第26.5話 ルックバイクとルックバイク

 話は、少し前にさかのぼる。まだ茜たちが布団に入って間もない頃、コースではまだ、走っている人たちがいた。




 オートバイのような太いタイヤと、たった7段の変速ギア。漫画のようなリーゼントに、特攻服を着た中学生。

 降りしきる雨の中、鹿番長は順位を着実に上げていた。こういう時、寒さに耐性があるかどうかが勝負を分ける。速いか遅いかではない。走り続ける力があるかどうかだ。

(まあ、俺の最高速度トップは遅いからな。ここで取り戻させてもらうぜ!)

 一度は暫定2位まで上り詰めたが、それもすぐに抜かれてしまった。今では中盤より遅いくらいである。

 このルックバイク扱いになっているCAPTAIN STAG 267は、思った以上にシティ車に近い。本格的なMTBとは違う乗り心地に、鹿番長は苦戦していた。

 タイヤのエアボリューム次第で、オフロードにも対応する。そのうえオンロードでも十分な気圧があれば巡航速度を上げることができる。それはいいのだが、ギアが付いてこない。ここ一番の下りでは速度を上げられず、上りでは苦戦を強いられる。

(せめてBBだけでも、本気ガチで漕げりゃよぉ……)

 ハンドルを引きつけて、馬力を上げる方法がある。しかしこの車体は、それに耐えられるほどの強度がない。金属製品ではあっても、人間の力で簡単に壊れてしまう可能性がある。安物の限界だ。

 だからこそ、この平地に賭ける。足回りの部品に比較的負担をかけない走り方で、ケイデンスを上げる。

「――その執念、凄いと思う」

 隣から、女子の声がする。鹿番長が振り返ってみると、そこにはMTBに乗った少女がいた。

 ニーダだ。この雨の中、ジャージもヘルメットも、そこからはみ出た長い黒髪もずぶ濡れにして走っている。

「テメェ。いつの間に俺の横に!?」

「――今さっき、追いついてきた」

 そう言って彼女は後ろを指さす。追いついてきたという事は、鹿番長より高速で走れるという事だ。

「オンロードでそこまでの性能チカラ誇るのかよ。こっちはフルリジットだって言うのによ」

 サスペンションが付いている分、ペダリング効率が悪くなるのは業界の常識だった。だからこそ、オンロードマシンにはサスペンションをつけない方が良いとされている。ペダルの踏み込みをサスが吸収するからだ。

 なのに……

「私のレフティは、手元でロックを行える。レバーを捻るだけで、クッション性をなくせる」

「ちっ。やっぱ高級品ブランドには勝てねぇってか?デールも化け物みたいなフォークを開発したもんだぜ」

 目の前に橋が迫る。小さな川を跨ぐための、小さな橋だ。その継ぎ目は段差になっており、避けることができない。

(くそがぁっ!)

 鹿番長は、タイヤに限界値ギリギリの20psi入った状態で、その段差に突入する。パンパンに膨れ上がったタイヤは、いつものようなファットバイクらしさがない。


 ガタンッ――ゴッ、ゴッ、ゴッ!


 一度目の衝撃は、段差のせいだ。太いタイヤがぶつかるとき、まるでバスケットボールのようにバウンドする。急に衝突したような衝撃が、ハンドルを通じて鹿番長を襲う。

 さらに地面についてからも数回、バウンドを繰り返す。これが普通の自転車のタイヤなら、ここまで跳ねないだろう。

(――この程度なら)

 ニーダが平然と、同じくらいの速度で段差に侵入する。

 ハンドルの左側に増設したレバーを、人差し指で引く。それだけで、今までロックしていたフロントサスペンションを開放できるのだ。


 カタタン……!


 軽快に跳ねたタイヤは、すぐに着地して安定する。段差に乗った瞬間の減速は、おたがいに同じくらい。そこから立て直すのは、ニーダが圧倒的に速い。

 レバーを押して、再びサスペンションをロック。こうすることによって、ペダリングのロスを最小限に出来る。オンロードとオフロードの切り替えを、最大限まで簡略化した車体。それがクロスカントリーバイクの最大の売りだ。

 ファットバイクでそれをしようとすると、タイヤに空気を入れ直すところから行わないといけない。レバーひとつで解決できる問題ではないし、まして走行中に行えることでもない。

 鹿番長を抜いたニーダが、さらに差を開く。このまま勝負がつくかと思われた、がしかし……

「面白え!それでこそり甲斐があるぜ!」

「――え?」

 一度は1馬身ほど離れた差が、少しずつ埋まっていく。

 ニーダが22段もあるギアを、フルアウターまで上げて応戦。それに対して鹿番長も、7段しかないギアをフルに上げる。やや下りなのを利用して、お互いに速度を最大まで上げるつもりだ。

 そして、その最大速度は鹿番長の方が速い。

(――そうか。歯数差)

 ニーダの使っているXTR 2×11は、山道を大前提にした軽量ギアで組まれている。リアが最小で11T。フロントは最大38Tだ。そのギア比は3.45倍。つまり、ペダル一回転でタイヤが3.45周する速さである。

 一方、鹿番長のギアはリアがTourneyの7段。そしてフロントがノーブランドのシティ車用。当然だが、オフロードを想定せずに作っているため重いギアが中心となる。

 リアこそニーダと同じ11Tを最大とするが、フロントはシングルで46Tもの重さがある。ギア比は4.18倍。同じケイデンスでも、鹿番長が1.2倍速い。

「――街乗り専用のママチャリみたいな足回り。でも、そっちの方がオンロードでは有利だというの?」

「まあ、な。姉ちゃんのギアも、MTBにしては速度重視チョッパヤに見えるけどよ……俺の267には勝てねぇな!」

 事実、少しずつだが追い上げられる。ニーダの29×2.1inタイヤと、鹿番長の26×4.0inタイヤ。規格は違えど外径に大差ない車輪が、横に並んだ。

 ゴロゴロと音を立てて転がる大きなタイヤは、まるで山を揺らさんばかりに、表面のブロック状スタッドを叩きつける。下りという事もあってか、速度は45km/hまで加速。ここまで来ると、ペダリングの意味はあまりない。

 あとは、お互いにどこまでコントロールができるか。それに限る。

 鹿番長が、自らの重さを利用してグングン進む。ニーダが、身体を小さく丸めて空力抵抗を避ける。まるでオートバイのような走りだ。

「やるなぁ姉ちゃん。俺は鹿番長。地元の中学じゃ、頂点テッペンの自転車乗りだ。あんたは?」

「――私はニーダ。ロンドンでは全裸すっぽんぽんのライダー」

 鹿番長の名乗り方に、ニーダがアドリブで合わせる。

丸腰すっぽんぽんか。つまり素手喧嘩ステゴロの自転車乗りだな。電動アシストや小細工に頼らない生き様。気に入ったぜ。ニーダ姉ちゃん!」

 と、鹿番長は解釈する。まさかすっぽんぽんが言葉通りの意味を持つとは思うまい。

「なあ、ニーダ姉ちゃん。俺と勝負タイマンしようぜ」

 雨の中、鹿番長が言う。リーゼントで雨を弾いて、その下から鋭い眼光を飛ばす。しかし、その表情は嬉しそうだった。いい強敵と出会えたことが、彼にとっての喜びである。

「――いいよ」

 ニーダもまた、表情こそ変えないものの、しっかりと答える。本音を言うと、寒いから休憩を取りたいと思っていた。しかし挑まれたら受けるのが彼女の流儀である。

 お互いに、タイヤが滑る危険をはらんだ雨の中の競争だ。太いタイヤは滑らないという風潮があるが、それは嘘だと二人は知っている。

 水に濡れた路面に於いて、一番怖いのはタイヤが水に浮くこと……すなわちハイドロプレーニング現象だ。そして浮輪のようなタイヤを履いている二人が、水に浮かないわけがない。体重の軽いニーダも、とりわけタイヤの太い鹿番長も……

「それでも、俺は突撃ぶっこむぜ!」

 目の前の大きなカーブに、鹿番長が突撃する。後輪は機械式ディスクブレーキによってロック。滑り出す車体を、前輪だけで立て直す。最低限の減速で曲がり切ったあと、変速ギアを一瞬だけ下げて加速。

(――神業。あのブレーキで実現)

 鹿番長のブレーキは、片方のパッドが固定された安物だ。そのため急ブレーキには向いているが、繊細な操作には不向きである。だからこそ減速やスリップ対策には使えないのだが……

(へっ、ドリフトなら関係ねぇな。本当の敵はスリップじゃねぇ。それに恐怖ブルってる自分テメェだ)

 ニーダは普通にコーナーを曲がる。この『普通』をこなせるのが、高性能機の証である。イメージした通りにブレーキの強さを変えて、繊細にコントロールできる。それは単純に油圧式ブレーキが高性能だからだ。

 もっとも、イメージがしっかりしていないとできない。

 少しだけ、理想のラインから外れて膨らむ。それを感じたニーダは、すぐにブレーキを開放する。その判断は正しい。滑る直前、あるいは直後に対応を間違えると、そのまま転倒を招く。

 それを恐れず突っ込むニーダだったが……

(――しまった!)

 自分が跳ね上げた水しぶきに、視界を奪われる。その瞬間にニーダが考えていたのは、周囲のイメージだった。

 目を閉じる寸前に見た映像と、自分の速度を掛け合わせる。たしか、木の枝が突き出た場所があったはずだ。それを回避するように、頭を下げる。そして目を開けた時――

(――クリア)

 ヘルメットの上を擦るように、枝が通り過ぎた。まさに心眼。と言ったら言い過ぎだが、MTB歴たったの半年程度で習得したニーダは、驚異的な才能の持ち主だろう。

 お互いに譲らないデッドヒート。

 そのうちに、他の参加者との距離も詰まってくる。



 目の前に、一台のMTBが迫る。いや、むしろそのMTBに対して、鹿番長とニーダが迫っているというのが適切か。

 この雨の中、ふらふらと走る漆黒の車体。

「――鹿番長。止まって」

「ああ?何だよ。まだ開始はじまったばっかじゃねぇか」

 不満を言う鹿番長だったが、ついにはブレーキをかける。何故か?それは……

 目の前のMTBが、Uターンしてこちらに向かってくるからだ。

「逆走だと?いったい何で……」

「――避けて」

 ニーダが言いながら、ハンドルを大きく右に切る。鹿番長が左に取り残される形になる。そして……

「くぅはははっ、嬉しい再会だな。一昨日ぶりだね。キャノンデール!」

 MTBに乗った逆走男は、さっきニーダのいた場所を通り抜けていた。どう見ても、正面衝突を狙った走りである。

「な、なんだ?このイカれ野郎は!?」

「――走って。逃げるから」

 ニーダが鹿番長と共に、再び坂道を下り始める。その後ろから、漆黒のMTBが追撃。その車体前方には、バンパーのようなバスケットステー。そしてハブステップが取りつけらていた。

「今度は逃がさないし、油断しないし、生かしておかないよ。ニーダちゃん」

 デスペナルティが、仮面の奥で笑った。

 ダウンヒルを駆け下りながら、鹿番長は振り返る。後ろから迫る狂気は、名前くらいなら聞いたことがある。

「あれが、デスペナルティ。実況ウワサで聞いてるけどよ……」

「――私は、彼を一昨日殴ってる」

「え?」

「――こんなところで再開するなんて……不運ハードラックダンスっちまった」

「いや、それは俺が言いたかった台詞ネーム。つーかニーダ姉ちゃん。殴ったって何?俺の聞き間違いか?」

 困惑する鹿番長を他所に、ニーダは速度を上げる。しかし……

「くぅははっ!遅いんだよなぁ。こういうところじゃ俺の方が速いのか?」

 ニーダの後ろから、デスペナルティが迫る。そのフロントについたハブステップを、ニーダの後輪に引っ掛けようとする作戦だ。当てられたら最後、転倒はもちろんだが、車体の損傷も免れない。それどころか大怪我の可能性も……

「させるかぁ!」

 鹿番長が加速して、デスペナルティの後輪に衝突する。大きな音を立てて、2台の自転車がはじけ飛んだ。

「おいおい、鹿番長くん……だっけか?きみも俺にぶつかってくるタイプなんだね。困ったなぁ。俺のお株は奪われっぱなしじゃないか」

「そんなもん要らねぇよ!テメェのお家芸カブなんか貰ったら、俺の人徳カクが下がるだろうが」

 実際、アルミとハイテンスチールなら、後者の方が堅い。このままぶつかり合ったら、先に潰れるのは鹿番長の方だ。

「――やっぱり、あのとき殴ったの、怒ってる?」

 ニーダが訊く。実際には殴った以上に蹴り飛ばしたし、一番ダメージとして残っているのはアスファルトに後頭部を打ち付けられた時なんだが……

「怒ってないよ。むしろあの時は、俺の車体を点検してくれてありがとうね。まさかこんなに早く俺に追いついてくるなんて思ってなかったけどさ」

「――じゃあ、どうして?」

「決まってるだろう。俺が自転車を壊すのは、恨みによる行為じゃない。ただの、実験だよ!」

 再びデスペナルティが、ニーダの顔面に蹴りを入れる。咄嗟に反応したニーダが、ハンドルを離して防御。右手で円を描くようにして、キックの軌道を逸らす。

 それこそ、彼の狙い通りだった。

 キックの軌道を逸らされたデスペナルティが、そのまま狙いをハンドルに切り替える。ニーダの右バーエンドを、前方に向かって蹴り飛ばした。結果として、ハンドルが左に大きく逸れる。

「――きゃあっ!」

 左手だけでハンドルを戻すことは出来ない。かといって右手はとっさにハンドルには戻らない。なので、ビンディングシューズを使って戻す。

 車体の角度を大きく変えるため、脚を使って操作。ついでに膝でトップチューブを蹴るようにして、フォローを加える。オートバイで言うところのニーグリップという技だ。水平位置にあったクランクのおかげで、比較的やりやすい。

 結果、大きく蛇行しながらもコースに戻る。

「――はぁ、はぁ、はぁ……っく、あ――」

 心臓が張り裂けそうなほどに脈打ち、耳まで鼓動が聞こえてくる。一回脈打つごとに、全身の筋肉まで痙攣し、目の奥が押し込まれるように痛い。

(――これ、知ってる。怖いって感覚だ)

 日常的に感じる恐怖などではない。『死にそう』とか、『死んだかも』という恐怖を超えた次元の感覚。いうなれば、『並行世界の自分がいま死んだ』と確信できるレベルの恐怖。

 身体が固まる。頭が働かなくなる。もし、いま追撃されたら避けられない。


「おい、テメェは女にしか車輪を出せねぇのかよ!オトコなら、まずは俺と張れ!」

 鹿番長が間に割って入る。すると不思議なことに、デスペナルティはハンドルから手を離した。やる気がないとアピールするような仕草だ。

「あのさぁ、鹿番長。俺は獲物を選ぶんだよ。お前の267は潰せない。今の俺が潰したいのは、目の前のHI-MOD 1だけさ」

「選ぶ?」

「そうだよ。だから、君の267は見逃してあげるよ。潰したって、俺の得にならないし……」

 デスペナルティの言い回しに、鹿番長は感じるところがある。要はルック車が取るに足らない相手だと言うことだろう。リスクを負ってでも潰したいのは高級車だけ。安物は放置しても構わないと……

(いや、違ぇな。この状況じゃ理屈が合わねぇ)

 デスペナルティの乗っているFINISSも、ルック車で間違いない。どころかこのメンツの中では最底辺の車体だ。そんな相手がルック車を侮るとは思えない。

 何より、今もっともアドバンテージを得ているのは鹿番長だ。この状況で自由に立ち位置を変えて、衝突を回避しながら、相手を牽制できている。それはひとえに速度とコントロールで上回っているということ。

自分テメェの優勝のために事故トラブってるなら、真っ先に破壊ツブした方がいいのは俺のはず。なのに何でそれをしないんだ!?」

 鹿番長の問いかけに、デスペナルティは肩をすくめた。

「俺は、素敵な車体を壊さないのさ。そしてきみの267は素敵だ。それだけだよ」

 そう答えて、再びハンドルを握る。

「さあ、お喋りはここまでだ。ニーダちゃんのHI-MOD 1に、そろそろとどめを刺そうかな」

 デスペナルティがにやりと笑って、速度を上げた。そのせいで、鹿番長も考え事をしている時間を失う。

 女の一人も守れないで、番長も何もない。

(どこから攻めてくるにしても、狙いがニーダ姉ちゃんなら、近くで守護まもってやんのが妥当ベターだ!)

 やっとのことで走っているニーダの後ろに、鹿番長が陣取る。その一方で、前を走るデスペナルティは、速度を上げて二人を引きはがす。その差は縮まるどころか、開いていく一方だ。

 既に10m以上は先行するデスペナルティ。その後ろをニーダと鹿番長が走る。この距離から繰り出される攻撃とはあるのか?それとも単にこのままレースを続けるつもりなのか。


 山を抜けて平地へ突入する。一車線しかない狭い道だ。山に沿って作ってあるようで、やや右にカーブする道路。右手にはコンクリート吹付が行われた斜面がそびえたつ。

 左には川が流れているようで、豪雨の影響か、大きな音がする。とはいえ冠水の危険はないようだ。見たところ水面自体は見えない。よほど下の方を流れているのだろう。

 街灯は着実に増えてきているものの、それでも暗い。真夜中という事もあってか、水以外の音は非常に静かだ。

(どっかに無いか?……逃げられる脇道ピットはよ)

 デスペナルティに遭ったら、すぐにコースアウトするといい。そんな話をミス・リードがしていたことがある。

 コース内なら『大会中の事故』として処理できても、コース外なら『傷害事件』として扱われる。だからデスペナルティは、少なくともコース外で直接攻撃はしない。そこに逃げるのが一番だろう。

 ちなみに、今ブレーキをかけたら助かるんじゃないかとも思ったが、相手がUターンして戻ってくる可能性もある。得策じゃないだろう。

 残念ながら一本道。まだコースアウトできない。どこかに道を探す鹿番長は、

(クソっ!右が山で左が川。これじゃあ道なんかねぇだろうが!)

 根本的な問題に気づく。どうやら気の抜けない状況はもう少し続くらしい。


(さて、ここらで決めたいな。俺の予想だと、そろそろ……)

 デスペナルティが、周囲を見渡す。徐々に、右側の山肌がなだらかになってきていた。

(この辺でいいかな?俺も初めて使う技だけどさ)

 さらに速度を上げたデスペナルティは、ハンドルを右に切る。そのままコンクリート吹付の斜面を駆け上がっていく。

「な、なんだと!?」

 それを見た鹿番長は、次の攻撃を読んだ。その頃にはもう遅い。

「くぅーはははははははぁ!一撃で決めてやる。反撃も許さないよ!」

 反転したデスペナルティが、ニーダの右から衝突を狙う。山を下りるその速度は、瞬間的には70km/hを超える。ほぼ、落下だ。

「ニーダ姉ちゃん。速度スピードを上げろ!」

「――え?」

 ブレーキをかけろ。ではなく、速度を上げろ。その理由は二つある。

 一つは、的が止まると狙いやすくなるから。

 もう一つは、速度が落ちるとバランスを崩しやすくなるから。

 バックという選択肢を持たない自転車にとって、事故を回避する方法はブレーキだけじゃない。走り抜ける。それもまた有益な手段だった。

 本来なら、交差点での事故を回避するために身に着けた心得だ。それをこんなところで実演するとは、鹿番長も思わなかった。

「――分かった。信じる」

 ニーダも鹿番長の判断と、その理由を察する。いつの間にか上がりっぱなしになっていたギアを、力ずくで踏みつけて加速。体力のすべてを使い切るようにして、安定しないフォームで速度を上げる。

「その程度で、俺とフィニスをよけきれるか?くははっはっは」

 右から降りてきたデスペナルティは、さらに右にハンドルを切る。雨で車体がスリップしそうな中、あとさきを考えずに車体を曲げる。

 結果として、スリップが始まった。

 しかし、デスペナルティはそれすらもコントロールする。ハンドルは正面に向けたまま、左方向に滑り落ちていくのだ。車体は前を向いているのに、進行方向は左斜め前。そのままニーダに対して水平な角度で、狙いを定めていく。

 この速度での、しかも重力を味方につけた衝突。もし当たれば、お互いに無事では済まない。

 それならば……

「俺が受けてやんよ!その必殺技トッコーをな!」

 ニーダの右に並んだ鹿番長が、車体をさらに右に傾ける。

(おいおい、そこはまずい)

 デスペナルティは、攻撃を中止しようと考えた。しかし、一度滑り出した車体は立て直せない。狙いを少し変えることは出来ても、このまま斜面を滑り落ちる運命は代えられない。

 もし、ここで攻撃を外せばどうなるか……

 ガードレールを飛び越えて、川に落ちるのは自分だろう。そう、デスペナルティは判断する。しかし、鹿番長を都合よく避けて、ニーダにだけ衝突する方法も思いつかない。

 何より、落車しないようにコントロールする方に意識が向く。だから新しい作戦を考えることができない。

「そこをどけ!鹿番長くん」

「かかってこいや。クソ野郎!」


 ズガァァアアアン!!


 この世が終わったんじゃないか。

 少なくとも当事者たちの主観ではそう感じる程、大きな衝撃が奔った。

 鹿番長の右側、真横からデスペナルティが接触する。お互いにハンドルを持つ肩と肩をぶつけ合わせて拮抗する。

(ここで俺が落車たおれたら、ニーダ姉ちゃんまで巻き込んじまう)

 そんな思いから、鹿番長は車体を右に傾け続ける。ハンドルはまっすぐにキープ。ここで下手に曲げると、かえって逆効果だ。前輪が逆回転でもしたら、あとはあらぬ方向に持っていかれるだけである。だからこそ、ハンドルは直線を保つ。

(――鹿番長。私のために時間を稼いでる……?)

 考えながらも、ニーダは自分に出来る精一杯の速度で走る。鹿番長の善意を無駄にしないためにも、応援してくれているスポンサーのためにも……

(――ここで、逃げるしかない)

 呼吸が整わないのも、恐怖で足が震えるのも、すべてを無表情の中に隠してひた走る。

 そのペダリングは荒く、ハンドル操作は緩い。しかし……

(へっ、いい騎乗ライドだぜ……ニーダ姉ちゃん)

 鹿番長は満足した。ニーダを逃がすことができたから。


「いい加減に、邪魔なんだよ!」


 デスペナルティが、思いっきり体重を預ける。

 耐えられなくなった267が、大きく軌道をずらす。その正面に見えるのは、袖ビーム。つまり、ガードレールの端だ。

(やべぇ!んだ!?)

 鹿番長がそう思った頃には、もう遅い。ガードレールは目前に迫る。その向こう側が、崖である。

 ガードレールと衝突した車体が、大きく跳ねて外側に出る。空中に投げ出される浮遊感と、どこまで落ちるのか分からない恐怖の中、鹿番長は必死に摑まるところを探した。

 ガードレールに、手がかかる。自転車用のグローブ越しでも、指がちぎれるように痛い。しかし、離すわけにもいかない。

(しまった!267が!?)

 愛用するファットバイクが、そのまま鹿番長の手を離れて落ちていく。崖の底。川が流れる場所へと――



 ――カシャン――



 遠く、小さく、音がする。強く、激しく、金属がぶつかる音。どうやら川の中に落ちたのではなく、その岸の岩場に落ちたようだ。



『デスペナルティさんが、鹿番長さんと接触。それによって、鹿番長さんがコースの外の……崖に転落しましたぁ!

 あ、いえ、待ってください。鹿番長さん自身は無事です。ガードレールに摑まって、いま這い上がってきました。中継車のスタッフが手を貸します。

 繰り返します。デスペナルティさんが鹿番長さんと接触。それにより、鹿番長さんの車体が落下しました。たしかそこは……ああ、崖ですね。CAPTAIN STAG 267が崖に落下。高さは目算で15メートルほどだと思いますが……

 いま、中継車からカメラマンが下りました。そのまま崖の下を覗き込みます。

 うわぁ……折れてます。詳細は不明ですが、少なくともフロントフォークが大破。車輪もねじ曲がってますねぇ。ファットバイクのホイールでも、曲がることってあるんですね。

 タイヤもパンクしたようで、まるで漫画に出てくるパンクのようになっています。大きなタイヤが変形して、ボコボコな状態に……

 これ、自転車好きからしたらグロ画像ですよぉ』


 ミス・リードが実況する放送を、ニーダはイヤホンで聞いていた。振り返ることは出来ない。仮に振り返っても、もう何も見えない。

「――鹿番長」

 キュッと目を閉じたニーダは、そのまま大きく深呼吸する。そして、目を開く。感傷に浸っている時間はない。自転車は刻一刻と進んでいるのだ。目を開けて、ハンドルを握って、前を見ないといけない。




「くそっ、何でこんなことになった!何で!!」

 突き飛ばした本人でさえも、後悔していた。もっとも、彼の真意は分からない。

「くぅ……は。俺は悪くないよ。そうだとも。あの男が勝手に割り込んできたんだ。俺が落とすのは、キャノンデールだったはずなんだ」

 大きく肩を落としたデスペナルティは、自信の愛車に語り掛ける。いつものように楽しそうにではなく、明らかに悲しそうに。




 それからの1時間は、あっという間に過ぎていった。ニーダは逃げ切って偶然宿を見つけ、デスペナルティは意気消沈してコースを外れる。別にリタイアするわけではない。少し休憩するだけだ。

 そんな中、鹿番長はミス・リードに道を尋ねた。崖の下に続く道は無いか、と。

 幸いにも、遠回りではあるが降りられるらしい。それを聞いた鹿番長は走った。もしかすると、267はまだ無事かもしれない。そんな期待を抱いて。


「まあ、そんな可能性コトねぇよな。分かってたよ……」

 フロントフォークのエンドは、溶接部を境に折れている。車輪は原形を留めないほどに曲がり、ハンドルもステムに近いところから曲がっていた。そのステムも溶接がはがれかけている。

「ルック車は溶接が適当ラフだから壊れやすい、か。いや、この高さから落ちたら、合金クロモリだって大破ぶっこわれるよな」

 車体の部品を回収して、すべて担いで歩く。総重量16kgにもなる車体を持って、コースに戻る。

 いったい何をしているんだろう。そんな思いがよぎる。

 これを担いでレースに戻る気なのだろうか?それで一体何ができるのだろうか?


 所詮は安物だと馬鹿にされた相棒で、このレースを制してみせる。それは、鹿番長の悲願だった。地元の人たちは応援してくれた。主に自転車を知らない人ばかりが、だ。

 田舎は暖かい。なんて言う人もいるが、この応援は無責任なものだ。所詮は、地元から有名人が出たら自慢したいだけ。そうやって自分では何もしないくせに、鹿番長がいい勝負を見せれば勝ち誇るのだ。まるで自分の事のように……

 それでもいいと、鹿番長は思っていた。大事なのはルック車で勝つことだ。安物が高級品と渡り合えると、実績を以て証明することだ。地元がどこだとか、そんなのは関係ない。

「ああ、なんだ。もう俺は、戦う理由ワケなんて無ぇじゃんか」

 高級車に乗った連中と、もう十分に戦った。そして、局所的とはいえ勝利してきた。だから、もういいんだ。世間だってルック車を十分に見直しただろうし、地元だって優しく迎えてくれるだろうさ。

 そして、また褒められもしなければ、貶されることもない日常に戻る。

 このまま中学を卒業して、知り合いの工務店にでも雇ってもらって、そこで修行して金を稼ごう。

 そしたら、また新しい自転車を買おう。今度こそ高価な自転車を買おうかな。それとも、同じ車体を買い直そうか。

 今は中学生だから、小遣いに限界がある。でも、社会人になったら話は変わるだろう。


 リタイアしよう。そして、地元に帰ろう。

 スマホを取り出し、ミスり速報から凸電機能を呼び出そうとする。そこでようやく、気付いた。

「あん?割れてんじゃねぇか」

 画面にひびが入っていた。かろうじて本体は生きているものの、操作は全くできない。ミス・リードの声は聞こえるものの、他に一切の機能が使えない。

「そっか。タッチパネルって、こんな弱点もあんだな」

 アスファルトの上に、267の部品を並べる。そうやって、地面に視線を落とす。


 そこに、一台の自転車が通りかかった。

 複数のチェーンをジャラジャラと鳴らし、雨の中でも力強く走る車体。それがブレーキをかけて、鹿番長の前に停まる。

「やあ、お前が鹿番長……で、間違いないようだな」

 甘くとろけるような声色の、しかしどこか高圧的な声が降ってくる。

「誰だ?てめぇは……」

「ふふっ。俺様が分からないか?……だろうな。一度会っただけだ。それも、お前は俺様をあっさり抜いていくだけだった。でも俺様は思ったよ。お前とはもう一度会う運命だってね」

 その男は自転車に跨ったまま、鹿番長を見下ろしている。いつまでも座っているわけにはいかないと思った鹿番長は、立ち上がろうとした。

 それを、男は右手で制する。

「ああ、いや、そのままの姿勢でいい。君は自らの車体を弔っているつもりだろうが、はたから見れば俺様に頭を垂れているようにも見える。それでいいんだ。それが正しい頭の高さだよ」

の高さだぁ?」

 怪訝に思う鹿番長に、男は手を差し伸べる。

「力が欲しいか?鹿番長」

「力……」

「そうとも。この窮地を脱して、再び上位争いへと食い込む力だ。俺様なら、貸してやれる」

「……てめぇ。本当に何者だ?」

 自転車を降りた彼は、鹿番長の目の前にしゃがみ込む。雨のせいで、お互いずぶ濡れだ。しかし、彼は不思議と高貴な印象を崩さない。

 整った顔立ちを持つ彼は、鹿番長を覗き込んだ。

「俺様の事は、綺羅様と呼ぶがいい」

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