第50話 老獪な戦士とフラットバーロード

 少し時間をさかのぼって、茜たちがメトレアと再会していた朝。赤い彗星もまた、自分の車体を取りに自転車店に立ち寄っていた。

 別に壊れたわけではない。彼の乗るAvanGarage FR-CB-CA02シャア専用ロードバイクは、この大会が始まってから一度も故障していなかった。

 ならなぜ自転車店に来たのか。それは理由が二つ。

 ひとつは、全国を回るなら一度は立ち寄りたいと思っていた店リスト……そのひとつが偶然あったから。

 もうひとつは、自分の限界だった。


「やあ、出来ているかな?」

 彗星が引き戸をくぐる。もちろん、赤いジャージに赤いレーシングビブ。そして白いレッグウォーマーで、だ。ヘルメットとマスクを外しているのは、店が強盗対策としてフルフェイスヘルメットなどをお断りしているからである。

「木谷選手。完成していますよ。さあ、どうぞ」

 店員が彗星を、本名で呼んだ。その名前は、かつて実業団の選手として、チームを率いて活躍したオールラウンダーの名だ。

 赤い彗星こと、木谷 昴きたに すばる――彼は若い頃、確かに界隈で名を馳せたロードレーサーだった。

 が、

「僕は木谷昴じゃない。シャア・アズナブルだ」

 そう言ってそっぽを向き、レジの奥にある整備スペースに向かう。

 別に過去を隠したい理由などないが、このチャリチャンという大会においては、憧れのキャラクターを演じていたかった。



 彗星が頼んだ改造は、要約すると『50歳を迎える自分でも扱いやすい調整をしてほしい』程度の事だった。若い頃のような無茶な走りをする気はないが、このカーボンロードは年寄りに使いやすく作られてもいないのだ。

 せめて腰が痛くならないように、少しだけハンドルを上げてほしいと頼んだところまでは間違いない。

 だと言うのに、すっかり違う車体になり果てていた車体を見た彗星は唖然とした。

「ハンドルは、フラットバーの方が乗りやすいかと思いまして、交換してみました。シフターも純正の105です。もともと長めのヘッドを採用していたので、最大までステムを上げて、アップライトな姿勢を――」

「はっきり言う。気に入らんな」

「え?」

 店員の説明も遮って、彗星はその車体のハンドルを持った。

「ドロップが無い」

「そりゃそうですよ」

「……」

 違う。そうじゃない。そこは……

(あんなものただの飾りです。偉い人にはそれが分からんのですよ。と言ってほしかった)

 などと考える彗星。めんどくさいジジイである。




 とはいえ、走りは確実に快適なもので、


『さあ、もう夕方になってきましたが、ここで空選手と茜選手に接近したのは、エントリーナンバー079 赤い彗星選手。

 昨日は腰痛を訴えながら自転車店に駆け込んでいましたが、その腰痛の理由は何でしょう?もしかして、溜まってたのを発散しようとして、女の子を呼んでハッスルしすぎましたかぁ?』


「ただの走り過ぎだよ。それ以上でもそれ以下でもない」

 ミス・リードにツッコミを入れながら、前方を走る中学生コンビと合流した。

「彗星さん。お久しぶりです」

「よう。あの時は酸素ボンベ、ありがとうな」

 彼らが一戦交えたのは、もう12日も前だっただろうか。富山県の山岳地帯で戦ったのを、お互いにまだしっかりと覚えている。

「空君。あの時は君に負けたな。その後の活躍も聞いているよ。もう戦うのは怖くないのかな」

「え?いや、えっと……」

 答えに詰まる空を見て、彗星は理解した。彼はまだ『勝ち負け』に大した興味も持てていないのだろう。戦うのが少しずつ怖くなくなっていて、それでも楽しみを見出すほどではないのかもしれない。

「そういえば、聞いていなかったね……空君。君はなぜクロスバイクに乗り続けるんだい?」

「え?た、楽しいから」

「聞き方が悪かったかな。では、どうしてクロスバイクを買ったんだい?」

 そう聞けば、空が自転車に乗る理由も見えてくるような気がしていた。巡航速度を落とさないまま、横並びで走りつつ話をする。

 しかし空のエスケープは、自分で望んで購入したものではなかった。

「えっと、お兄ちゃん――いや、兄弟じゃなくて、従兄のお兄ちゃんなんですけど――から、貰いました。もういらないからって」

「ほう……」

 なるほど、と思う。彼が戦いを恐れ、それでも迷いなく走るのは、単純に迷うほどの執着もないからだ。まだきっと乗り始めて日も浅いのだろうとは思っていたが、

「君はやっぱり坊やだ。自転車を貰ったなんて理由で、この大会に出場するなんて他の誰にもできない。運ある若者でない限りね」

 それこそ空と同じくらいの歳だった時に、彗星は本気で親に頼んでロードバイクを買ってもらい、レースに夢中になったものである。まだロードレースという競技も、ロードバイクという乗り物も黎明期だったころだ。


「なあ、彗星さん。せっかくここで会ったんだ。アタイともう一戦やろうぜ」

 茜が牙を見せるように笑う。先ほどのメトレア戦で、あるいは長い大会で疲れているだろうに、その疲労を感じさせない挑発だ。

「そういえば、茜君には勝ったのだったね」

「ああ、そのリベンジをさせてくれよ」

 なるほど。こちらは話が早い。彗星が好むのはむしろ、こういった好戦的な相手だった。

 だからこそ、すぐに承諾する。

「前回は山の中だったが、今回は市街地戦か。いいだろう」



『さあ、興奮冷めやらないうちに本日2発目ですぅ!

 何がって?もちろん私のお何――ではなく、噂の中学生コンビの戦いですよぉ!お相手は赤い彗星さん。私もバイブス上げて実況しますぅ。

 それでは、ゴール地点に中継車と写真判定員を向かわせまして――ああ、このやり取りももうすぐ終わってしまうのかと思うと、寂しいですねぇ。

 では、レディ・ゴー!ですぅ』


「出るぞ!」

 赤い彗星がスタートダッシュを切った。105のSPD-SLペダルを踏みこみ、ガッチャン!とはめ込む。火花が飛びそうなほどの勢いだ。

「いきなり攻め気だな。アタイらも追うぞ。空」

「え、うん。いいよ」

 空が茜の後ろに、ぴったりとくっついた。

 戦うのはまだ、少し怖い。女の子の後ろにつくのも、やっぱり怖い。でも、茜となら一緒に行ける。空はそんな風に思えていた。

 そして茜は、

「悪いな。自ら風よけを買って出るなんて、人がいいじゃないか。彗星」

 ぴたりと彗星の後ろにつく。今回の勝負は疲労度を考慮して全長15kmの短いレースにしたが、それでも体力を温存した者が勝つというオンロードの法則からは何も外れていない。

「ええい、腕が上がってきたようだな。このパイロットは」

 前に戦った時、茜にそこまでの細かい操作ができるとは思えなかった。自分の肺活量さえコントロールできない。そういう印象があったものだ。

 しかし、彗星も負けない。


「沈めぇ!」


 フラットバーでありながら、上体を倒して頭を低く保つ。空も以前やっていたことだ。彗星はそれを覚えていた。

 35年以上、ずっとドロップハンドルばかりを使ってきた。そんな彼にとって、初めてのフラットバー。今朝それを見た時は毛嫌いしたものだが、

「戦場では強力な武器になる。やむを得ん事だ」

 目の前には右コーナーが迫る。住宅地の一車線しか通らないような……それこそ自動車同士がすれ違うことさえ出来ないだろう狭さの路地。彗星はいつもの癖でカーブミラーを見る。

 この大会は、彼がよく知るロードレースと違う。完全に閉鎖した道路で戦うのだから、対向車などのイレギュラーは発生しない。それでもミラー越しに見た景色は……

(すぐに左コーナー。つまりS字か)

 こうなると、アウト・イン・アウトだけに頼るわけにはいかない。最初の右コーナーで膨らんだ先、そこから右に寄せ直して再びアウトから切り込んでいるほどの余裕は、ない。

(間に合えっ!)

 MTB用のハイドリックディスクブレーキを、2本の指で引く。たったこれだけの力加減でも十分に車輪をロックできる。問題は、チューブラーの23cタイヤがグリップを保ってくれるかどうかだ。

 案の定、少しだけ滑り始める。すぐにブレーキを緩めてグリップ力を確保。ABSのような動きを、古くからの直感だけで再現し――


「ちぃっ!」


 ズギャァァアア!


 最初の右コーナーを曲がり切る。

 その軌道は、彗星にとっても予想外だった。アスファルトを裂くような音を立てたタイヤは、余裕を持って曲がり切り、さらに外側に膨らむことなく抜けたのだ。

(切り込みが鋭い?……ならば)

 そのまま、再び車体を振る。ペダリング半回転で加速し直し、ついでに下にするペダルを左右入れ替えて左コーナーへ。

 やはり予想通り、思った以上の鋭さで曲がってくれる。

(これが、フラットバーの性能か)


 人間の腕は、自然に下ろしたときに手の平が内側を向くように作られている。だからこそ、そのまま前に出したように握れるドロップハンドルは、見た目以上に楽だったのだ。大した力を入れずに、車体を制御できる。

 それは、逆に言えば大した力が入らないことを意味していた。

 その点フラットバーは、手のひらを内側ではなく下に向ける。これにより肩ひじ張った姿勢になり、どうしても腕に力が入る。

 力を入れられるのだ。

 だからこそ、前輪に体重をかけてグリップ力を上げられる。ブレーキによる急制動でも滑らないだけの重量を集められるし、ハンドルに従って向きを変えられるだけの体重移動も鋭い。


「しまった。空。減速しろ」

「え?うわぁっ」

 突然のコーナーで隊列をかき乱され、そのうえ風除けに使っていた彗星に引き離された。ただそれだけのことで、茜は大きく減速する。

 ギアを下げ忘れた。ハンドルの上を握ってしまった。何より、風除けがいなくなった。その程度で下がる速度などわずかだが、空に追突される危険は充分にあった。

 ぶつかる寸前、空は身体を翻す。まだルリを轢いたときの感触が残っているせいか、鼓動が早くなる。

「くそっ、立て直しだ」

「待って。今度は僕が先頭になる」

 空が申し出て、いつの間にか下げていたギアを高速で回す。茜の前にスムーズに出る空。そのタイミングに綺麗に合わせて、茜が真後ろについた。この大会の間に随分慣れたものである。

「それにしても、同じクロスバイクみたいな車体になったのに、なんであんなに鋭く曲がれるんだろう?」

 空が首を傾げた。それに対して、茜はツッコミを入れる。

「いや、相手はフラットバーロードだろ。お前のクロスバイクと同じにするなよ」

「え?何が違うの?」

「は?」

 茜は思い出す。確かこんな話題は前にも語った気がする、と。

(あれは確か――空にこのチャリチャンの話を持ち掛けた時だったよな。アタイが学校に雑誌を持ってきて……)

 その時に、空はチャリチャンと全く関係のないページを勝手にめくって、茜にこう訊いてきた。


『ねえ、茜。クロスバイクとフラットバーロードって何が違うの?』

 その時、なんと答えたか……

『フラットバーロードっていうのは、基本設計がロードレーサーと共通なんだ。だからコンポもジオメトリもロード向けで……って違う。そうじゃなくて、アタイの話を聞け』

『あ、珍しく教えてくれないんだ……』

『いや、教えてやる。フラットバーロードとクロスの違いなら後でいくらでも教えてやるから、まずはアタイの話を聞いて』


(そういえば、あの時は結局、何も教えてなかったな)

 はぁ、とため息を吐いた茜は、この状況でも解説に回る。本当ならミス・リードにでも任せてしまいたかったが、それをすると余計な性知識までセットで説明されそうで嫌だ。

「ロードバイクとクロスバイクは、フレーム自体が違うんだ」

「そうなの?」

「ああ、だから例えば、お前の乗るエスケープにドロップハンドルを付けたとしても、それはロードバイクカテゴリにならない。メトレアさんのシティスピードにも、アキラさんのローマにも言えることだけどな」

「へぇ。コンポが最大の違いだと思ってた」

 ちなみに、メトレアが使っていたシティスピードはアーバンスポーツ用コンポーネント。アキラの使っているローマはロード用コンポーネントという事になるのだが、それでも同じクロスバイクを名乗れるのは……

「実はジオメトリが決め手なんだ」

「えっと、車体各部の長さ、だよね」

「そうそう。クロスバイクのチェーンステーは、だいたい430mmくらいはあるんだけどな。ロードだと410mm前後で設定されることが多い。700cホイールの半径から逆算すると、ギリギリでBBシェルやシートチューブに当たらないくらいの設計だな」

 と、茜は説明する。

「なんでそうなったの?」

「さあな?そこについては諸説ある。レースで使うロードは、衝突の危険があったからホイールベースを短くしている。反対にサイクリングでしか使わないクロスは直進安定性を求めてるとかな。あとはクロスバイクの先祖がMTBだから、そのジオメトリの名残だとか」

「へぇ。ちなみに茜のクロスファイアは?」

「アタイの、っていうより、シクロクロス全般に言えるかもしれないけど、ロードと大差ない。ちょっと長いことはあるけど、これは同じ700cでもタイヤが太い分、ハイトも高くなる影響だな」

 喋っている間に、余計な肺活量を使ってしまった。数値で見れば無駄な消費だったと言えるだろう。

 ただ、気分は紛れた。

 自転車において、実測的なカロリー消費よりもモチベーションの方が重要視される場面は多い。

「さ、話は終わりだ。彗星を追いかけるぞ」

「うん。それじゃあ加速するね」




「来たな、空君。それに茜君か」

 後ろから接近してくる二人を、彗星はニュータイプ能力……ではなく、普通に目視で確認していた。いままでのドロップハンドルでは首で振り返ることが困難だったが、今なら簡単にできる。これも長めの680mmハンドルバーのおかげだろう。

 目の前にはコーナリング。さきほどから決して住宅の件数も減らず、かといって道幅も増えはしない。今回はおそらく、ゴールまでこの調子だろう。

 つまり、フラットバーハンドルが最大限に生かせる環境だった。

「さて問題は……私に明確なコーナリングの素養があるかどうかだが」

 目の前の直角に交わるコーナー。そのなかに、40km/hを維持したまま……いや、さらに加速して突っ込む。幅はたったの一車線。角には電柱が立っている危険地帯だ。

 それでも、なおブレーキをギリギリまで我慢する。

「ついて来れるかな?空君」

「っく!」

 今までの彗星だったら、もっと減速していたはずだろう。それでも機体の性能を信じた彼は、直感で「このくらいなら行ける」と踏んだ。

 そして、それは読み通り。


 ギュアァァアァアアン!


 前後のブレーキだけでなく、上体を起こしたときの空力抵抗さえ使って減速。高い視界を確保したついでに、上体を大きくひねって重心を移動する。生まれて初めてフラットバーを使ったとは思えない慣れを、彼は一瞬で習得していた。

 空も可能な限りで追従するが、どうしても減速が大きい。

「これが、僕のクロスバイクと、彗星さんのフラットバーロードの違い……」

「ああ、ホイールベースの違いだ」

 茜が言う。

 この状況下。もしも彗星と渡り合えるなら、それは……

「アタイが行く」

「赤い者同士?」

「フレームはグレーだけどな」

 空が前方を開ける。どうせもともと大した距離での戦いではない。射出するならそろそろだ。

「茜。木の枝に気を付けてね」

 すれ違い際、空が叫んだことを、しっかり聞き取った。

「いくぞ。赤い彗星さん」

 直線での加速は、茜の方が速い。単純にそういう筋肉が付いているせいもあるだろう。オールラウンダーとして、そしてクライマーとしても活躍した彗星の持久力は確かにすごい。が、瞬発力では茜に劣る。

「平地スプリント。茜君の得意技か」

「アタイは本当なら、もっとアップダウンが激しい方が好きだけどな」

 次のコーナーが迫る。ここを抜ければまた直線。そしてもう一度コーナーのあとは、たった10mも無いうちにゴールだ。

 再び、彗星がリードをとる。しかし、茜も先ほどよりは鋭いブレーキングを見せた。

「何っ!?」

「アタイのクロスファイアには、補助ブレーキが付いているからな。つまりあんたと同じ、アップライトポジションからのブレーキングが出来るんだよ」

 とはいえ、それだけだ。ハンドルバーの長さ的にも、体重移動は彗星の方が有利。ギアチェンジにしても、茜の方が遅れた。

(私の勝ちだな。今計算したが、茜君の後部は10速中の7段目。50×15Tといったところだろう。あんな重さで漕ぎ出せるわけがない)

 そう、彗星は思っていた。


「ぜぇりゃぁああああ!」


 ギチギチギチギチギチギチ……


 ギアチェンジしないまま、茜はその重いギアを漕ぐ。コーナー直後で12km/hまで落ちた、その状態から――

「馬鹿なことはやめろ!」

 ただでさえ、ずっと走り通しの脚だ。レーパンからむき出しの白いふくらはぎには、青く血管が浮き出る。曲がらないはずのアルミフレームが曲がって見えたのは、クランクセットを押さえるBBの軋みのせいだ。

 たった1回のペダリングで加速して見せた茜は、そのまま彗星と並ぶ。


『さあ、最後のコーナリングですぅ。二人とも下半身は完全にイッちゃいましたかねぇ。こうなったら、手だけで行かせ合いっこですよぉ!先に行った方が勝ちですけどねぇ。

 計測機器、準備できてますねぇ。中継車が引いた白線がゴールラインですよぉ。ちょうどコーナーのすぐあと。いやー、もうここ以外で車が停められないって言われちゃったので……ああ、言ってる場合じゃないですぅ。行っちゃうっ!んっ』


 たしかに閑静な住宅地。車を留めるなら路駐以外で探すのが難しいだろう。どうでもいいが、この地区の住民たちは大会開催中に家から車を出せないのではないだろうか?

「コーナー。私を導いてくれ」

 再びギリギリを狙った彗星が、内側へと切り込む。外からではない。終始インコースのみにとどまるつもりの走り方だ。つまり、一番きつい角度でのコーナリングを実践する。茜に内側を取らせない選択だ。

「しまった!」

 茜は必然、外側から抜きにかかる必要がある。

 茜の使っているタイヤは、全天候型のクリンチャー。それもシクロクロスの大会公式ルールでは使用禁止されるほど太い、35Cだ。このタイヤなら、多少は速度を出していても曲がれる。ならば――

(減速しないで、単純な速度で勝つ。それ以外に、距離で有利な彗星さんに勝つ方法はないな)

 タイヤ中央のスリック部分ではなく、深いスリットが入ったサイドを使う。車体をいっぱいいっぱいまで傾けるリーンアウト。


 想定外の事は、いつも起こり得ることである。それは必ずしも、目に見えているとは限らない。

 彗星の目の前……コーナーの角で死角になっていたところに、予想していないものが落ちていた。それは、

(木の枝!?)

 おそらく、台風などで秋に折れたものが、この冬場に風などで運ばれてきたのだろう。空が言っていたのはこれだ。地域によっては、わりと頻繁に落ちている。

 さほど大きくもない……なんなら小さな枝。だからこそ、今まで誰にも撤去されなかった。それが、彗星の23Cチューブラータイヤを襲う。

 ホイールベースが短い事は、いい事ばかりではない。タイヤが跳ねた時、車体が急に不安定になる特性がある。

 また、ロードバイクは本来ならドロップハンドル装備時に前後の加重が安定する設計だ。つまり、フラットバーを搭載している今、どうしても後ろに重心が寄る。

 コーナリング後に前輪を浮かせることは、つまり直進方向に戻る方法を失うという事。もちろん、重力に引かれてすぐに前輪は地面に戻る。その間はわずか0.5秒ほど。しかし、その0.5秒ほどがレースを大きく狂わせる。

(地球での自由落下というヤツは、言葉で言うほど自由ではないのだな)

 そんなセリフを思い出したときには、もう遅い。

 茜はゴールラインを超えていく。そして――


 ズガン!


 彗星は、ゴール手前で落車してしまった。



「だ、大丈夫か?彗星……」

 茜が彼を心配して戻ってくる。先ほどの無理なペダリングが祟ったのか、右足だけがどうにもペダルから外れない。

「彗星さん。茜」

 空も追い付いた。こちらは安全に万全を期して、ゆっくりコーナーを曲がってブレーキをかける。

 意外にも、彗星は大した怪我もなさそうだった。足を大きく降って、ペダルを外そうとしている。

「あ、ま、待っててください。いま外します」

 そういえば彗星と会った日、茜も落車して同じような状況になっていたのを思い出す空。足首を持って、外側へ引っ張るようにして外す。

「ありがとう。空君」

 立ち上がった彗星。そのヘルメットが、ポロリと崩れて落ちた。紐が切れた……いや、紐を押さえていた部分の発泡スチロールが割れたらしい。

「え?彗星さん……?」

「おいおい、あんたは――」

 二人は、木谷昴という選手を知らない。彼が活躍したのは、空たちが産まれる前の話だ。

 だから、その素顔を見て驚いたのは、有名人だったからではない。ただ、意外にも深い顔のしわ。走っている時には伸びていた首元。そして、マスクで隠していた目元の皺とシミも含めて……

「ヘルメットが無ければ即死だった」

 こともなげに言った彼は、髪を縛っていたゴムを解く。こうなってしまえば、もうそこにアニメキャラとしての赤い彗星の面影はない。

 あるのは、もう50歳になる年寄りの顔だった。




 近くの定食屋に立ち寄った3人は、彗星のおごりで夕飯を食べていた。

 そのテーブルの、手前側には空と茜が並び座る。奥には彗星。空いている席一つには、彼が使っていたヘルメットが置かれていた。

「それ、ヘルメットとしての役割がちゃんとあったんだな。てっきり飾りなんだと思ってた」

「ああ、市販の自転車用ヘルメットに、バキュームフォームなどで成形したプラ材を用いてアンテナなどをつけているんだ。塗装は古くからの友人にやってもらった。彼はプラモデルが得意でね。私のためにガンプラなどを作ってくれた友人だよ」

 1/144旧キットのシャア専用ザク――それをリックドムの股関節部品を用いてハの字立ちさせた友人のことを思い出す。彼がせっかく作ってくれたヘルメットだったので、彗星としてはとても残念だ。

 しかし、いつまでも落ち込んでばかりもいられない。彗星は大きめのサングラスをかけた。

「おいおい、室内でサングラスかよ。赤い彗星さん」

「今の私はクワトロ・バジーナ大尉だ」

「いや知らねーよ」

 どうやらヘルメットが崩れてもキャラを崩す気はないらしい彗星。

「それにしても、あんたがそんな歳だったとはな」

 改めて、その話に戻る。

「ああ。私ももう引退した身でね。しばらくは平穏に、自転車から離れた生活をしていたんだ。ただ、あのロードバイクを見たかい?私は一目ぼれしてしまってね」

「それで、レースに戻ってきたんですか?」

 そう空が訊くと、彗星は笑った。

「いや、戻る気はないさ。優勝する気もない。ただ、見てみたかったんだ。君たちのような新しい時代を作る若者たちを――」

 もう記録が伸びない。どころか、気を抜けばタイムは悪くなる一方だ。今回だって、ドロップハンドルの握り過ぎで腰を痛めた。そしてフラットバーにしてようやく、呼吸が楽になった。それだけ、衰えているのだ。

「私の身体が持たん時が来ているのだ」

 そう言った彗星は、続いてカウンター席を指さした。

「君もそうだろう?史奈」

「え?」


「あら、気づいてたのね。話しかけてくれないから、きっと気づいてないんだと思ったわ」


 くるりと振り返ったのは、レース用ジャージにコートを羽織っただけの格好の女性――風間史奈だった。

 耳にようやくかかる程度のベリーショートヘアに、化粧っ気のない顔。それでも気品を漂わせる彼女は、すっと自分の盆を持ってやってくる。

「せっかくだから、ご一緒しても?」

「もちろんだとも」

 彗星がヘルメットをどけて、彼女を招き入れる。たまたま入った定食屋で会うことになるとは、偶然とは怖い。

「あれ?史奈さんの自転車って、店の前にあったっけ?」

「ないわよ。私専属のセコンドカーに積み込んだわ。このコートだってマネージャーに運ばせたの」

「さすが女王。やりたい放題だな」

 いくらプロのレーサーとはいえ、仕事と関係のないプライベートでのレースにセコンドカーを動かすことは出来ないだろう。そこまで専属スポンサーが面倒を見る必要は無い。

 何より彼女は今回、専属スポンサーと全く関係のないLeader Bikes社の自転車で出場している。ジャージだってスポンサー供出と違うものだし、彼女が言うセコンドカーも実はただのハイヤーだ。コートだってパートタイムの執事に運ばせている。

 つまり――

「君は専属スポンサーとの契約を切った。そして冬場に開催されるはずの室内大会や南半球のレースを蹴って、このチャリチャンに出ている。現役選手としては引退する覚悟で……と見たが?」

 彗星のその予想は、正確に当たる。

「そうよ。ただ、私の場合は『次の世代を見に来た』なんて年寄り臭い理由で出場してないわ。もともとロードレーサーから入って、でも才能が無かったからピストに転向した。そんな私でも、最後くらいは道路を……外の世界を走りたかったのよ」

「最後って、史奈さんはまだ若いじゃないですか」

「あら。空君ったら嬉しい事を言ってくれるのね。でも私ももう31歳だわ。まだ実績を得てないなら食らいつきたい。けど逆に、世界チャンピオンのまま勝ち逃げを狙うなら今なのよ」

 なまじ、勝ってしまったからこその思考なのだろう。まだ上がある状態で諦めないのと、これより上が無い状態で続けるのとは、意味が異なる。

「まあ、私は自転車については満足しちゃったからね。そろそろ、オンナとしての幸せを探したいじゃない?」

「そ、そうなんですか?」

「ええ。それに茜ちゃんっていう、思わぬ収穫もあったわ。前に言った『ロードチームに紹介してあげる』って話、冗談のつもりは無いからね。その気があったらいつでも遠慮なく言って来なさい。18歳を超えたら、だけど」

 史奈の問いに、茜は迷いなく、まっすぐ目を見て答える。

「ああ、ありがとう。アタイ、必ずそこにたどり着いてみせるよ」

 その言葉を聞いた史奈は、満足そうに頷いてから彗星を見た。彗星も似たような表情でいる。……サングラスの所為で分かりにくいが。


「それにしても、空君は大変ね」

「え?」

 史奈に突然話を振られて、無関係だと油断していた空は素っ頓狂な声を上げる。ただ、彗星は彼女の言いたいことを察したようで、

「そうだな。大変だ」

 と笑った。

「史奈君を見て分かる通り、女性ライダーともなれば引退は意外と早いものだ。いや、男性である私も35までは現役だったが、二人の娘が小学校に上がってからと言うもの、家庭を大切にしたくなった」

「茜ちゃんも、今はプロになる方で手一杯でしょうけどね。いつかきっとプロを辞めて、家族を持ちたくなるわ。その時に、空君が茜ちゃんを幸せにしてあげないとね。最低限ちゃんと養ってあげるのよ」

 これから20年近く先の将来像――そんな話をされても、空はピンとこなかった。ただ、その話から『茜の話なのに自分が言われている』という奇妙さを感じ取り、つまりどういうことかを想像して、

「あ」

 赤くなる。そして、必死に手を振って否定する。

「違いますよ。僕と茜はそんなじゃなくって!えっと、友達。ただの、そう――友達で」

 そんな風に言ってから、隣にいる茜に目を向ける。彼女自身も空の様子から、ようやく彗星たちの言う意味に気づいたらしい。顔を赤くしてうつむいてしまっていた。

(そ、そんな風に見えてたのか。アタイと空が?)

(な、なんで茜は否定してくれないのさ。これ、僕がおかしいの?)

 中学3年生の純情さも手伝ってか、何を言うこともなくなってしまった二人。その耳に届いたのは、史奈たちのくすくす笑う声だった。

「あ、もしかして、僕たちをからかったんですか?」

「ごめんなさいね。ちょっと可愛いから、つい」

「これも大人の特権だ」

「もう――」

 こんな大人にはなりたくないな。と、空は小さな反抗心を燃やすのであった。茜も同じ気持ちだったらしく、頬を膨らませる。そんな二人の顔を見て、彗星はまた笑うのであった。

(赤いな、実にいい色だ)

 と。



「でも私はともかく、『あの人』はシャアさんと同じね。新しい世代を見に来たんじゃないかしら?」

 史奈が両手の指を合わせる。こうしてみれば、彼女も子供っぽい仕草が意外と似合うものだ。

「あの人って?」

「ん、私も一晩だけ一緒に飲んだ仲だから、詳しくは知らないんだけどね。アマチタダカツ君よ」

 史奈が言うと、彗星も口角を上げた。

「ああ、彼ももう40歳近いか。あの『山口の熊』と恐れられた選手が――」

「お二人は、タダカツさんを知っているんですか?」

 空が訊くと、二人は顔を見合わせた。

「一応な。まあ、私より歳は10ほど下の後輩にあたる。もっとも、私はロードで……」

「私がピストだから、トライアスロン選手のタダカツ君とは直接戦ったことが無いけどね。あ、ちなみに私よりいくつか先輩にあたるわ」

 二人は、さらに衝撃的な事実を告げた。

「アマチタダカツは、確かバイクパートでは成績が悪かったんじゃないかな?」

「そうね。スイムではいい成績を出したし、ランまで行ければ追い上げも凄かったけど、バイクだけは成績が悪かったわ」

 チャリチャンで好成績を出し続けた男。ついたあだ名が『暫定一位ミスターレジェンド』……そんな彼が、

「バイクパートが苦手?」

「自転車が苦手だったのか」

 空たちには、到底想像も出来ない事だった。

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