第26話 再会と3人乗り自転車
ミハエルと約束したゴールの交差点。そこに彼の姿は無かった。
「まあ、当然だよね」
空が言う。隣を走る茜は、何も答えない。
ミハエルがこの地点にたどり着いたのは、もう40分も前の事だ。ミス・リードに一方的な勝利宣言を行った彼は、その後すぐにここを出発している。
すっかり戦意喪失した茜は、そのあと空と合流して、ゆっくりと進んできたわけだ。当然、ミハエルはその勝負自体に興味を失っていただろう。ミス・リードも別な選手の実況で忙しいらしく、空と茜の敗北すら報じてくれない。
「風が出てきたね」
「……」
「茜、寒くない?」
「……」
「怪我、大丈夫?」
「……うっせぇ。ほっとけ」
さきほどから、茜は終始この調子である。
勝負に負けたこと自体は、実はさほど気にしていない。それを言い出したら、初日のストラトスとの対決やら、2日目の史奈との勝負にならない程の実力差やら、言い出したらきりがない事だ。
ただ、今回は負け方が悪かった。天候は雨。茜の得意分野だ。路面はでこぼこのアスファルト。これも茜の得意分野だ。相手は古臭いペニー・ファージングで、茜は愛車のシクロクロス。これも整備はきちんとしていたはずだ。
勝てるはずの戦いだと思って、挑戦を受けた。そして運が絡まない戦いで、完膚なきまで負けた。
「……寒い」
茜がつぶやいた。
「まあ、珍しく省エネだったもんね」
丈の短いレーパンに、夏用の半袖ジャージ。そして薄いダウンジャケット。この軽装で真冬の寒さに対抗できていたのは、ひとえにカロリーを燃やし続けていたからだ。
今の茜は、無意識に消費カロリーを抑えて走っている。ロードバイクの乗り方としては正しいが、体温維持の観点で見ると問題だ。濡れた身体で空力抵抗を受ければ、体温は見る見るうちに下がっていく。
「茜。どこかで休もうか?」
「……」
「ああ、でも濡れたままで入店は嫌がられるかな?いや、場所にもよるのかも――ミス・リードに聞いてみる?」
「……」
「あ、僕のコート、貸そうか?って、濡れてるけどさ」
「……要らねぇ」
ぶっきらぼうに答えた茜は、ぷいっとそっぽを向く。視線だけは見るべきところを見ているのか、無意識でマンホールを避けた。
この状況で、普通なら空は居心地の悪さを感じるところなのだろう。しかし、空は普通じゃなかった。
「なんだか、思い出すね。ほら、僕たちが初めてお互いの自転車を見せあった日。覚えてる?」
「……」
それは、確か進路希望調査の日だった。プロのロードレーサーを第一希望にした茜は、担任にボロボロに言われた。『両親は納得しているのか』だの、『食っていける程の収入が見込めるのか』だの。もう散々だ。
それでふてくされている所に、空がやってきて言ったんだ。「諫早さん、自転車に詳しいの?」って……
「あの時、僕は茜と友達になれそうな気がしたんだ。まあ、さすがにこうして何日も一緒に走ることになるなんて、思ってなかったけどさ」
空はそう言うが、あの時の茜は、空と絶対に友達になれないと思った。空気を読めない上に、たまに会話が成立しない。自分の価値観でしか物事を考えず、そのくせ周囲の価値観を否定しない。いつもマイペースで、いつの間にか周囲まで巻き込んでしまう。
そんな空に……
「お前って、時々すげぇズレてるよな」
「うん。よく言われるよ。特に茜に」
「ああ、アタイも結構言った覚えがあるからな」
わりと、救われているのかもしれない。
お互いに前を向いたまま、声を出さずに笑う。隣がどんな表情でいるのか分からないが、きっと同じ表情だと信じた。
「まだ先も長いんだし、きっとミハエルさんにも、また会えるよね?」
「ああ。まあ会えないときは仕方ない。アタイらがチャリチャン優勝して、一方的に勝利宣言してやろうぜ。それで借りは返せる。リベンジ成功ってわけだ」
「え?ミハエルさんと友達になるんじゃないの?」
「……やっぱお前ズレてるって」
茜は、さっきまでのモヤモヤした気分が晴れていくのを感じていた。そもそもミハエルに対してはともかく、なんで空にまで拗ねた態度をとっていたのか。
(かまってほしかったのかな。アタイが……)
仮にそうだとしたら恥ずかしすぎる。絶対に秘密にしないといけない。
閑静な住宅街を走り抜けながら、茜は身体を震わせる。一度失った体温を取り戻すのは大変だ。ましてずぶ濡れの状態が続いているなら、状況は悪化する一方とも言えた。
そんな時だった。
「おーい、空さーん。茜さーん」
沿道から、大きな声が聞こえる。たまにこうして、チャリチャンを見に来たファンから声援が送られることはある。今日は雨なのに、熱心なものだ。
と、思いきや……
「あれ?巧さん?」
「え?マジか」
傘を差し、手を振る大柄な男。それは初日に出会った子乗せ自転車の乗り手、佐藤巧であった。
「お久しぶりです。その節はありがとうございました」
相変わらず、ずっと年下の空と茜に敬語を使う巧。一方、茜は年上相手でも気にしない。
「どうして巧さんがここにいるんだ?チャリチャンはリタイアしたんだろう?」
「はい。実はここ、俺の家の近所なんです。ミスり速報聞いてて、そろそろ通るのかなって様子を見に来たのですよ。いやー、まさかこんなにタイミングよく再開できるなんて、嬉しいです」
そう言った巧は、茜の姿を見た。
「茜さん、大丈夫ですか?寒そうですが……」
「ん、ああ。慣れてるよ」
と、本人は言う。巧は茜の頬に手を伸ばし、そっと触れた。茜が驚いて身を引く。
「おい、いきなり何を……?」
「冷たいですよ。本当に大丈夫ですか?もしよろしければ俺、今からうちに帰って上着か何か取ってきますけど?」
「いらねぇよ。つーか、借りても返せないと思うぞ」
「いえ、もう差し上げます。なんなら、うちで休憩していきますか?レース中なのは解ってますけど、もしよかったら……」
巧の積極的な誘いに、茜は迷った。正直に言えば、このまま走るのがとてもつらいのは事実だ。しかし素直に言えない。何となくプライドが許さないと言うか……
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
そう言ったのは、プライドも遠慮も比較的薄い空だった。
ミス・リードは、ぱらぱらと参加者の書類をめくりながら実況していた。
『うーん。まあ、当然と言えば当然なのですけど、レースに動きがなくなってきましたねぇ。現在、雨が激しくなってきています。大会運営側としても、これ以上の走行は推奨しかねますよぉ。まあ、中止もしないですけどねぇ。
現在トップは言わずもがな、アマチタダカツさん。この一週間で何十回も繰り返した紹介ですねぇ。誰か彼を抜く者はいないのでしょうかぁ?
エントリーナンバー002 三尾真琴選手は……相変わらずですねぇ。ノロノロと、しかし着実に進み続けていますぅ。雨で休む人が多い中、順位を着実に上げていますよぉ。
上げていると言えば、エントリーナンバー924 ユークリット選手も非常にアゲてますね。何気に晴れの日よりテンション高くないですかぁ?なんか楽しそうなんですけど、濡れちゃって興奮してますかぁ?
この雨がどうレースに影響するのか、楽しみなところですねぇ』
GPSと限られた情報から、各選手の動きを紹介していたミス・リード。そのうち話題を気になる選手紹介に切り替えたり、自転車に関する雑談を始めたりと忙しそうだ。彼女に休むという選択肢はない。
その実況を、空は巧の家で聞いていた。居間にある大画面テレビには、動画共有サイトを通じて生放送されるミスり速報が流れている。
「どうやら、皆さんも今日は走らないようですね」
巧がお茶を持ってやってくる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
お茶を受け取った空は、ゆっくり口をつける。
雨でぬれた服とコートは洗濯中だった。空が今着ているのは、巧のジャージだ。サイズが合ってないせいでダボダボである。
「動きにくいですか?」
「いえ、大丈夫です」
正直に言えば動きにくいが、別に運動するわけでもないから気にならない。
こたつの温かさ。座布団に座る感覚。窓から見える庭。空にとっては珍しいものだらけだった。
「素敵なお宅ですね」
「ありがとうございます。俺、こういう日本家屋って感じの、ちょっと憧れてたんです。まあ、中古物件なんですけどね」
その古びた感じも含めて、巧は割と気に入っていた。まあ、実を言うと会社に近いという立地も込みだったわけだが。
「それにしても、驚きましたよ。あれからだいたい一週間ですか?それで滋賀県まで来るなんて」
巧は驚いた。それ以上に、空が驚いていた。
「え?もう滋賀県なんですか?」
「気づいていなかったんですか?」
「はい。全く……」
チャリチャンに限らず、自転車に乗っていて県境を超えた時の気持ちなんてこんなものである。別に各県境に立て札があるわけでも、関所があるわけでもない。まして一日に数百キロを走るロングライドとなれば、その感覚は麻痺して当然であった。
「なんか僕たち、毎日のように都道府県を移動しているんですよ。だから夜、寝る前に現在位置を確認して驚くことが多いんです」
「そうなんですか……ああ、もうここから少し行くと琵琶湖なんですよ。このペースならあと一週間くらいでゴールじゃないですか?」
そういえば、茜も以前言っていた。たった4000kmなら、速い人だと14日で走り切ると……
「茜さんの言う通りのペースですね」
「そう、ですね」
そんな話をしていると、襖が開いた。スウェットに着替えた茜が、バスタオルで髪を拭きながら出てくる。
「ふぅ……いい湯だったぜ。ありがとうな」
「いえいえ、このくらいしか出来ませんが……あ、いま茜さんの分もお茶入れますね」
「ああ、ありがとよ」
茜がこたつに入る。茜にとっては久しぶりの感覚だった。自分の部屋を思い出す。
「ああ、空さん。次、お風呂どうぞ」
「はい。それじゃあ、お言葉に甘えて」
巧が空を風呂まで案内する。一人取り残された茜は、縁側に目を向けた。庭と呼ぶには手入れの届いていないスペースに、見覚えのある自転車が止まっているのが見える。
(あれって、確かチャリチャンで使った自転車だよな……)
Panasonic ギュットミニDXだ。ハンドルの中央に組み込まれたチャイルドシート。特徴的なコラム。間違いない。
実は大会ファンの間では、伝説の自転車と呼ばれる車体だ。チャリチャンの暫定1位になったことがあるのは、アマチタダカツのロードバイクを除いてこの車体だけである。
(あの時は無茶させちまったけど、壊れたりしてないだろうな……)
フレーム自体は頑丈に出来ているだろう。しかし足回りはしょせんママチャリだ。レースでの使用に耐えうる部品じゃない。茜は心配になって、そっとその車体を覗く。そして……
(おいおい、マジかよ?)
その自転車の変貌から、茜は気づく。ギュットミニのリアは、一週間前に見た姿と大きく異なっていた。
そこで固まる。そうしているうちに、巧が戻ってきた。
「ああ、茜さん。自転車、気になりますか?」
「ああ。ちょっとな」
こたつに戻った茜は、お茶を一口すすった。そして巧に訊く。
「なあ、巧さん。奥さんは?」
「……お察しの通り、病院ですよ」
「いいのかよ?そばにいなくて」
「いや、まだ先ですよ。医者が言うには、あと4か月……」
「ああ、そうなのか」
特に取り乱すわけでもなく、茜はせんべいに手を伸ばす。再び、襖が開いた。
「あれー?だれかきたー?」
そう言って部屋に入って来たのは、アギトだった。お昼寝していたのだが、起きたらしい。
「よう、アギト。久しぶりだな」
「あ、あかねおねーちゃん。どーしているの?」
「ん?近くに寄ったからな。それだけだ」
「ふーん?あ、ねぇ、そらおにーちゃんもきてるの?いっしょにあそぼ。あそぼー」
忙しい子供である。
「いいぜ。遊ぼうか」
「すみません。茜さん」
「いや、気にすんなよ。アタイもそんな気分だってだけだ。さて、それじゃあ何する?」
「じてんしゃー」
「自転車はダメ。雨降ってるからな」
「ちぇー」
アギトがぱたぱた動くのを見て、茜は不思議な気分になった。
(アギトも、お兄ちゃんになるのか……)
ギュットミニDXのリアには、もう一つのチャイルドシートが搭載されていた。
昨今の子乗せ自転車は、長らく家族をサポートできるようにカスタマイズ可能だ。
第一子が生まれた時は、フロントにチャイルドシートを搭載。そうすることで小さな子供とコミュニケーションを取りつつ、安全に走行することができる。
二人目の子供が生まれたら、後ろにチャイルドシートを追加。基本的には後ろの方が大きい子供向けだ。耐荷重はフロントより重い。
アギトはこれから、後ろのシートに座ることになるのだろう。前のシートは、生まれてくる弟か妹に譲る形になる。だからこそ、二つもチャイルドシートを搭載したのだろうから。
「よく考えて設計されてますよね。最近の自転車は」
「ああ、そうだな。アタイも最近まで知らなかったよ」
もし子供が小学校に行くようになったら、シートを外してバスケットをつけることができる。そうすれば育ち盛りの子供たちのために、大量の買い物もできる寸法だ。たった一台の自転車に、非常に多い可能性を秘める。
「あのシートは、店で取り付けてもらったのか?」
「はい。大会が終わった時、自転車を分解して、車に積んだのですが……」
「組み立て方が解らなくなったってわけか。また」
「はい。お恥ずかしい限りで」
大会のスタート会場でも、組み立て方が解らなくて困っていた。あの時は茜たちが組み立てたが、本当はプロが組み付けるのが一番である。
ネジ一本絞めるにしても、適正な力量が求められる。緩いと外れやすいのは言うまでもないが、きつく締め過ぎればネジが折れたり、ネジ受けが歪んだりする危険性があるわけだ。
自分だけでなく、子供の命まで乗せる車体である。でたらめな整備を行ってはいけない。
「まあ、きちんとした整備士に頼んだなら大丈夫だろうな。多分」
「多分、なんですか?」
「ああ、多分だ。何しろ自転車に理解のある整備士ばかりが自転車屋をやっているとは限らないからな。バイク屋がついでに弄っているような店は危ない。オートバイの整備に比べて、自転車は適当でいいだろうと舐めている店すら、ある」
とは、茜の偏見である。全てのバイク屋に該当するわけでもないが、茜は以前、ちょっと痛い目を見ている。
「ねぇ。むずかしいおはなし?」
「ああ、悪い。何でもないよ。遊ぼうか」
「うん」
雨が上がる気配はない。巧は泊まっていくように勧めてくれたので、空たちもすっかりお言葉に甘えている。
空たちだけではない。多くの選手が雨による休憩を宣言。もしくは宣言しなくとも実施していた。ここにきて膠着状態だ。
夕食を食べ終えた空たちは、しばし、巧の奥さんと話をしていた。巧はアギトを寝かしつけるために、少し席を外している。
「それで、どっちなんですか?」
「女の子だそうです」
巧の奥さんが、お腹をさすって言う。その表情は柔らかく、優しかった。
「名前は、決めているんですか?」
空の質問に、奥さんは頷く。
「花に、夢と書いて『
「……ああ、はい。えっと――いいお名前ですね。うん」
「まさかアギトも、巧さんじゃなくて奥さんの趣味か?」
「はい。もちろん、巧さんも考えてくれましたけどね。一緒に決めたんです」
ゆっくりとした喋り方の奥さん。上品な女性であり、空たちに対しても優しくて親切だ。その口から、キラキラした名前が誇らしげに語られる。時代は変わっているのかもしれない。少なくとも空たちが生まれた14年前とは違う。
「まあ、いいのかもな」
茜はそう言った。空が隣で驚く。
「あれ?茜って、キラキラネーム嫌いじゃなかったっけ?」
「いいんだよ。大事なのは名前の響きじゃなくて、その子の生き方だろう。アタイは今日、そう思ったよ」
先ほどの夕食を思い出す。一家そろっての団欒などほとんど経験のない茜にとって、それは少し不思議な体験だった。修学旅行で友達と一緒に食事をしたときとも違う。あの時はワクワクしたけど、今日は何故か、安心した。
「なんかさ。チャリチャンが始まってから、アタイの中の世界は何度もひっくり返ってんな」
鹿番長と出会って、ルックバイクの底力を見直したり、
次郎と出会って、高級自転車が必ずしも金持ちの道楽でない事に気づかされたり、
赤い彗星と出会って、自転車以外の趣味を持っても自転車と両立できると証明されたり、
ミハエルと出会って、車体は見た目だけで判断できない事を思い知らされたり、
「アタイ、ちょっと凝り固まってたかもな」
「え?ああ、ずっとサドルに座りっぱなしだものね。僕もちょっと肩が痛いかも」
「いや、違うよ。頭の方だって」
「そっか。茜はドロップハンドルだもんね。やっぱり首とか頭が疲れる方?」
「それも違うんだけどな」
茜が首を傾げ、空が茜の首を気遣う。マッサージでもした方が良いか。しかし女の子に触るのは男としてどうたら、と悩む空に対して、そもそもそういう意味じゃないと言い出しにくくなった茜。そんな二人が両手を空中にさまよわせる様子は、猫が空振りパンチを繰り返しているみたいでほほえましい。
「お二人は、もうお付き合いを?」
「いいえ」
「ねぇよ」
セリフは違えど同じタイミングで即答する二人に、また奥さんは笑う。
『トップ集団は既に関西に入っていますねぇ。他の選手も全員が岐阜県までは到達しています。大会運営側が予想したより、ずぅっと速いですよぉ。
お、ここにきてエントリーナンバー040 鹿番長選手、同じく009 ニーダ選手と勝負を開始。そこにエントリーナンバー049 デスペナルティ選手も参戦。3Pですねぇ。
中継入りますかぁ?あ、もう入ってますねぇ。こちらは岐阜県の山間の映像ですぅ。夜間の雨で撮影しにくいですが、3台の自転車が入り乱れて戦っているのがお判りでしょうかぁ?
まあ、デスペナルティさんに言っても無駄でしょうけど、怪我のないように、あくまでレースの範疇で戦ってくださいねぇ。これ、そういう格闘技の大会じゃないですから』
パーテーションを挟んで、空と茜が同室で布団に入っていた。幸いにも布団のストックだけは何故かあったのだが、さすがに客間がいくつも用意できるわけではない。
ミスり速報をイヤホンで聞いていた茜は、そろそろ寝るかとイヤホンを外した。スマホを操作して停止しようと思うが、身体は上手く動かない。
「茜。起きてる?」
空の声が聞こえる。ささやきと地声の中間のような、眠気をはらんだ声。
「ん?ああ……起きてるよ」
茜は反応した。この一週間の疲れがどっと出ているようで、身体は動かしにくい。それなのに眠れないのは、長すぎる旅の緊張からか。
「空も、眠れないのか?」
「うん。でも、なんでだろう?手足は全然動かないんだよね。特にどこか痛いわけでもないんだけど……金縛りみたいな?」
「ははっ、それで怖くなって話しかけてきたのか?」
「だって、このまま幽霊とか出てきたら怖いでしょ。だから、茜の声が聞きたくなって……」
よくもまあ、同級生の女子の前で幽霊が怖いと言えるよな。などと本気で感心する。もしかすると茜を気遣っての発言の可能性もあったが、空に限って?
「まあ、動けないのはアタイも同じだけどな。幽霊が出てきたら頼るなよ」
「あ、茜にも動けないとかあるんだ」
「そりゃ、お前より重い自転車漕いでんだぞ」
重いと言っても、数百グラム程度の話だと思う。オプションがある分で空の方が重い可能性もあるが、些細な問題か。
「茜には、お兄さんがいるんだっけ?」
「ん、ああ、何だよ唐突だな」
「僕、兄弟って憧れてたんだよ。一人っ子だからさ。親戚のお兄ちゃんの事を、ずっとお兄ちゃんって呼んでたり」
「それは……そろそろ嫌がられないか?」
「うん。でも、急に変えるのは恥ずかしいから、ずっとお兄ちゃんって呼んでるんだよね」
「ああ、それは分かる。アタイも小さい頃は、兄貴の事を、お兄ちゃんって呼んでたからさ。変えるタイミングが分からないよな」
「あ、でもさ。ママの事を、お母さんって呼ぶようになったよ」
「そうか……空らしいな」
普通はおふくろと呼ぶタイミングを探す年頃だと思う。
「アギト君、お兄ちゃんになるんだよね」
「ああ、なんか想像できないけどな」
意識だけはいつもより冴えわたる中、声は思うように出せず、ゆっくりした会話になる。もどかしいようでもあるが、不思議と嫌ではない。
「僕も、妹が欲しかったかな……」
「何だそれ。まさかの下かよ」
「……」
「空?」
寝たのか。静かな寝息が、不規則にゆったりと聞こえてくる。
「ったく……お前に妹なんかいたら、どっちが上だか分からなくなりそうだ」
再びスマホに手を伸ばす。今度こそ、ミスり速報を閉じようとして……
「ん?」
気になる内容が、外したイヤホンから小さく聞こえてくる。耳に差し込むほど深くない程度に、引っ掛けるようにイヤホンをつけた。
『繰り返します。デスペナルティさんが鹿番長さんと接触。それにより、鹿番長さんの車体が落下しました。鹿番長さん本人は落下していません。無事です。
で、車体の落下地点ですが――たしかあそこは……ああ、崖ですね。CAPTAIN STAG 267が崖に落下。高さは目算で15メートルほどだと思いますが……
いま、中継車からカメラマンが下りました。そのまま崖の下を覗き込みます。
うわぁ……折れてます。詳細は不明ですが、少なくともフロントフォークが大破。車輪もねじ曲がってますねぇ。ファットバイクのホイールでも、曲がることってあるんですね。
タイヤもパンクしたようで、まるで漫画に出てくるパンク描写のようになっています。大きなタイヤが変形して、ボコボコな状態に……』
(マジかよ……)
3日目の雪の日に、散々世話になった鹿番長。あの頑丈そうな自転車と、頑丈だけが取り柄っぽい男が、落車した――
「おい、空」
「うん……茜が前に乗っていいよ」
「寝ぼけてんなよ。鹿番長が……」
言いかけて、茜は口をつぐんだ。いま空を起こして何になるのやら。起きてしまった事故現場がどこか分からないし、分かったところで何かしてやれるわけじゃない。
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