第24.5話 女王の帰還とフリーコグ

 通常の3倍速い、と言ったら嘘になるものの、赤い彗星のロードバイクは、確かに速かった。

 もう6日目の夜だというのに、そのスタミナは落ちていない。これが今年50歳になる人の走りだというのだから、驚きを通り越したものだ。

(これなら、私の勝利もあり得るな。少し欲を出してもいいかもしれん)

 そんなことを考えた彗星は、さらに速度を上げる。背中を丸めて、柄にもなく平地でのアタック。そのまま後続選手との差を開き、逃げようと試みる。

 ギアは最大。速度は68km/hまで上昇。リカンベントなどの特殊なバイクを除けば、平地で出せる限界は70~75km/hとも言われている。ロードバイクでこの速度が出せれば十分だろう。

(私も、まだ戦える)

 そんな彗星の横を、白い機体が追い越した。

 あまりにも驚きの光景だったので、彗星は一瞬、ペダリングを止めてしまう。それはそうだろう。たかがブルホーンハンドルのピストが、ドロップハンドルのロードを追い越していくのだ。想定外にもほどがある。

 その白い車体に、彗星は見覚えがあった。とはいえ知り合いではない。相手が有名人であるため、一方的に知っている。

(ええい、女王のピストバイクは化け物か)

 それは、ベロドロームの女王と呼ばれたプロ選手が使用する、プライベートなピストバイクだ。



『つ、ついに100人抜き達成!

 エントリーナンバー003 風間史奈選手。たった今、エントリーナンバー079 赤い彗星選手を抜きました。

 昨日の朝まで雪で立ち往生していた史奈選手ですが、この40時間足らずで100人の選手を抜いて、現在順位は35位ですぅ。これ、優勝も十分にあり得る話になってきましたよぉ。一時は最下位に転落しましたが、優勝候補に返り咲きですぅ。

 これが、通称ベロドロームの女王と呼ばれるプロ選手の実力……その名に恥じない戦いぶり、お見事ですねぇ。

 ちなみに女王様と言えば、私も最近SMプレイに興味が出てきまして……』


 ミス・リードの実況に、当の本人、史奈は呆れる。

(解ってないわね、リードちゃん……それとも一般の視聴者さんには、数を言った方が盛り上がるのかしら?)

 〇人抜き、というのは、状況によって素晴らしさが変わってくる。例えば個人パーシュートなら一人を抜いただけで勝利が確定するが、これがグランツールともなれば100人抜いたところで勝利したことにならない。

 ましてチャリチャンなら、どの程度の人数が参加しているかによって、追い抜ける人数も変わってくる。この2日間で600km以上を走ったが、その間に100人いたから100人抜きになっただけだ。仮にその区間に1000人いたら1000人抜きになった。それだけの話である。

 とはいえ、100という区切りのいい数字を提示した方が、観客が盛り上がるのも確かだろう。自転車レースを解っていない人にとっては、『100人ってどのくらい凄いのか解らないけど、なんか凄い』という漠然とした評価につながりやすい。

 この際、素人ばかりの観客に求められるのは分かりやすさなのだ。だからこそ、史奈の持っている世界一位の金メダルは、もてはやされる。その辺の事情をよく知る史奈だからこそ、あえてミス・リードの下手な実況にはツッコミを入れない。

 代わりに、凸電機能を使って茶化しておく。

「ご機嫌ね。リードちゃん」

『あ、史奈さん。丁度あなたの話をしていたんですよぉ。100人抜き、おめでとうございます』

 嬉しそうに話すミス・リードに対して、史奈は口の端をゆがめた。蠱惑的な笑みであり、同時に悪魔的な表情でもある。小悪魔などと可愛らしいものではない。

「リードちゃんの100人抜きも壮絶だったわよ」

『え?私の……100人抜き、ですかぁ?いったい何のお話でしょう?』

 当然、一度もレースに出たことのないミス・リードは困惑する。そこに畳みかけるように、史奈がカマをかけた。

「去年の春ごろに出してたじゃない?梨乃ちゃんが100人の男の人に囲まれるやつ。私ったら、あれのDVD版まで買っちゃったわよ。あの時のトロトロになった梨乃ちゃんが可愛くて……あ、あれは100人抜きじゃなくて、100人ぶっかけだっけ?」

 ミス・リードの事を梨乃ちゃんと呼び、過去の出演作品の企画を語る。

 その言葉に、ミス・リードこと三隅梨乃は、思い出したように手を打った。


『ああ、アレのお話ですかぁ。見てくれたんですねぇ。っていうか、私の事を知っててくれたんですねぇ。

 ああ、憧れの史奈さんが私の痴態を見てくれたなんて……嬉しさと恥ずかしさでいっぱいですぅ。ちょっと驚きすぎて漏れちゃいましたぁ。何がとは言いませんけど。

 そうなんですよぉ。100人ぶっかけだったんですけど、私が手や口で抜いてあげられたのは半分ほどなんです。あとは皆さん、セルフでしごいて、イキそうになったら私に近寄ってぶっかけていくんですねぇ。

 今でも忘れられない子が一人いましてね?その子は後ろの方でしごいてたんですけど、タイミングが悪かったんです。私の膝にようやくかかるくらいで終わっちゃったんですねぇ。

 で、収録が終わった後に私の部屋に来て、もう一回やらせてくださいって言うんですぅ。もう、可愛くてしょうがないですよねぇ。だから、どこに出してもいいよって言ったんです。お口でも、顔でも、中でも良いよって。

 そしたら中って答えたので、そのまま生で本番に……』


 そこまで言ったミス・リードは、ハッと我に返った。先ほどまでとは違う意味で体中に怖気が走る。紅潮した顔がみるみる青ざめていく。

『あ、あの……いつから、私の正体に気づいていたんですかぁ?』

 ミス・リードの正体は、大会期間中は秘密にしておく必要があった。事務所の意向であり、その方が話題性を作れるからだ。だというのに、史奈は完全にミス・リードの正体に気づいていた。

 しかも、あろうことかミス・リード本人が正体を語ってしまった。

「うふふっ。だって私は、貴女のファンなんですもの。気付くわよ。具体的には、イっちゃうときの声が特徴ね」

『そ、そんなところで……あ、今の放送はカットしてください。え?生放送だから無理?そ、そんなぁ』

 まあ、おそらくそんなことを話題にするのは史奈くらいだろうと思う。大多数の視聴者や参加者にとって、実況者の正体などどうでもいいものだ。何より今の会話でピンと来ていない人が多いだろう。

 ちなみに意味が分からなかったという良い子のみんなは、大人に聞いてはいけない。

 意味が分かったという大人のみんなは、運営に通報してはいけない。作者との約束だ。マジでBANされかねない。


(それにしても、ブレーキで止まるって久しぶりね)

 史奈はブレーキレバーを握りながら、そう思っていた。

 鉄板にネジ穴を取り付けただけのブレーキ台座は、一応フレームにしっかり固定されている。万力でフレームを締め上げるという、少々不安な方式ではあるが。

 Dura-Aseのブレーキはキャリパーの割には強力にロックする上に、非常に繊細だ。その力をもってすれば、史奈が力任せに漕いで加速した車体を、自由に制動することが可能である。

 ここで、一つ疑問が浮上する。

 史奈はレース中に、ブレーキを取り付けないはずだった。バックを踏むことで停止するのは、ピストバイクの最もスタイリッシュな停止方法だからだ。ではなぜ今更ブレーキを搭載したのか。

 答えは、新たに取り付けたホイールセットにあった。

 ヤフオクで落札したDURA-ACE TRACK HB-7600は、ダブルコグを搭載したフリーハブだ。

 左右両方にコグが付いているが、当然、チェーンは一本しかない。そのチェーンをどちらのコグに付けるかを選択することで、フリーハブとしても固定ハブとしても使える。切り替える際にはホイール自体をひっくり返す方式だ。

 ただでさえ世界チャンピオンのケイリン選手である。その瞬発力に、フリーハブの持久力と巡航性能が加わったらどうなるか。結果は見てのとおりである。

(フリーハブなんて久しく使ってなかったけど、案外悪くないものね。ローディ時代を思い出すわ)

 ふふっと笑った史奈は、ヘルメットを外して頭を振った。非常に短いベリーショートヘアーは汗に濡れ、寒空に湯気を立たせている。その表情は疲れ以上に、満足感にあふれ、女王と呼ばれた気品はまったく損なわれていない。

 さすがに疲れ切った脚を休めるため、今日の宿へと向かう。泊まれるならどこでもいいが、飛び入りで対応してくれるところがあるだろうか?

 もともと予約していたホテルは、雪の都合で全てキャンセルしてしまった。ここからは高級ホテルに泊まり続けるような生活も出来ないだろう。

「さて、どこならいいかしらね?ミス・リード?」

 史奈はミス・リードに尋ねた。ほどなくして、コースの近くで営業しているホテルが見つかる。チャリチャンのスポンサーにもなっているホテルらしい。こういう選手への案内の早さと的確さは、ミス・リードの真骨頂。




 幸いにも、ミス・リードの正体に気づいたのは史奈だけだったようで、5ちゃんでは未だに『ミス・リードは自転車メーカーのご令嬢?』といった普通にハズレの予想から、『野獣先輩ミス・リード説』といった当てる気のない予想までが飛び交っている。

 ひとまず安心したミス・リードは、もう一人のミス・リードと交代する前に、史奈のハイライトを行っていた。


『ええっと、昨日の朝にホテルを出発した史奈さん。その後の走りは信じられないものになっていますねぇ。中継車を回す予定でしたけど、あまりの速さに車両が追い付かなかったため、固定カメラの映像を繋ぎますぅ。

 念のため言いますけど、早送りとかCG加工とか、一切していませんからねぇ?それでこの速度……このときのスピードガンの計測は79km/hですぅ。まだ驚いてはいけませんよぉ。


 こちらは自然公園。さすがにオフロードをピストバイクで走るのは不可能と判断した史奈さんは、自転車を抱えて走ります。茜さんと次郎さんが走った道をたどり、ついたのは展望台。これでは行き止まりみたいなものですねぇ。

 そこから手すりを越えて、崖の下まで自力で一直線。その後のタイル敷きの地面に着地すると、自転車を叩きつけるように地面に置いて発進。その先に待ち構える川を一息で飛び越えます。

 ジャンプなんて生易しい走りじゃありません。フライトです。テイクオフですぅ。どんな脚力してたらピストでこれが可能なんですかぁ……


 シーンが変わりまして、砂浜です。さすがにタイヤが沈みますぅ。

 話は変わりますが、水の上を歩く方法って知ってますかぁ?右足が沈む前に左足をつけばいいらしいですねぇ。水に片栗粉を混ぜると、ダイラタンシー現象で実現できるそうですよぉ。そして閑話休題。

 史奈さんはタイヤが沈む前に、次の砂を踏めばいいと考えたようですねぇ。アスファルトから加速して、ジャンプ気味に砂浜に着地。その速度を維持したまま、砂に埋まる暇もなく前進していますぅ。

 え?カメラに何も映ってない?ええ。砂埃が原因ですぅ。ごめんなさい。何も映ってないですねぇ。

 史奈さんが走った後の砂浜がこちら。かめはめ波が通過した後のように、地面が一直線に抉れています。これ、史奈さんのタイヤ痕なんです。幅1メートルくらいかなぁ?自転車から衝撃波でも出しているのかと思いきや、ただの風圧でした。

 そしてボブさんに誘われて、ボブさんの家に一泊していますぅ。史奈さん、仮にも女性なんですから男の人にもう少し警戒してくださいよぉ。あとボブさんも、勝手にチャリチャン選手をナンパしないでください。


 こちらは登板車線。さすがに苦戦を強いられると思ったのか、コグを変えていますねぇ。変速ギアこそありませんけど、こうして部品の交換で走りが変わるのはピストの醍醐味と言えるかもしれません。

 13Tから18Tに変更した史奈さん。え?そんなに言うほど変わってませんかぁ?そうですねぇ。チェーンの長さに限界があるので、この程度で抑えたのでしょう。

 そこからは大胆なダンシングで突っ込みますぅ。その速度は18~30km/hですが、傾斜は平均で9%もある登り坂ですよ。いや、これ本当なんですぅ。ペダルを踏むたびに地面が揺れている気がしないでもないですよぉ。

 下り坂では快調に飛ばしていますねぇ。フリーハブのおかげでどんどん加速しますよぉ。なんと最大95km/hを記録……ここって、ヘアピンカーブと落石の多い地域なのですけどねぇ。あの赤い彗星でも苦戦したところを平然と下りますぅ。

 曲がるときは、路側帯のさらに外側にある縁石をバンクに見立ててコーナリング。いや、吹っ飛んだら奈落の底まで一直線なんですけど、どうして怖がらずに突っ込めるんですかねぇ?


 さあ、お待ちかねの線路セクション。間もなく、一番線を史奈さんが通過します。黄色い線の数メートル後ろまで下がってお待ちください。

 タイヤから完全に空気を抜いた史奈さんは、そのまま線路の上を猛スピードで走っていきますぅ。空さんが使った方法に似ていますが、あっちが空気圧を少し残したのに対して、こちらは気圧ゼロ。ここでタイヤを履き潰して構わないという考えですねぇ。

 線路を越えた史奈さん。タイヤを新しいものに交換しますよぉ。いまどき珍しいウイングナットですねぇ。それを回して、慣れた手つきでホイールを外しますぅ。

 で、ここからは手つきが速くて見えないのですが、一瞬でワイヤービードを外して脱輪。さらに輪ゴムでも被せるかのような軽さで、新しいタイヤを装着していますぅ。え?いや、本当にどうやっているんですか?

 使っているのは700×23cのクリンチャー。チューブが挟まったりすることもなく、あっという間に交換完了。CO2インフレーターで仕上げます。

 ちなみに、この大会では車体登録と選手登録を同時に行っているので、車体フレームそのものを乗り換えることは禁止しておりますぅ。逆に言えば、このような改造や修理は自由ですよぉ。

 人馬一体の精神こそ、このチャリチャンの目玉ですからねぇ。


 またしても、お得意の急加速ですよぉ。見通しの悪い街中でも容赦しません。スリップ覚悟のコーナリングを、まるでドリフトのように決めていきます。まあ、スキッド自体は慣れているんでしょうけど、直線で後輪を滑らせるのとはわけが違いますよぉ。

 安全のため、道路を封鎖して大会を開催しているのですが、他の参加者はコース内にいるわけですよ。スリリングですねぇ。相対速度も凄いことになってますぅ。抜かれる側は怖かったでしょうねぇ。

 ご覧ください。他の自転車が弾き飛ばされるように道を開けていきます。これ、やっぱり風圧なんですよぉ。もはや衝撃波ですよね?』


 ここは少年ジャンプではない。と言いたくなるようなハイライトを終えて、ミス・リードは一息ついた。もはやピストの走りではない。それを突き抜けた何か……ピヌトである。




 カポーン――




「……と、いうわけよ」

「ほぼ化け物じゃないか……」

 茜はその話を、ミス・リードの実況からではなく、史奈本人から聞いていた。それも露天風呂で。

「茜ちゃんだって、鍛え方によっては同じことができるわよ」

 偶然にも、茜たちと同じホテルに泊まることになった史奈。露天風呂が売りと聞いてやってきたら、こうして再会した次第である。

 1月の寒さと、少し熱めのお湯。その組み合わせは意外に極楽だ。

「アタイにも、出来るかな?史奈さんみたいな走り……」

 茜は自分の華奢な身体を抱え込むと、史奈の方を見た。

 一糸まとわぬ史奈。その艶肌は31歳という年齢を一切感じさせない。10代で通用しかねない程だ。その肩は細く、腕も引き締まっている。少し小さめの胸に、女性らしい細いウエスト。そして柔らかな曲線を描く腰……からの、筋肉に固められた太い脚。

 そこだけコラージュしたんじゃないかと思うほどの違和感を放つ下半身。少し足を曲げるだけで膨れ上がり、大きくせり出す筋肉。大きなお尻は部分的にくぼみ、太ももだけでなく、ふくらはぎまで脈動する。

 ゴクリ――と、茜は唾を飲み込んだ。一般的に好まれる造形かはさておき、茜には史奈のその肉体が、妖艶で美しく見える。

(ふふっ、可愛いわね。茜ちゃん……)

 その視線に気づいていた史奈は、ファンサービスを兼ねて見せつける。ただ、それは普通のサービスじゃない。

 茜に、こちら側に来る覚悟があるかと問う。そんなサービスだ。一度踏み込めば、二度と普通の女の子に戻ることは出来ないプロの世界。文字通り人生を自転車にかけた者だけが、来ることを許される世界。

 そこを目指すために、人生の多くを犠牲にしなくてはならない。

 そこにたどり着くために、自分の命を賭けなくてはならない。

 そこまでしても、史奈のようにチャンピオンになれる保証はない。史奈だって、来年には世界一の称号を奪われているかもしれない。そんな世界だ。そこに足を踏み入れるのは、異世界転生と呼んで差し支えない。

 しかし……

「――そうだな。アタイも頑張るよ」

 茜はそれを、さも当然のように言った。この場で決意したのではない。普段から決めていたことを、問われたから改めて答えただけに過ぎない。

「あら、そう?」

 史奈は、その意思を確かに受け取る。そして、内心嬉しくなった。

(この大会に、感謝ね)

 史奈はそう思う。

 自分はピストレーサー。茜が目指すのはロードレーサー。世代だって違う。茜が仮にプロになれたとしても、その頃自分は引退しているだろう。

 そんな自分たちが、チャリチャンなら戦い合える。年齢もカテゴリーも問わない大会だからこそ、公平に競い合える。史奈は茜と戦えることを、嬉しく思っていた。

 茜は史奈に、そう思わせるだけの実力と覚悟を、既にこの段階で持っていた。


「ところで、史奈さんは明日も飛ばすのか?」

 茜が訊く。もし昨日や今日の無茶苦茶な走りをされ続けたら、あと数日でゴールまでたどり着いてしまうかもしれない。

「……そうしたいところなんだけどね。私も限界はあるみたいだわ。明日は少しだけ走る程度にとどめておこうかしら」

 もともとスプリンター……それもロード競技でいう脚質スプリンターではなく、スプリントレースの選手である。瞬発力はあっても持久力はない。

 まあ、分かったことがあるとすれば……

「私は毎日を全力で勝負するより、一日くらい空けて勝負した方がよさそうね。万全に回復したら、その時は走るわ」

 それでも勝てる計算が成り立ってしまう。史奈の爆発的な加速と、不可思議な怪力は他の追従を許さない。

(三尾さんとは逆か……)

 と、茜は思った。24時間好きな時に走っていいというルールは、ペース配分に自由さと戦略性を与える。通常の自転車レースのように、体力だけで勝てる勝負じゃない。

 史奈にしたって、ピストレーサーとしての筋力だけならここまでたどり着けなかっただろう。現地で自転車を修理する技術や、必要な部品を取り寄せる財力。ロードやMTBに乗っていた経験なども合わさって、ようやくここまで来ている。

(世界チャンピオンになって、ベロドロームの女王なんて呼ばれてるけど、井の中の蛙だったわね。私は……)

 と、史奈でさえ思うほど、自転車の世界は広いのだ。一周333.3mのベロドロームだけで語れるほど狭い世界じゃない。それが史奈にとっては嬉しかった。



「ねぇ。あれって風間史奈じゃない?」

「ええー、うそ?あ、ほんとーだー。わー」

「あたし、史奈キライなんだよねー。まっつんと喧嘩してたじゃん?」

「ああ、あのクイズ番組の?ひどいよねー」

「まっつんかわいそー」


 遠くから、そんな声が聞こえてくる。数人の女子高生(?)だった。本人たちは聞こえていないつもりなのだろうけど、がっつり聞こえていた。

「史奈さん。言われてるぜ?」

「言わせておけばいいのよ。有名税だわ」

 史奈は女子高生たちを見ないように、視線を逸らす。目が合うと面倒なことになるからだ。相手が聞こえていないつもりなら、こっちも聞こえないふりをしてやろうという配慮である。

 それを察した茜は、小声で史奈に聞く。

「そういえば、あの時はどうして、まっつんと喧嘩になったんだ?」

 まっつんは女の子に人気の高い男性アイドルだ。温厚な性格で、あまり喧嘩をするイメージがない。史奈にしてもご覧の通りなので、二人が喧嘩するのは変な話だった。しかも、クイズ番組の誤答が原因なら余計に。

「……ここだけの話にしてね」

「アタイは口が堅いぜ」

 その言葉を信用して、史奈は茜に耳打ちする。

「あれは台本よ」

「え?いや……え?台本?クイズ番組に台本とかあるの?」

「全部じゃないけどね。たとえば、私が指示されていたのは24問目の答えを間違えること。間違え方も指定されていたわ。それ以外の問題は好きに答えてたけどね」

「ちなみに、どこまで台本なんだ?」

「私が間違えて、まっつんが慰めに来て、私がキレて喧嘩っぽくなる。そして出島が仲裁しようとして、私に蹴り飛ばされるまでが台本」

「ほぼ全部じゃんか。うわー、聞かなきゃよかった。出島だけはリアルガチだと信じてたのに……」

 テレビの裏側は、純粋な気持ちの視聴者にとって知らなくてもいいことだらけだ。史奈自身、知りたくなかったと思っている。もっとも、知ったら別な楽しみ方があるのも事実だが。

「ちなみに出島が痛がっていたリアクションだけは、リアルガチよ」

「え?どういうことだ?」

「私に蹴られたら、たとえ手加減してても痛いに決まってるでしょ。収録後、私の楽屋に出島のマネージャーが来たの。そして私とマネが喧嘩寸前までヒートアップして、仲裁に入った出島本人が私に再び蹴られるまでがリアルガチよ」

「番組より面白いじゃないか」

「放送できないけどね」

 そんな会話をして、再び女子高生らに目を向ける。彼女たちの話題も切り替わり、今はダイエットの話になっていたようだった。別に聞き耳を立てるつもりはなかったが、声が大きいので聞こえてしまう。


「自転車って痩せるっていうよねー。あたしも自転車乗ろうかな?」

「えー?でも筋肉付くから逆に太るって聞くよー」

「あそこに良い例がいるじゃん。史奈」

「ああ、あれはひどい」

「うわっ、太っ――女捨ててんじゃん」

「あはははっ、ちょっと言い過ぎー」

「てかキモッ……何したらあんなになるの?プロテイン?ドーピング?」

「はい、自転車ダイエット却下」

「むりむりむりむり。私なんか今より太くなっちゃうもん」


 ざばぁっ――と、茜が立ち上がる。

「ちょっと、茜ちゃん!?私はいいから――」

「――すまねぇ。史奈さんが良くても、アタイが良くねぇんだ」

 ざぶざぶと、露天風呂の中を歩いていく。そんな茜に気づいたのか、女子高生たちも話をやめて茜の方を見た。

 目の前まで行った茜は、彼女らに脚をすっと向ける。

「なあ、お姉さんたち。アタイの脚は太いか?」

 突然聞かれた女子高生は、困惑しながらも正直に答えた。

「え……と、細い?」

「うん。細いと思う」

「そうだね」

 同年代と比べても、茜は全体的に細かった。単にスレンダーというより、引き締まった筋肉という方が合っているだろう。

 それを聞いた茜は、さらに一歩前に出る。自ら、敵に囲まれに行くような位置。

「アタイはさ……平均で30キロもいかない。最大で70キロだ。ああ、体重じゃなくて、自転車の速度の話な」

 そう言われても、女子高生たちはピンと来ていない。茜はさらに解説を続ける。


「つまりさ。アタイみたいに70km/h出せても、この程度しか脚は太くならないんだ。史奈さんみたいな脚になったら、それこそ90km/hは出せる。

 お前らが言うような、足が太くなったらどうしようって心配はな……90km/h出せるような人がする心配なんだよ。それとも何か?お前らには才能があって、アタイなんか簡単に抜かせるとでも言うのかよ?笑わせんな。

 ちょっと自転車でお出かけした程度の運動で、足が太くなって、速くなって、レーサーになって、プロになっちゃったらどうしよう?って、そんな気楽なもんじゃないんだよ。

 東京に出たらスカウトされてアイドルになっちゃったらどうしようと同レベルだぞ。なろうに小説投稿したら、ボロクソ言われて炎上して、そのまま話題になって賛否両論でプロ作家になっちゃったらどうしようってか?笑わせんな」


 耳が痛い(by,作者)


「お前らみたいな素人が、知ったかぶりで史奈さんを悪く言うなよ。史奈さんは、確かにいろいろ犠牲にしてここに立ってるけど、それは捨てる覚悟じゃなくて、持つ覚悟なんだよ。

 日常を捨てるだけで、女を捨てるだけで、ここまで脚が太くなるわけないだろう?力を手に入れるため、毎日の努力と研鑽の上に、この脚があんだよ。

 それとも何か?お前らの言う自転車ダイエットは、毎日100kmを越える距離を走ることを言うのか?自動車よりも速く、自転車を走らせるダイエットなのか?

 だとしてもたどり着くのはアタイと同じ細い脚だ。しょせんこの程度の――!」


 そこまで語ったところで、茜の口は塞がれた。

 背後から史奈に、抱きしめられるような姿勢になる。史奈は左手を茜の腹部にまわし、右手で茜の口を押さえていた。

「うちの茜ちゃんが、ごめんなさいね。お騒がせしました」

 やんわりとした表情……とは裏腹に、腕にはかなりの力がこもっている。余計なことをするな、と茜に無言で語っていた。おかげで茜も抵抗できない。抑え込まれているせいもあるが、振りほどいたら史奈に怒られそうで怖いのだ。

 そんな無抵抗な茜を良しとした史奈は、そのままの姿勢で女子高生たちに言う。

「自転車ダイエット、お勧めよ。ただ、初心者は一気に無茶をするんじゃなくて、短距離でいいから毎日乗ることがいいわね。もちろん安全な速度で……それと、サドルを少し高くしてみて。脚に余計な負担がかからなくなるから、筋肉も膨れないわ」

 茜のお腹を押さえていた左手が、少しずつ下がってくる。誰にも触れさせたことのない場所を通過して、そのまま太ももへ……

 史奈は、茜の太ももを撫でまわすように揉む。意外と力は強い。茜は何かを言いたそうにしているが、史奈に口をふさがれているので喋れない。

「自転車に乗った日は、こうやってお風呂でマッサージしてみて。自転車ダイエットで脚が太くなるって話は私も聞くけど、たいてい筋肉太りじゃなくて、姿勢とサドルのせいでリンパがたまるだけよ。こう……ね」

 揉まれている茜は、初めて他人にマッサージされている感触と、それを女子高生たち含む周囲の人が見ているという羞恥から、頭の中が真っ白になりそうだった。

 抵抗を諦めきっていた茜が、小刻みに痙攣し始める。さすがにやりすぎた、と感じた史奈は、

「じゃ、私たちは失礼するわね。ごゆっくり……」

 茜を連れて風呂から出る。

 女子高生たちは、最後まで唖然としていた。



 茜をのぼせたことにして、ついでに廊下で偶然会った空にも挨拶をして、史奈はようやく自分の部屋に帰って来た。

 飛び入りで泊まれるところ。それも一番近くで、という指定に合わせて、ビジネスホテルのコンフォートクラスという微妙な部屋をあてがわれていた。

 特に不満のなかった史奈は、ホテルに無理を言って自転車を部屋に持ち込んでいる。純白のLeader Bikes 725TRだ。

(明日は、固定コグで走ろうかしら)

 後輪ハブのウイングナットを緩めると、正爪のリアエンドの前方に向けて、後輪ハブを押し込む。そのままたるんだチェーンを外すと、後輪をストンと抜き取った。

 そのまま左右を入れ替えて、先ほどと逆の手順で組みなおす。これだけの動作で、先ほどまでフリーハブだった車体が、固定コグに変貌するのだ。この手軽さこそ、ダブルコグの真骨頂である。

(オイルアップは……さすがに床が汚れたら困るから明日にしましょうか)

 ブレーキは外そうかと迷ったが、邪魔にならないと判断して付けておく。もっとも、仮にブレーキ台座が緩んで落ちれば、車輪に引っかかって危険だ。何しろピストにブレーキをつけること自体が困難な改造によるものだから、不具合は出やすい。

(外さないけど、せめて締めておきましょうか)

 合計しても20個程度のネジを増し締めして、ようやくベッドに入る。史奈は毎日のメンテナンスを欠かさない。どころか、多い時は1日で10回以上のメンテナンスをすることもある。

(明日が楽しみね。固定ハブ……数日乗ってないだけなのに、凄く久しぶりな気がするわ)

 そう思っていたのだが、


 翌日は、あいにくの天気となる。

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