのため後輪にキャリパーブレーキを搭載するのみにとどまっている。

「ブレーキ性能は悪いみたいだな?制動距離が長いぜ?」

「いや、はっはっは――それを言われると痛いな。事実、フロントブレーキがないために公道で使えない車体なのだよ。日本ではね」

 前後に必ずブレーキ装置をつけること。と定められている日本において、使えない車体は何もピストに限った話ではないようだ。

(まあ、それならアタイにも勝機はあるかな……)

 茜は速度を上げていく。この辺のアスファルトは状態が悪い。ところどころ抉れるように穴が開いている。

 普通に自動車が走っているだけなら、こうはならないはずだ。恐らく、除雪車が通った跡。ドーザーヘッドが地面に当たってしまった際に、アスファルトが剥がれたのだろう。

 そこに水がたまると状況は一変。黒く変色した道路は、凹凸が見えにくくなる。よほど接近しないと気付かない天然の落とし穴。

(アタイなら、喰らっても大したことはない)

 茜は速度を上げた。穴が見えてから、実際に踏み越えるまでは1秒未満。ブレーキの制動距離などを考えると、見えてから避けるのは難しい。

 茜はそれを、堂々と飛び越える。段差に当たる瞬間に、力いっぱいハンドルを引き上げるだけだ。いわゆるバニーホップのような跳び方は必要ない。垂直に跳ばすのではなく、水平に浮かせる。

 一瞬、ふわっとした浮遊感。そして着地した瞬間、自転車はグリップ力を取り戻す。

 この技を連続しても車体が壊れないのは、別にシクロクロスがオフロード車だからではない。ロードバイクでもできる。低く飛ぶことと、着地の際に左右にぶれないようにするのがコツだ。

 ミハエルも落とし穴に侵入する。茜と張り合うように、同じ速度で――

(悪いな、ミハエルさん。そのまま地面にキスでもしてな!)

 車高の高さから来る安定感のなさ。そして前輪の重量を考えれば、ミハエルの車体は引っかかるだろう。そう思っていた。

 しかし――

「ふむ。この程度の小さな穴なら、特に臆する理由はないだろうな」


 ガシャン!


 大きな音を立てて、ミハエルのG-bikeが段差を乗り越える。いとも簡単に、まるでMTBが小石を踏むように。


『自転車のタイヤって、大きいほど段差に強いんですよぉ。同じ高さの段差でも、20inでは乗り越えられなくて、700cならどうにかなるんですねぇ。

 もともとMTBに26inホイールが採用されたのは、当時では手に入りやすいサイズだったから、という理由があるんだそうです。別に、足つきが良くなるからとか、サスペンションのストローク幅を稼ぐためとかじゃないんですねぇ。

 だからこそ、今では27.5inや29inが主流なんですぅ。で、その最高峰がこのG-bikeですよねぇ。

 36×2.25inのタイヤは、普通のMTBと同じくらいの太さで、直径はおよそ3~4割増し。振動は痛みより気持ちよさにつながる程度じゃないでしょうかぁ?

 まあ、私は痛みや気持ちよさより、くすぐったいくらいの振動が好きですけどねぇ。

 挿れっぱなしで生活して、普段は気にならないから忘れちゃうくらい弱い振動。姿勢を変えた時に不意に当たり所が変わるのが快感。そして思わず声が出ちゃったときの、気付かれたらどうしようってスリルが気持ちいいですぅ。

 今日も挿入したまま実況しますので、よく聞いててくださいねぇ』



「……気持ちいいのか?」

「……その質問、吾輩にどう答えろというのだね。ミス茜」

 気持ちいいかどうかはさておき、どうやら段差には強いらしい。かなり深めの穴が開いている道路を、一切落ちることなく走っていく。車輪が前後に長い分、小さな穴なら越えられるのだ。

(そういえば、ニーダもリアサス無しで線路を飛び越えてたな。あれは29inだったか……)

 しかも、ミハエルの車体は全重量が13kgしかない。これは体積の大半を前輪が占める都合、フレーム自体が小型化したためだ。

 通常の自転車はチェーンがあり、それを支えるだけのフレーム設計を必要とする。必然、ダイヤモンドフレームと呼ばれる四角形の形状になる。ヘッド、シート、クランク、後輪をそれぞれ四角形で結ぶフレームは、意外と大きい。

 それに対して、ペニー・ファージングはシンプル。ヘッドと後輪を結べばいいだけだから、軽い。たとえハイテンスチールを使ったG-bikeでも軽い。それだけの小ささを持っている。

(この軽量さ加減と、大きなタイヤによる走破性。それこそがペニー・ファージングの速度の秘密だ。雨の中で走れるのも道理だろう?)

 道路が冠水している場合、その水を推し進める力が求められる。タイヤが小さければ、路面にたまった水を前に押すイメージになる。タイヤが大きければ、たまった水を上から踏みつけるイメージになる。比較的、というだけの話だが、その差は大きい。

 そういう意味では茜のクロスファイアより、ミハエルのG-bikeの方が有利。雨でも走れるカラクリはそこにあった。



 引き離せない。しかし追い抜かれても、引き離されない。攻防一体の戦いが行われる中、レースは大きく局面を変える。コーナーの多い細い路地だ。

 雨の中、コーナリングでのライン取りは生命線だ。ただ減速すればいいという単純な話ではない。基本となるアウト・イン・アウトを踏まえるのはもちろん、マンホールやグレーチングを踏まないのも重要だ。

 金属は濡れると滑る。たとえタイヤの溝が深くても、結局滑ることが多い。

 そんな中、理想のペースとラインを取る権限を持っているのは、前を走る茜だ。コーナーに設置されたマンホールと、コーナー出てすぐのグレーチングをすぐに見極める。

(自治体は何を考えて、こんなトラップめいた道路を作ってんだろうな……)

 レースじゃなくても、雨の日に自転車に乗る人はいるだろう。それを想定しているなら、まずありえない設計だ。つまり、そこまで計算していない甘さが見える。

(まあ、お互い転ばないようにしようぜ。ミハエルさん?)

 必然、内側に切り込むようなコーナリングが求められる。アウトコースを使えない場合、ブレーキによる減速は必須だ。

 ブレーキ性能で有利なのは、茜のクロスファイア。瞬時にギアを切り替えながら減速。ブレーキレバーを握りながら、リーンウィズで曲がる。


 キキキイィィィィィ


 茜の後輪ブレーキから、異常な音が出る。これは……

(しまった。ブレーキに水が入ったか!)

 ディスクブレーキの弱点。ディスク自体が濡れたり、油膜が張ったりすると効果が落ちる。その変化は他のブレーキと比べて顕著だ。たとえ機械式でも、仮に油圧であっても同じである。

 ブレーキディスクについた水滴は、遠心力で飛ばされるはずだ。なら恐らく、ディスクについたのは水滴ではなく油膜。もしくはディスクではなくパッドに水滴がついた可能性もあるが……

 いずれにしても、思った以上に膨らんでしまうことになる。

「くっそがぁああ!」

 さらに自転車を倒して、リーンアウトに切り替える。後輪が横滑りする中、まるでドリフトのようにコーナーを抜けた。

 後輪が滑る中、前輪にすべての摩擦を集中させる。そのまま進行したい方向へ、ハンドルの向きを維持するのだ。たったそれだけでも、後輪は前輪に引き寄せられていく。速度があるとき限定の方法だ。

(二度はねぇな。今のは運が良かった)

 息を切らして、体勢を立て直す。その加速が遅れた間に、ミハエルが茜を抜いた。

「ふむ。今のは素晴らしいコーナリングだったね。ミス茜。後ろで見ていて驚いたよ。スリリングだった」

「うるせぇ!まぐれだ。あんなの……」

 次のコーナーが迫る。ミハエルは、恐れることなくノーブレーキで突っ込んでいく。

 そして、


「ほぉっ!」


 普通に曲がった。そう。普通に、である。

 通常なら、これだけの速度を出したまま曲がる場合、何らかのテクニックを使うしかない。体重移動とハンドル操作だけでは、限界がある。

(しかし、吾輩のG-bikeなら話は別だ)

 高い重心は、少し車体を傾けただけでも大きく動く。同じ角度でも、そこに発生する重心の違いは大きいのだ。

 半面、ハンドルは動かない。これはペダルと前輪が直結しているからだ。本体から前輪を動かすというより、本体である前輪からフレームを動かすような感覚。ハンドルと一緒に身体を捻るようにして、サドルを曲げる。

 ただそれだけで、急角度のコーナーを高速で曲がっていく。茜もそれに追走しようとするが……

「――っく」

 先ほど落車しかけた恐怖から、そしてディスクがまだ濡れているという状況から、思い切りのいいコーナリングができない。

 実を言うと、コーナリング直前でのブレーキも、ミハエルの方が優位だった。

 茜はデュアルコントロールレバーを使う都合上、ブレーキと変速ギアの同時使用ができない。コーナーの後の立ち上がりを計算するなら、先にギアを落としてからブレーキをかけるしかない。

 一方のミハエルは、ハンドル右側にラピッドファイアシフター。左側にはVブレーキレバーを移植している。そのためギアとブレーキの操作を、まったくの同時進行で行える。

 コーナーを出たところの立ち上がりも、ミハエルの方が速い。ペダルを回さないと変速できない外装式に比べて、ミハエルの内装式はいつでも変速できる。これは三尾からカーゴバイクを借りた際に、茜も自覚したことだった。

「どうした?ミス茜。まさかこの程度ではあるまい」

 ミハエルが言う。厭味ったらしく聞こえるが、本人に悪気はない。真剣に、茜に期待しているからこそ出てくる言葉だ。

 しかし、茜にはもう、残されたカードは無い。

 巡航速度、最高速度、オフロードでの走破性、コーナリング……

 しまいには、この雨すらミハエルの味方だ。茜の味方になると信じていた、その雨すらも……

「まだだ……まだ、ゴールじゃない――」

 茜の頬を、雫がつたう。冷たい雨とは温度が違う、痺れるような熱さの水滴だ。

「まだ、アタイは諦めない」

 ミハエルに向かって宣言しているとは思えない、弱弱しい声だった。茜が、茜自身に言い聞かせる声。諦めかけているからこそ、言わなくてはいけない言葉。

「アタイは、まだ負けてない。ここから頑張って……」


「それは、これから負けるという意味ではないかね?」


 ミハエルからの鋭い指摘が、茜の胸を刺す。

「いや、失礼。吾輩は『頑張る』という言葉が嫌いでね。この言葉を言う者の中には、確かに頑張って成功する者もいるだろう。得てしてそういう人物に注目が集まるため、美しい言葉として認識されることも多い。しかし……」

 ミハエルが、茜を見下ろす。小さく背中を丸めた茜の姿勢は、空力抵抗を避けて突撃する際の構えではない。前に進むという恐怖から目を背けて、打ち付ける雨に怯える姿勢だ。

「多くの人物が言う『頑張る』は、その後の『頑張ったけどダメだった』とワンセットだ。過程と結果が必ずしも一致しないという例だね。思うに今、ミス茜が言いかけた言葉は、それと同じじゃないかな?」

 悪い結果が見えていながら、そこに至る過程を飾り付けることで、結果まで良いものに錯覚させる。ポジティブな言葉を並べても、それは問題の先送りでしかない。

 事実、茜には逆転の策などなかった。

「まあ、これも吾輩の持論だが、頑張っても何もできなかった人間の多くは、その後の成功を掴むたびに言う。『あの時の失敗が糧になっている』とね。それは決して否定しない。多くの人間はそうして成長するものだ」

 反論できない茜を他所に、ミハエルは自分の言いたいことをつらつらと重ねる。

「どうかミス茜も、今回の敗北から何かを学び取ってくれたまえ。そうだな……吾輩の希望としては、ペニー・ファージングの恐ろしさを学んでくれたら嬉しい。ああ、負けたことを悔やむ必要はない。車体性能に差があった。それだけの事だよ」

 言いたいことを言い終えたらしい。ミハエルはそのまま加速して、茜の視界から消える。

「待て。アタイは……」

 茜が追いかけようとしたその時、タイヤが滑った。急なトラクションに耐えられず、前輪が浮いてしまったのが原因だ。

 車体が横に向かって移動する。ハンドルがゆっくり縦に回転し、フレームが右に流れる。実際の時間としては、一瞬の事だっただろう。茜の中ではスローモーションだ。足を着こうとして、ビンディングに阻まれる。


 ズシャァアア!


 雨で滑るせいか、引きずられる間隔が長い。

 むき出しの手足には擦り傷が、腰や肩には打ち身ができる。手は冬用グローブに守られていたが、手首は捻ってしまったようだ。一番痛むのは、頬の擦り傷だった。泥水が染みる。

 心臓が速く脈を打つ。胸の内側で破裂しそうなほど、鼓動が痛い。喉が焼け付いて、呼吸が苦しい。それでも息が止まらない。

「はぁっ――はぁっ――」

 何とか体を捩って、ビンディングを外す。それから立ち上がり、クロスファイアを担ぎ、こみ上げるイライラを……

「うあぁあぁあぁあ!」

 全て車体にぶつけるようにして、地面に向かって放つ。自転車を叩き壊したいのか、自転車でアスファルトを砕きたいのか、自分でも分からない。

 このまま思いっきり叩きつけたら、いくらオフロード用の車体でも無事では済まないだろう。そのタイヤと地面がぶつかる寸前、茜は振り下ろすのを止めた。

「がっ……はっ、あ、アタイ……何を――」

 完全な八つ当たりを、よりによって大切なクロスファイアに対して行うところだった。その事実が、余計に茜を責め立てる。

 頭が痛い。行き場のない怒りが、そこをぐるぐる回っているようだった。この際、何でもいいから殴りたい。もし自分自身を殴り飛ばせるなら、遠慮なく全体重をかけて殴っていただろう。

 あるいは、少女らしく声を上げて泣きわめけば楽だったかもしれない。とは茜は考えなかった。思いつきもしなかったというのが正解だろう。

 せめてもの腹いせに、電柱でも殴っておく。手が痛い。

「ごめんな。クロスファイア……」

 やっているうちに、空が追い付いてきた。

 もう、どんな顔で空と会えばいいのか、茜には分からなかった。

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