第50.5話 移動キャンプと電動ユニット

 日本列島の中でも、関東と九州では1時間ほどの時差がある。つまり、九州を走っている選手団と、実況席にいるミス・リードの間に、夜明けの認識差がある。

 それをミス・リードは、嫌と言うほど感じていた。夜通し24時間、不眠不休の実況。もちろんトリックこそあるが、楽な仕事ではない。

 二人一役で交代する。その午前中を担当する方のミス・リードこと林道 美羽りんどう みうは、防音室の二重ガラスを見た。


『さあ、朝早くからおはようございますぅ。お馴染みミス・リードですよぉ。

 こちら東京は日が昇り始め、ビルの壁が白く見え始めてきましたねぇ。でも選手たちを映しているカメラはまだまだ黒い空を映し出していますぅ。

 この時間は多くの選手が眠っていますので、ほとんど実況の仕事も無いんですよねぇ……

 仕方がないので、私の高校時代の経験人数の話でもしましょうかぁ。あれはまだ私が15歳だった頃……いわゆるオタサーの姫ってやつだった頃なんですけど、初物食いにハマってた事がありまして――』


 もはや『気になる選手紹介』のコーナーさえネタが尽きたのか、最近のこの時間、ミス・リードは本気で困っているようだった。

 もっとも、それはまるで深夜の赤裸々なラジオ番組のように、起きている少数の選手の耳に届く。例えば、そう……


『おっと、凸電ですねぇ。エントリーナンバー002 三尾真琴選手からですぅ。三尾さんも毎日が徹夜ですねぇ。いつ寝てるんでしょう?』


 三尾は、相変わらず眠らないまま走っていた。その身体には疲労の色は感じられず、目の下にもクマひとつない。しいて言えば髪が伸びているくらいの変化しかない。

 空たちと会ったあの日より、さらに1cmほど伸びた黒髪は、目にかかりそうなくらいになっている。最も鬱陶しいと思える長さだろう。襟足もようやく襟を隠すほどになっていた。

 そんな彼は、凸電を用いてミス・リードに語り掛ける。

「いやー、ミス・リードさんが楽しそうな話をしていたから、ついボクもむらむらしちゃってね。どうせ誰もいなくて困ってるんでしょ?ちょっとお喋りしようよ。レースと関係なしに」

『え?ええ、構いませんけど――』

「よし、決まり。じゃあちょっと待っててね。ゆっくりお喋りしたいから、コーヒーでも淹れるよ」

 ここで注目してほしいのは、彼がコーヒーを『買う』のではなく、『淹れる』と言ったところだろう。近くには自動販売機やコンビニなどが見当たらないし、小さな町の商店はもちろん開店前だ。

 彼は自身のカーゴバイク、BULLITTブリッツのフロントコンテナから何かを取り出した。

 携帯用のガスバーナー。そして簡易的なキャンプ用コンロと、1000ml入るポットだ。

「ふんふふんふーん。ふふふんふん」

 楽し気に鼻歌を歌いながら――音痴であるのに何故か嫌いになれない歌を歌いながら、ガスバーナーに点火する。それを地面に置くと、続いて1.5mlのペットボトルを取り出し、水をポットに入れた。

『あの……三尾さん、もしかしてその場でお湯を沸かそうとしていますぅ?』

「うん。大丈夫だよ。ちょっとくらい路上でお湯を沸かしても怒られないって。コーヒーフィルターも豆もあるし、淹れたらステンレスボトルに移してまた走るからさ」

 さすがに、火を焚きながら自転車に乗る勇気は無いらしい。一日に23時間は走れると言われた彼が、珍しく足を止める瞬間だ。



「さて、それじゃあコーヒーでも楽しみながら、ちょっと電動アシストに切り替えて走ろうかな」

 三尾はそういうと、コンテナから再び何かを取り出す。

『おおっと、それはまさか、Rubbee Xですかぁ?』

「ふふふっ。その通りだよ。ボクのお気に入り」

 ハンドバッグ程度の大きさの、持ち手が付いた金属の箱。その中には、電動モーターとバッテリー、そしてローラーが内蔵されている。いわゆる、電動アシスト改造キットだ。

 もともと電動アシストとして設計されていない自転車を、無理やりにでも電動に変える。そんな夢のような発明品である。

 それをシートポストに、クイックリリースで取り付ける。そして下面部のローラーを、後輪の上に接触するようにセット。これでタイヤを直接回すという仕組みだ。

「日本だとなぜか認可されてない部品なんだよね。チャリチャンなら使えるけど、コースから一歩でも外に出たら怒られちゃう」

『そうですねぇ。日本の電動アシストに対する法律は、他国と根本的に違いますから……そのせいでYAMAHAやBridgestoneが出す高性能Eバイクが、海外に普及しないという問題点はありますぅ。勿体ないですねぇ』

「ボクとしては、海外製のEバイクを日本に持ち込めない方が残念だけどね。トライク二等兵さんのジャガーノートだって、とても美しい車体だったじゃない?そういうのが一律で禁止って、視野が狭いよ」

 寂しそうに言った三尾は、再び自転車に跨りペダルを漕ぎだす。彼のブリッツのBBシェル後方には、クランクの通過を確認するケイデンスセンサーが増設されていた。これでペダリングを感知して、自動でモーターを回転させる仕組みだ。


「問題があるとしたら、航続距離が短い事と、重量が重い事かな」

『そうですねぇ。こちらでも調べてみましたが、本体重量が2.2kgで、バッテリーパックが0.6kgですかぁ。まあ馬力を考えるなら、さほどの重さじゃないんでしょうけど……』

 実はこのRubbee Xは、バッテリーパックが取り外し式で、しかも3個まで内蔵できる。1個当たりの走行持続距離は16km程度だ。その段階でも、本体2.2kg+バッテリー0.6kgで、合計2.8kgの重さになる。

 2個のバッテリーを搭載すれば、距離は32kmで重量3.4kgだ。3個のバッテリーをフルに搭載すれば、距離48kmで重量4.0kgになる。

 今回、三尾が持ち込んだバッテリーパックの数は、実に6個。一気に搭載することはできないので、こうして交換することが必要になるが、それでも一度の充電で96kmの走行が可能。しかもバッテリー含めて5.8kgに収まるのは、ある種の脅威と言えただろう。

『恐ろしいシステムですねぇ。もしもこれがカーゴバイクではなく、ロードバイクなどに搭載されていたらと思うと、怖いですよぉ。大会のレギュレーションを覆しかねませんからねぇ』

 ミス・リードは、改めて自分の実況する大会が、抜け穴の多いルールで開催されている事を実感する。しかし三尾は首を横に振った。

「カーゴバイクだからこそ、これほどたくさんのバッテリーを携帯できるんだよ。さすがに背中に背負ったら、肩こりで大変な事になっちゃう」

『そ、そんなものですか?』

「うん。そんなものだよ」

 最初こそペダルを重そうに漕ぎ出した三尾だが、それがセンサーに感知され、モーターが動き出す。するとすいすいと走れるのだ。

 脚への負担の軽減と、何よりモーターを最大限生かすため、あえてギアを重くしない。内装型8速のALFINEを3速ほどに留めて、ゆったりと走る。

 ケイデンスは高いが、速度的には一般的なママチャリ程度。これが、三尾という選手の走り方だった。

 夜通し走るため、朝になる頃には先頭集団に名を連ねている。しかし速度が遅いので夜までには最下位近くに落ちる。そして翌朝には再びトップに追い付いている。

 そんな彼を、いつしかファンたちは『もう一人の優勝候補』と呼ぶようになっていた。もっとも、本人にそんなつもりはないのだが。


「ところで、ミス・リード」

『はいはい。何でしょうかぁ?』

 気の抜けたような三尾の声に、いつもハイテンションなミス・リードも少し引っ張られてしまう。お互いにゆったりとした喋り方の中、三尾はとんでもない名前を出してきた。

「林道美羽さんって同人声優さん、知ってる?一部では『MU姉貴』って呼ばれている人なんだけどさ」

『え?……えっと』

 知ってるも何も、ミス・リード本人である。

(ま、まさか、私の正体がバレたとか、そそそそ、そんなんじゃないですよねぇ。でも、三隅さんも『史奈さんに感づかれた』とかメモを残してましたし……)

 どぎまぎとしている彼女をよそに、三尾はさらに話をつづけた。

「ボク、その人のファンだったんだ。一度だけコミケで見かけたんだけど、やっぱり可愛くてね」

『え?ああ、えっと、その時のわた……林道さん、どんな格好してましたぁ?』

「えっと、結構初期の頃だからなぁ。確か、北方プロダクションのゼロ戦さんコスだったかな」

『……』

 これは、間違いない。

(バレてるっ!絶対バレてるぅ)

 どう言い訳をしたものか、と考える林道。何しろ正体不明のままで実況することによって、この大会を話題にすることも仕事のうちだったのだ。

 しかし、


「ボクの初恋、みたいな感じだったんだよね」


『え?』

 気づかれてない……あるいは、気づいていても知らない振りをしてくれる?

 どちらかは分からないが、三尾からは正体をばらしてやろうなどという気持ちは感じられなかった。

「ねぇ。ミス・リード。君の声が、その人に似ているんだ」

『そうなんですかぁ?』

「うん。二次創作の同人音声も良かったけど、一番好きだったのは、オリジナルの耳かきボイスかな。演技とかじゃなくて、素の彼女に一番近い気がしたからね。それこそ、今のミス・リードみたいなキャラで……」

 低くモーターの回転音と、ロードノイズが響く中。それでも三尾のブリッツは、自動車よりかは静かに走っていた。タイヤとローラーがこすれ合う音は、遠くに響く新聞配達のバイクより、さらに静かで――

 まるで、世界が止まっているようにも思えるなか、遠くに見える山の稜線が、少しずつ色を付けていくのが見える。

 その光と、自分の自転車だけが、世界中で動いている全てじゃないか。そんなふうに三尾は感じていた。

 あとは、イヤホンに入るミス・リードの声……


 ガサッ……


「!?」

 三尾の右耳につけたイヤホンに、何かをひっかくような音が聞こえた。それは優しくて、でもハッキリと聞こえてくる。まるで耳の中に何かを突っ込まれたかのような音。

 そして、囁き声。


『あ、お目覚めですかぁ?……ふふっ。永久亭へ、ようこそ、ですよぉ』


 いつものマシンガンのような速さと、嵐のような目まぐるしさを持ったミス・リードの声じゃない。まるでのんびりと日向ぼっこに誘うような、眠くなる声。


『当館の小町を務めさせていただきます、林道美羽ですぅ。お客様には……三尾様には、どうかゆっくりと休んでいただきたくて、招待させていただきましたぁ』


(あ、これって……)


 三尾は、このセリフに覚えがある。先ほどから話している、美羽の耳かきボイスドラマ。その冒頭だ。


(ボクが、好きだった作品……)




 三尾が眠らなくなったのは、別に子供のころからじゃない。

 少なくとも自分の覚えている限りでは、小学校にいたころまで、普通に眠っていた。

 もちろん運動会や遠足前に眠れなくなったりはしたが、それは正常の範囲だ。


 はっきり眠れなくなったのは、中学に入ってから。


 眠くなくなったのだ。寝方を忘れたのだ。

 そんな自分の不気味さをごまかすためにも、少しでも眠るためにも、いろんなものに手を出した。安眠グッズ。快眠CD。そう、何でも……


 その中でも、特に気に入ったのが、美羽の声と耳かきの音。




「うっ、うう……」

 三尾の嗚咽のような声が聞こえて、ミス・リードは再現を止めた。

『ど、どうしましたかぁ?三尾さん』

「いや、えっと、ごめんなさい。なんだか嬉しくて、懐かしくて、でも、悲しくて……あ、でも違う。えっと……ありがとう。こんなサービス、してもらえるなんて思ってなくて」

 ミス・リード本人が思うよりずっと、三尾は感動してくれたらしい。その理由は彼女に伝わらないが、気持ちだけ、強く伝わる。

『もしよかったら、このまま続けましょうかぁ?他の選手が動き出すまで、ですけどぉ』

 そのくらいのサービスは、やっても許されるだろう。実況者としての立場もあるが、選手のサポートも仕事のうちなのだ。

「いいのかな?」

『はい。さあ、私のお膝へどうぞ。体重を預けて、右耳を上に』

 もちろん遠く離れた、東京と九州の距離。それを詰めることはできないが、気分だけでも味わってほしい。声だけでも、膝枕を。

 三尾は、自転車を停めようとした。ペダルを停止して、ブレーキをかけようとする。

(あ、あれ?)

 腕に力が入らない。ブレーキレバーを握れない。まるで、腕の感覚を忘れてしまったように、そこだけ身体が動かなくなった。

 脚も、だ。ペダルを漕いでいた脚が止まり、そこの感覚も無くなる。回線を切断されたような、深い疲労感。

(あ、これ、ボクは眠れるんだ)

 それは、久しぶりに感じた『眠気』だった。

 数年ぶりに、ぐっすりと寝てしまいたくなる。


 モーターが停止し、ブリッツが勢いだけで走る。ブレーキに妨げられず、それでもペダルに推し進められないまま、緩やかな下り坂を滑るように。

 後輪の上部に取り付けたモーターが、回生ブレーキとして機能し始めた。このRubbee Xは、ペダルが止まれば勢いだけで充電も可能である。それを使えば、バッテリーをもう少し長持ちさせられる設計だ。

 そっと、目を閉じる。そこに、温かい朝日が差し込んだ。光は布団のように、三尾の身体を温める。

 ふわりと、身体が浮くような錯覚に包まれた。荷物を地べたに置いたまま、自分だけが、空中に……


 パァン!


『え!?』

「うひゃあっ!!」

 突然、爆発音が響いた。後輪だ。

 車体は横に滑るように、そして縦に叩かれるように荒ぶる。

『だ、大丈夫ですかぁ?三尾さん』

「くっ!」

 一瞬で目が冴えた。脳が覚醒した。すぐさまブレーキを力いっぱい握り、地面に足を着いて止まる。キックスタンドを立てて、すぐに車体の後ろに回り込む。その動きは俊敏だった。

「あ、あーあ……」

『何が爆発したんですかぁ?』

「タイヤだよ、ミス・リード。削れ過ぎてバーストしちゃってる」

 後ろの700Cタイヤは、既に黒いゴム部分が削れて、中から白い糸が露出していた。これだけの重さの車体を進ませたから……だけではない。Rubbee Xのローラーが接触していたせいで、そこにも大きな摩擦がかかっていたのだ。

 そこに来て、回生ブレーキによる充電。それがとどめになったのだろう。チューブは大きく裂けて、使い物にならない。充填していたシーラントは飛び散り、そこらじゅうで無意味に固まっている。

「ああ、もう。やっぱりタイヤ寿命は縮んじゃうよね。そんな気はしていたんだよ」

 頭をかいた三尾は、コンテナを開けた。当然だが、こんな時に備えて新しいタイヤとチューブをコンテナ内部に積んでいる。もっとも、アルミホイールが潰れてしまっていたら元も子も無いが。

「タイヤレバーもCO2インフレーターもあるし、現地修理は出来るけどさ」

『た、大変ですねぇ』

 そう言ったミス・リードの視界の端にも、動きが見えた。タダカツの腕輪に取り付けたGPSが、高速で走り始めたのだ。


『さあ、ここでアマチタダカツ選手が走り始めましたよぉ。皆さんおはようございます。大会18日目の朝ですぅ。

 今日も張り切って実況していきましょう。選手の皆さん、よろしくお願いしますねぇ。

 ああ、三尾さん、すみませんが膝枕で耳かきはまた今度に』


 残念ではあるが、ミス・リードも忙しい身だ。注目選手が走り出したとあっては、走れない三尾にこれ以上かまけている時間も無くなってしまう。

「まあ、ボクはまだ眠れない運命だったってところかな」


 タイヤを修理している間にも、多くの参加者たちが三尾を追い抜いていく。彼はそれら一人一人に、丁寧にあいさつをしていた。

 たまに通りかかった選手の一部が、手を貸そうかと聞いてくる。そのたびに首を横に振り、先に行くように促しながら修理を進める。



「あの、本当に大丈夫ですか?」

「ああ、良いんだよ空君。ほら、茜ちゃんが待ってる。急がないと」

「ちょっとくらいなら、アタイも手を貸すぞ」

「ダメだよ。君たちは進まないと、ね」



「あら?三尾さんじゃありませんこと。パンクのようですわね。ご愁傷様」

「やあ、天仰寺さん。今日も可愛いね」

「あらお上手で。手が足りないなら、うちのセバスチャンを貸しましょうか?」

「おや、ボクの事を嫌ってたんじゃないの?随分優しいね」



「ダッセェな!パンクごときで止まるな!」

「いやー、ディオ君。さすがはランドナー旅団の旅団長だね。今や独りぼっちみたいだけど」

「ついでに変速ギアも失ったけどな!まだ俺は走るんだよ!」

「うん。頑張って」



「――手伝う?」

「やあ、ニーダさん。お気持ちだけで嬉しいよ。君の綺麗な手を汚したくはないな」

「――そう」

「うん」



「お、ちゃんと走行ハシってんな。パンクしたって聞いて心配したぜ」

「おやおや、鹿番長君にまで心配されるとは」

「おい、どういう意味だコラ!?」

「言葉以上の意味は無いだろ。いくぞ番長。俺様たちも急がないとな」

「じゃあね、綺羅君。また明日」




「よう、三尾君」

「おや、最下位のユークリット君じゃないか」

「余計なお世話だよ。それに今は最下位じゃないさ。史奈さんより前だぞ」

「史奈さんは酔いつぶれて寝ているからでしょ」

 思えば、チャリチャン参加者のほとんどと、三尾は接触してきた。その数ざっと数百人……いや、1000人近いか。

 今やその1割も残っていないらしい。自ら退場した者、事故で退場を余儀なくされた者、デスペナルティにやられた者。

 色んな人との思い出を、三尾は大体覚えている。そういえば、少し喋っただけで相手の顔と名前を覚えてしまう癖がついたのも、寝れなくなった頃からだ。

「ユークリット君、今日はちょっと速いね。いつもならボクに追い付くのは、夜も遅く日付も変わる頃なのに……」

「あ、気づいたか?実はさ……ちょっとチートを導入したんだ」

 そう言ってユークリットが見せたのは、TCRトレーラーの前輪……そこには本来、TCR-2の特徴ともいえる32本スポークのラジアル組700Cホイールが組み込まれていたはずだが……

「なにこのホイール?」

 今は、リムしかないような車輪を、謎の棒が内側から押さえている。いや、突っ張っているとでも表現するべきか……

「電動アシストホイール。GeoOrbital Wheelってやつさ。ホイールの内部にバッテリーパックとモーターが入ってるんだ。残念ながらウレタン入りのノーパンクタイヤで、乗り心地は悪いけどね」

 QRレバーを外して、前輪ごと換装する。それだけでロードバイクを電動化するというシステムの商品だった。

 取り付けは簡単。モーター本体が空転しないよう、フロントフォークにマジックテープで固定。そして電気ケーブルをハンドルまで引っ張り、コントローラーを固定するだけ。外すときは逆の手順だ。

「これの良いところは、簡単に非電動に戻せることだよな。やっぱり最後は人力だけで走りたいものさ」

「ふふっ。ユークリット君もそう思うんだね。てっきり君は効率重視なんだと思ってたよ」

「いや、やりがい重視だよ」


 ユークリットがレバーを引けば、車体は時速30kmほどで進んでいく。本来なら32kmほどの速度を持つはずだが、トレーラーに大きな荷物を積んでいるため遅くなっているようだった。

「これの面白い所って言ったら、フロントが重くなるってところかな」

 ユークリットが言う。それに対して、三尾は首を傾げた。

「え?バランスが悪くなるの?」

「いや、重心が低いから、左右のバランスは……ちょっと悪くなる程度だ。それより前後バランス。トレーラーを引いていると、後ろ側が重くなりすぎて、ハンドルが浮くんだよ。だから今まで押さえつけるのに、肩こりが酷かったんだけどさ」

「なるほど。地面からタイヤが浮くのは大変だものね。それで購入したわけかい?」

「まさか。レンタルだよこんなん。僕はもともと電動アシスト嫌いだし、しかも日本の道路交通法で認められてないからな。チャリチャンが終わったら返すよ」

 やがて、ユークリットの得意そうなゆるい上り坂がやってくる。三尾にとっては得意でも苦手でもない分野だ。

「それじゃ、僕はこれで」

「うん。また明日」


 ユークリットも先に進み、ついに最下位(厳密にはまだ史奈がいるが)になった三尾は、ゆっくりと伸びをした。もちろん、自転車に乗ったままだ。両手を放して上半身を反らし、手のひらを上に限界まで伸ばす。

「ん――っ」

 ユークリットとは、なんとなく気が合う。このレースにおいて急いでいないと言うか、わざと完走ギリギリを狙うような走り方をする男。先日お気に入りの公園について語り合ったところ、妙に意気投合した相手。

「公園、か――」

 いつの間にかくせになった独り言を漏らす。その傍らには、それこそユークリットがなぜ素通りしたのか分からないほどいい感じの公園……大きな遊具だけを置いたようなそれが見えた。

「たまにはいいかな」

 三尾がハンドルを切ると、その角度がきちんと前輪に反映されて曲がれる。コンテナ位置の都合でハンドルとフロントフォークが間接的に接続され、癖の強いハンドリングが要求される車体だ。

 最初こそ違和感があったが、今ではすっかり馴染んでしまった。こうなると逆に、通常の自転車に乗りにくい。


「わぁ」

 三尾にとっても好きな光景。いくつもの滑り台やジャングルジムが複合した大型遊具と、その土台となる柔らかい砂場は、子供の頃に遊んだ記憶を思い起こさせてくれるようだった。

 しかし、さすがに身体も大きくなった彼が遊ぶには少し小さい。階段や滑り台の横幅は、肩や腰がつっかえそうだ。

「まあ、眺めているだけでも楽しいけどね」

 三尾は、今日の寝床をここにしようと決定した。そして、もう寝てしまおうと、さっそくベンチに腰掛ける。

 横になることはない。

 意識を手放すことも無い。

 ただ、目を閉じて深呼吸――

 腕や脚から力を抜いて、だらりと垂らす。


 彼の睡眠時間は、こんなものが10分ほど……それを1日に数セット繰り返すだけだった。

 後輪の上に取り付けられたモーターだけは、ぐっすりと眠っていた。

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