第49話 迷う少女とサイクリングとレース
『はいはーい。大会も早いもので、もう17日目ですねぇ。残すところ、あと5日――いや4日半ですぅ。
ここまで来たら、いま九州の中頃まで来ている先頭集団は、完走できたも同然ですかねぇ。他の選手も充分にゴールを狙えますよぉ。
ただ、油断はできませんねぇ。昨晩もエントリーナンバー659 サファイア選手が、事故により大けがをしてリタイア。現在は意識を取り戻したみたいで、念のために精密検査中ですよぉ。
ちなみに、エントリーナンバー661 エメラルド選手もリタイア。サファイア選手の心配から、レースどころじゃなくなったというところですねぇ。
病院のベッドは狭いかもしれませんが、せっかくなので若いお二人でお楽しみに、ですかねぇ。あ、でも脳の検査が終わるまでは激しくしちゃダメですよぉ。揺らしたら重症化するかもしれませんから』
ミス・リードは、淡々と昨日の状況を述べていた。もう事故によるリタイアが珍しくなくなっているのだろう。ルリの事もさらっとしか報道しない。どころか、いつもどおりの下品なネタで茶化しているくらいだ。
さすがに不謹慎が過ぎるというものだが、逆に言えばルリの容体がそれだけ安心できる程度であることも示している。
アキラからも『心配はいらないみたいだ。自転車は買い替えになるけどな』と、茜のスマホに連絡が入っていた。
「なあ、空。お前いつまで先頭を走ってる気だよ?」
出発から、かれこれ1時間。空はずっと茜の前を走っていた。こういう時、風よけになっている人の方が疲れるのが早い。なので定期的に順番を入れ替えるものなのだが、
「い、いいんだよ。僕、今日はちょっと調子がいいからさ。茜は後ろで休んでて」
「いや、アタイも決して調子が悪いわけじゃないんだけどさ」
「いいからいいから。戦いに備えて温存してなきゃ」
と、かたくなに交代したがらない。
(ったく、なんなんだよ)
茜は、昨日の事故について、詳しく聞いていなかった。ただ『ルリがデスペナルティにやられた』とだけ聞いていたようなものである。
なので、知らなかった。転んだルリを避けられず轢いてしまったのが、空だったという事を――
「……」
今朝の先頭交代で、茜が空の前へと出た時だ。空は思わずブレーキを握ってしまい、スリップストリームから外れた。そもそもぶつけるつもりで接近しないと成り立たない技だ。なのに、近づけなかった。
あの時目の前で倒れたルリが、重なって見えたのだ。
「ん?おい、空。ちょっとストップ」
空を後ろから呼び止めた茜。その視線は、コンビニに向いていた。
「あ、そうだよね。そろそろ朝ごはん……」
「いや、それもあるけどさ。あれってメトレアさんじゃないか?」
駐車場の奥に、見覚えのある長いツーテールの少女が立っていた。グレーの冬用ジャージを着込み、もそもそとトルティーヤを口に運ぶ高校生。傍らには、ブルホーンハンドルに改造したクロスバイク。
「あ、ほんとだ。メトレアさーん」
高速道路で一緒に走った、メトレアだった。
「そ、空さん。茜さんも……」
「よう。朝飯か?」
「は、はい、です」
何が恥ずかしかったのか、メトレアは咥えていたトルティーヤを後ろ手に隠してしまった。なんとなくだが、人前で何かを食べるのに慣れていないのだ。ましてコンビニ前で食事中という状況は、
(ま、まさか見られるなんて……)
女子力的な観点から、あるいは誰かに言われたマナー的な観点から、何か後ろめたい気がする。そういう育ち方をしてきた少女だった。
「まあ、アタイらも朝飯に立ち寄っただけなんだけどさ。お互いリタイアしてなくて良かったぜ」
「え?あ、うん。です」
「ここまで来たら、お互いに完走しましょうね。メトレアさん」
「うん。頑張るです……」
「?」
どこか、メトレアは疲れたような表情をしていた。もっとも、このレースで疲れていない参加者など皆無だろう。なので空も、あまり気に留めない。
もともと用事があって声をかけたわけでもない。たまたま朝食を買おうとしたときに見かけたから挨拶しただけだ。なので、
「じゃあな」
「ではまた」
と、茜も空も店内に向かう。
「……はぁ」
ため息を一つ吐いたメトレアは、再びトルティーヤを小さく齧る。熱いのが苦手なわけでもないが、ちまちまと。
(頑張るです。って、言っちゃったです。また……)
連日の走行で、脚の筋肉は固まっていた。ぐっと伸ばすように力を入れると、気持ちいい。繊維の一本一本が、ようやく隙間を開けてくれるような感覚。
(もう、帰りたい、です)
ここまで来たのに?と思うかもしれないが、メトレアとしては満足していた。いや、むしろ走り過ぎたと言える。本当は、もっと早く……それこそ自分の家がある関東についたころに、こっそりリタイアして帰ろうと思っていたのだ。
(でも……)
背中のポケットから、スマホを取り出す。その画面には新着メッセージの通知。
内容は、毎朝のように送られてくる応援だった。軽いものでは『最後まで頑張れ』から、重いものでは『優勝してくれ』までの言葉が、異口同音で数件来ている。
親から、友人から、先生からも……
『頑張る、です』
思っても無い言葉を打ち込み、返信する。
「……はぁ」
もう何度目かになるため息を吐くと、半分近く残ったトルティーヤをゴミ箱に捨てる。
お腹がいっぱいになったのではなく、食欲がなくなったのだ。あと、空たちが出てくる前に立ち去りたかった。
愛車であるシティスピードに跨った彼女は、そのまま逃げるように走り去る。
この車体も、レースが始まったころまでは大好きだったのだ。少なくとも、自分のエントリーネームを、この車体のコンポーネント名からとるくらいには。
今は、ただただ憎い。
(帰るわけにも、いかないか――です)
漕ぎ出しが重く感じるのは、フロントシングル48Tのクランクセットの所為ではないだろう。
と、空たちを避けるように走り出したはずなのに……
「よう、また会ったな」
「さっきぶりです。メトレアさん」
彼らは、普通に追いついてきた。疲労回復の速度的な問題だろう。この大会のレギュレーションにおいて、まだギリギリ成長期の空たちは想像以上に有利だ。少なくとも、出るところが出切って膨らんだメトレアより、ずっと。
「……こんにちはです」
「おう」
それだけの会話。メトレアはブレーキをかけた。油圧式ディスクブレーキの制動力は、23km/hほど出ていたはずの速度でもぴたりと停止できる。
(さよならです)
そう思っていたのだが、茜たちはくるりとUターンして戻ってくる。
「お、おいおい。どうしちゃったんだよ。急に止まったりして」
「あ、もしかして体調が悪かったりしますか?」
「マジか。ああ、なんかアタイらに出来ることがあったら言ってくれよ。メトレアさんには助けてもらった借りがあるからな」
茜としては、自分が辛かった生理の日に、助けてくれた恩人だ。あの日メトレアは、人見知りなのに勇気を出して、声をかけてくれた。
だから、力になりたいと思った。
茜が、停まっていたメトレアの肩を、そっと叩いた。するとメトレアは、顔を上げる。
その頬には、涙が。
「……ふぇっ」
「え?」
「……っすん。ひっ――」
何が何だか、茜には分からなかった。メトレアは急に泣き出すと、何かを言いたげに茜に視線を合わせてきたのだ。しかも、何も言ってくれない。
「え?な、なんで?」
「あー、茜が泣かせたー」
「いやアタイかよ!?……ち、違うよな?」
わたわたと焦る茜をよそに、空はメトレアにハンカチを差し出す。
「何があったか、話してくれますか?」
「……そう、なんですか」
大体の事情を聞いた空は、皮肉なものだと思う。茜のように親の理解を得るために必死で走った人もいれば、メトレアのように周囲の応援が重圧になる人もいるのか、と。
「あたし、もうリタイアして、帰りたいです。でも帰ったとき、みんなにどんな風に言えばいいか分からなくて、怖いから……つい、なあなあにして走っちゃった、です」
そんなメトレアの気持ちは、空にも少しだけ分かる。ただ分かるだけに、どう反応していいかは分からない。
「……」
「……」
そんな静寂を切ったのは、茜だった。
「そんなに嫌なら、やめちまえばいいじゃんか」
「ふぇ?」
「あ、茜?」
茜はイライラしたように自分のクロスファイアを手に取ると、地面に垂直に叩きつけた。単にネジのゆるみなどを確認するための動作だが、いつもよりやや力が入っている。
「めんどくせぇ」
「な、なんてこと言うのさ、茜」
「やりたくない理由を周囲に求めるなよ。自分の戦場くらい自分で決めろ。じゃあな。行くぞ、空」
「え?でも……」
空が戸惑う。そんな中、メトレアが小さく言った。
「茜さんには、分からないです」
「あ?」
「……何でもないです」
そっと顔を逸らすメトレアだったが、茜はそれを睨みつけた。
「何でもないってことはないだろ。何だ?アタイの何が気に入らないんだよ」
「やりたかったレースに出られて、みんなにも応援してもらって、そして自分のやりたかったことが楽しかったなら、いいじゃないか、です。茜さんは、あたしの悩みなんか分からないです」
「メトレアさんだって、出たくてこの大会に出たんじゃないのかよ。アタイに言わせれば、あんたの方がやりたい放題だっての」
「……っ!そ、そうですよ。あたしだって最初は楽しく走ってた。もう嫌なんですよ。放っといてくださいです!」
メトレアにしては、大きな声だったと思う。
(自分でも分かってるです。わがままだって……だから、みんなの期待通りに走ってるじゃないか、です。なのに、あたしはまだ怒られてるです)
いろいろと、メトレアなりに溜まっていることがあったのだ。
「ミス・リード。アタイだ」
茜が突然、ミス・リードに凸電をしていた。メトレアは顔をゆっくりと上げる。
『はいはーい。茜さん。どうしましたかぁ?』
「メトレアさんと勝負したい。適当なゴール地点を決めてくれ。中距離で」
(え?あたしと?)
メトレアにしてみれば、受けた覚えもない勝負だ。どころか、挑まれてさえいない。茜はそれも承知で、相手の了承を取らずに話を進める。
「アタイが勝ったら、メトレアさんはこのレースをリタイアする」
「な、そんなっ」
「茜。そんな約束――」
「空は黙ってろ」
茜に言われて、それでも空は黙ってなさそうだったので、
「でもあかあうぅ!?」
正面から口をふさぐ。片手で両頬をつままれた空は、そのまま発言できなくなった。せめてもっと優しい方法で黙らせてほしいものである。
『えーと、茜さん?』
「いや、なんでもない。とにかくリタイアをかけた勝負だ。スタート合図は要らないぜ。ゴールだけいつも通り頼む」
『は、はい。分かりましたぁ。それじゃあ私はスタート合図をしないので、ご自由に走り出してくださいねぇ。……今一つ事情が理解できないのですけど、目隠しプレイみたいでドキドキするので、気にしないことにしますよぉ』
電話を切った茜は、メトレアに向き直る。
「まあ、アタイが勝手に決めたことだからな。メトレアさんがチャリチャンを続けたいなら、今からミス・リードに自分で電話しろよ。そうすればお望み通り、続けられるぜ」
「そ、そんなっ、あたしは続けたいなんて望んでな……」
「それともう一つだ。いま勝負してアタイに負ければ、帰るときに言い訳ができるぞ。全部アタイが悪い事にして帰れる。良かったな」
言いたいことを言い切った茜は、空の口をふさいでいた手を離した。そして、そのまま走り出してしまう。
『さあ、チャリチャン名物、噂の中学生コンビの局所的レースのお時間ですぅ。今回はなんと、負けた方がリタイアする条件ですよぉ。……あれ?茜さんは負けてもリタイアしないんでしたっけ?
どうしてこんな話になったのか分からない私としては、どちらも頑張れーって気持ちで応援ですねぇ。
……本当にどうしてこんな話になっちゃったんでしょうかぁ?――はっ!?ま、まさか空さんを巡って三角関係の争いですかぁ?きゃーっ。
それじゃあ、ゴールラインは60km先のラブホテルにしておきますねぇ。勝った方が負けた方の目の前で空さんの童貞を奪うってことで』
「いや僕は関係ないよ!……えっと、メトレアさん、どうしましょう?」
「ど、どうしましょう……」
勝負を取り消してほしいと訴えるのは、茜に勝てないことを認めながら、それでもチャリチャンを続けることになる。応援してくれた人たちに『女子中学生にさえ勝てない』とガッカリさせながら、それでも走ることになる。
それは嫌だ。
なら勝負を受けて、茜の言う通りに負けて帰った方がいいのか。そうかもしれない。でも、それは地元のみんなを裏切ることに繋がる。
「答えが決まってないなら、とりあえず茜を追いましょう。走れますか?」
空が訊くと、メトレアは頷いた。
「はい、です」
『さあ、レース開始からもう90分が経過しますねぇ。スタートダッシュを先に切ったのは、茜選手。あとから遅れて空選手とメトレア選手が追いますぅ。
順位に入れ替えは無いんですよねぇ。それにスタート時の差も不気味なほどでしたし……さて、一体何を考えているんでしょうねぇ。
こちらの方もゴール目前ですが、赤い彗星さんも自転車店から復帰しましたよぉ。このままコースに戻るなら、ちょうど後続集団と鉢合わせですねぇ。後方からは一日休んで史奈選手もスタート前の体操ですぅ。今日もフミナ・キャノンが炸裂でしょうかぁ?』
何かと忙しそうなミス・リードだが、茜はそれどころではない焦りを感じていた。
(ずっと後ろを走っていることは、ミスり速報で聞いてるけどさ。それにしてはアタイに追い付くのが遅くないか?)
かれこれ90分……もう1時間半だ。距離にして40kmほどを走ったのに、メトレアは追い付いて来なかった。空もだ。
(あんなこと言っちゃったけど、まさか本当に負けてからリタイアする気じゃないよな……)
茜としては、心の底からメトレアを潰したかったわけではない。どころか、悩みを吹っ切る手助けになればと焚き付けたつもりだったので、今更ながら後悔する。自分の不器用さを呪いたいくらいだ。
と、そんな彼女の後ろに、空の姿が見えた。そのさらに後ろにぴったりくっついてくるのは、メトレアだ。
「来やがったか。ようやく勝負だな」
茜は内心でほっとしつつ、それを走りや態度に出さないように気を付ける。
「メトレアさん、茜が見えてきましたよ」
ずっと彼女の風よけになってきた空が、メトレアに言う。今回ばかりは茜が勝手すぎる。なので、メトレアの味方をすることにしたのだ。
「発射します。頑張ってください」
「はい、です。ありがとうございますです」
空が横に逸れて、道を開ける。これまで可能な限りでメトレアの代わりに風を受けてきた。おかげで、彼女の体力はそこそこ温存されている。
朝食べたトルティーヤが、今更になって消化されている。車体の調子も良い。何より、ここまで手伝ってくれた空を裏切りたくない。
だから、メトレアは本気でペダルを漕ぐ。
「はぁあぁああ!」
前方を向いたブルホーンハンドルと、クロスバイク特有の長いホイールベース。このシティスピードは、とにかくサイクリングなどでの直進性能に特化した改造が施されていた。
小回りは利かない。その代わりに、茜よりも無駄な力を使わず、まっすぐ進める。
「茜さん!っ――どうして、こんなことをするですか?」
「ハッ、アタイに勝ったら教えてやるよ」
「意地悪です。ふざけないで」
「ふざけてんのはアタイか?」
左カーブ。1車線分しか封鎖されていない交差点だ。チャリチャンの大会都合と、住民の生活都合をどちらも優先した結果だろう。垂直に交わる1車線は、意外と狭くて曲がりにくい。
(ブレーキだな。減速して侵入する)
(スローイン、ファストアウト、です)
二人ともが、ブレーキをかける。茜が大きく速度を落とす中、メトレアは大した速度差なくコーナーに侵入した。
(しまった。アタイとしたことが、ブレーキをかけ過ぎたか!?)
茜の使うメカニカルディスクブレーキは、ケーブルを引く都合上、実は繊細なコントロールに向かない。ある程度は整備次第だが、それなりの力でレバーを引かないとブレーキがかからないのだ。
対するメトレアは、同じディスクブレーキでもハイドリック……油圧式である。
この違いはよく、『油圧式の方が強く制動できる』と知られている。だが、本懐はそこにはない。油圧式の方が流体を使用している分、ケーブルより抵抗が無いのだ。だからこそ、繊細な力加減をそのまま再現できる。
指一本で、きゅっと握るだけ。メトレアがやったブレーキングと言えば、ただそれだけだ。まるで気になる男子の袖口を握るような強さで、それでもブレーキは作動する。しかも、力加減の通り微弱に。
「やぁっ!」
最小限の減速で済んだからこそ、その後の加速もエコノミーに始められる。つまり、ギアをさほど落とさない状態から復帰できる。
もともとフロントシングルのシティスピードに、フロントディレイラーなどない。もちろん、トリム調整の必要もない。茜がリアをローに入れて、フロントをトリムにする。その間にメトレアは、リアだけを変速していた。
ブルホーンのバーエンドから後ろに向いているブレーキレバー。その基部を真横にひねる方法で変速。実にユニークなデュアルコントロールレバーだ。
茜を追い抜いたメトレアは、そのまま加速する。さほどの速度ではないが、まったく疲れも見えない走り方。
『おおっと、ここで順位が変わりましたぁ!
茜さんの独走を阻止したのは、メトレアさん。コーナリングで外側から並び、ストレートで思いっきりの加速。一気に突き放しますぅ。
大きめのお尻がペダルに合わせて揺れますねぇ。あ、いやらしい話じゃないですよぉ。
自転車の練習方法の一つに、座ったままお尻だけで歩く方法があるんですぅ。人間の身体で一番大きい筋肉は、お尻にある大殿筋だそうですねぇ。
そこを使ってペダルを漕ぐには、股関節ではなく、骨盤から脚を動かす必要があるらしいんです。そういう意味で、良い腰使いですよぉ。
カメラさんもっと寄ってください。スカートの中を狙うんですぅ。あ、そこそこ。このむっちり感が……あれ?』
「いや、さすがにやめてやれよって話。多分メトレアさんの顔、真っ赤だからな」
茜が中継車のカメラを手で抑える。ついでにペダルを止めて休憩。カメラに手を当てることで、中継車の馬力を貰う。
「はぁ、はぁ……や、やっと追い付いたよ。茜……」
「おう、お疲れだったな。空」
一生懸命に追いついた空に、茜が労いの言葉をかける。その様子からは、いつもの真剣勝負の際に見せる鋭さが感じられない。
「ねえ。どうしてメトレアさんにあんな条件出したの?」
「んー?まあ、アタイなりの応援のつもりさ。勝っても負けても、チャリチャンを続ければいいんだよ。だからまあ、『大会を続けるために』必死になってアタイに勝とうとするメトレアさんを、見たかったのさ」
「もう、そんなことだったの?」
「まあ、アタイも不器用だからな。でも、見てみろよ」
目の前に見えるのは、一生懸命に走るメトレア。わざと負ければ帰る言い訳ができるというのに、それでも勝ちに行こうとしている彼女だった。
「やっぱ大会を続けたいんだろうな。まあ、もうゴールまで残すところ2、3日だろうし、九州も中盤だろうからな」
うんうん、と納得する茜を見て、空は首を傾げた。
「そうかな?」
「ん?」
「えっと、上手く言えないんだけどね。メトレアさん、何かから逃げるみたいに走ってると思うんだ。ずっと後ろを振り返ってる」
風に揺れるツインテールは、首の振り過ぎで絡まってしまっていた。
それほどまでに、彼女は自分の後ろばかりを気にしていた。
(みんなが応援してくれてるんだから、こんなところでリタイアしちゃ、ダメです)
その応援が、力になる。焼けそうな喉と痛む鼻の奥を、それでもさらに呼吸させるために使える。
(空さんがここまで風よけになってくれたんだから、それを無駄にしちゃ、ダメです)
おかげで、体力を温存できた。だから車体を振ってペダリングできる。それが、自分の少しふくよかな胸を、痛いほど揺らすとしても。
(茜さんだって、あたしを思って悪役になってくれた、です。――だと思うです)
なら、期待に応えないといけない。
「うわぁぁあああん!」
ただでさえリードしていたメトレアが、さらに加速する。自転車レースでいう『逃げ』である。逃げ勝ちと呼ばれるような、相手を置いてけぼりにする攻めの姿勢だ。
ただ、今のメトレアには、勝負から逃げるようにも思えていた。もちろん、その先にある結論からも……
「へぇ。やる気じゃないか。アタイらも行くぞ。空」
「え?あ、うん」
茜も追撃する。
先ほどはああ言った茜だが、わざわざ負けてやる気など実はない。メトレアがこのレースを続けるのか、それとも勝手な賭けに従ってやめるのか。それは負けてから決めればいい事だ。ただ、
「アタイも勝ちに行く姿勢は見せないとな」
ただ空と喋って時間を潰していたわけではない。その間に中継車と空に挟まれながら、体力を温存していたのだ。
「アタイの後ろに入れ。おいてくぞ」
「え?あ、うん」
茜のスリップストリームに、空が入ろうとする。その時によぎったのは、やはりルリを轢き潰してしまったあの光景だった。
「おい、空」
茜がペダルを止めて待っている。この状況において、もう一刻を争うのに、だ。
「う、うん」
距離を詰めるのが怖い。けど、やらなきゃいけない。それは、こういう大会だから。
そっと、タイヤが触れるギリギリまで接近する。クロスファイアの後輪が巻き上げた砂を、エスケープの細い前輪が切る。それを視認できるほどの距離――
「よし。行くぞ!」
『茜選手、ここで怒涛の追い上げですよぉ。一方、メトレア選手は著しく速度を落としましたぁ。体力の限界ですねぇ。フォームが乱れてきてますぅ。
膝が開いてきてますねぇ。フラットシューズを使っていることもあって、ペダル位置も踵に近くなっていますよぉ。あ、これカメラさん正面に回れますかぁ?スカートが無ければ何の色気も無いレーパンも、スカートアリだと違って見えるのが……
ああ、待ってください。なんで脚を閉じちゃうんですかぁ。視線がムズムズしちゃったんですか?……
あ、これ激しいツッコミが帰って来ないやつですね。うーん、メトレアさんは今いじっちゃいけないモード、と。
不肖ミス・リード、エロネタ自粛します。大変失礼いたしました。
さて、ゴールまであと1km!泣いても笑っても終盤ですよぉ』
「お前にそんな気遣いが出来たのかよ!?つーか、出来るならアタイにも気遣いしてくれよ」
「茜。そうやって律義に突っ込むから弄られるんだと思うよ」
意外にもセクハラの相手をきちんと選んでいたミス・リードに驚きつつも、茜はメトレアをさらに追走する。空もまた、必死についていく。
(怖い――)
もし、間違って茜に追突してしまったら、と頭によぎる。今この瞬間、彼女が落車しないとも限らない。
(怖い――)
本音を言えばプロのレーサーでさえ、スリップストリームは恐怖を感じるものである。よほどの勝利への執着が無ければ、高速での走行中にやれることではない。
少しだけ、茜から離れてしまった。
「空、もっとくっつけ。アタイも走りにくい」
「だ、だって……」
「だっても何もあるかよ。おいてくぞ」
「でも」
煮え切らない空に、茜が叫ぶ。
「アタイを信じろ」
「え?」
「何があったか知らないけどな。お前と走ってきたこの17日間、そんなにアタイはお前の信用を裏切ったかよ。少なくとも走りで」
「そ、それは――」
それは、
(あ、ああ、そうだ)
無かった。とは言い切れないかもしれない。茜だってそれなりに失敗もするし、何より無茶をするライダーだ。でも一緒に走ってて、信頼できる。
理由――そんなものは無い。
それでも、
「ゴメン、茜」
「謝んな。それよりしっかりくっついてろ。巡行上げるぞ」
「う、うん」
ゴールは目前に見えてきた。まだ遠いとはいえ、ホテルの看板。本気でそこをゴールにしてしまうミス・リードのリードっぷりに苦笑しつつも、メトレアに横並びする。
「よう、メトレアさん。やる気になったじゃないか」
「冗談じゃないです。あたしはこんなっ!……こほっ」
呼吸に全力を尽くしていたメトレアは、声を出した瞬間に咳き込んだ。
「あんたの勝ちだよ。メトレアさん」
「え?」
「いや、アタイももともと本気で勝ちに行くつもりだったわけじゃないけどさ……こう見えて、結構消耗してんだ。だから、あんたの勝ちさ。このままレース、続けたらいいじゃないか」
「そ、それは……」
とてもいい笑顔を向ける茜。それに対して、メトレアは戸惑った。
そこに、空が声をかけたのは、ゴールが目の前に迫ったころだった。
「茜。交代して!」
「なんだと!?」
突然の申し出だったが、茜は理由も分からないまま右に避ける。メトレアと逆方向だ。
(何か言いたいことでもあったのか?)
レース中でもキープレフトの癖がついていたメトレアと、いま右に寄った茜。その間に大きな空間ができる。そこに空が入ってきた。
二人の注目が空に集まる。てっきり3人で横並びになって会話する図を、メトレアも茜も思い浮かべていたのだ。
「メトレアさん」
「はっ、はいです」
「すみません。勝ちます」
「え?」
全く突然の事だったと言える。
空が、加速した。
「はぁっ!」
一閃――いつの間にかギアを上げていた彼が、右ペダルを踏み込む。左に大きく車体を傾けて、代わりに自分の身体を右に曲げる。その人漕ぎで、ゴールへ一気に近づいた。
『ゴール!!
茜さん対メトレアさんの、空さんを巡る勝負(?)。勝ったのは……え?そ、空さんですかぁ?
あれ?これもしかして、茜さんを巡って空さんとメトレアさんが戦ってた感じだったんですかぁ?え、いや違いますよねぇ。
え、えーと、この場合、負けた人がレースをリタイアする賭けはどうなるんでしょう?大会運営側としては、残り少ない距離と人数ですからねぇ。残ってほしいのですけどぉ』
「どうでもいいよ。そんなの」
ゴールラインを超えた空が、ゆっくりとブレーキをかけた。メトレアに並ぶように減速して、すぐ横に停める。
「メトレアさん。ごめんなさい。僕、どうしても言いたいことがあって――」
「な、何……です?」
茜がビンディングシューズのクリートを外しながら、その場を通り過ぎていく。そんななか、確実にフラットシューズで地面に立つ二人。
メトレアは、恐怖していた。これから何を言われてしまうのか。何をさせられてしまうのか。
その警戒心に気づいた空は、にこりと笑顔を作る。そしてメトレアより少し低い視点から、その目をまっすぐ見た。
「今度、楽しくサイクリングに行きませんか?この大会が終わったら」
「うぇ?」
「いや、えっと……こうして出会えたのも何かの縁だし、メトレアさんはレースより、サイクリングの方が楽しいのかな?って」
「……」
「高速道路で会った時は、とても楽しそうでしたよ」
あの時は、時速30km制限の中だった。だから無理に飛ばしたりせず、でもそれなりに真剣に走ることができた。
決して遅くはない。むしろ自転車としては速すぎる。でも、競い合えるほどではない。そんな速度が、
「楽しかった、です」
メトレアがつぶやく。
「じゃあ、アタイとの賭けはどうする?」
茜が訊いた。ようやくビンディングシューズを外して戻ってきたらしい。いや、このタイミングを待って話しかけたと言うところだろうか。
「まあ、メトレアさんとアタイ、どっちが勝ったかを今からミス・リードに問い合わせても良いんだけどさ。空の勝ちってことで、うやむやにしてもいい。もちろんアタイが勝手に始めたことだから、勝敗に関係なくレースを続けてくれてもいいんだけど」
優しい表情で、優しく選択肢を――それこそ選びたい放題の選択肢を用意する茜。その言葉は口調まで優しく、ある意味では彼女らしくない。
ただ雰囲気と裏腹に、その内容は厳しいものだった。
「あたしは――」
誰かのせいにして、選択を放棄できない。
いや、まだ「地元のお友達が――」などと言うことはできる。でも……
「メトレアさん。貴女が好きなように決めてください」
メトレアは空と数秒見つめ合うと、大きくため息を吐いた。
『え?あ、いや……まあ私としては止められませんけど……はい、はいですぅ。
えっと、選手のリタイア宣言を受け取りましたよぉ。リタイアするのはエントリーナンバー741 メトレア選手。確実に完走を狙えるのではないかという位置からリタイアですぅ。
はい……あ、そちらの腕輪と、車体に取り付けたGPSタグは、近くにいるスタッフに返却お願いしますぅ。外し方はスタッフが知っているので、ご自分で勝手に外さないでくださいねぇ』
心底残念そうなミス・リードの報道を聞きながら、茜は口を尖らせた。
「これ、本当にハッピーエンドか?」
それに対して、空も明確な答えを持ち合わせてなかったので、
「さぁ?」
と言うしかない。ただ、
「最終的には、本人が決めることじゃないかな?ハッピーなのか、バッドなのか」
「分かったような口をききやがるじゃないか」
メトレアを置き去りにして、二人で走っていく。この道を――メトレアが選ばなかった戦いの道を、茜と一緒に。
「茜。僕は、リタイアしないことにしたよ」
「ははっ、何だそれ。お前がリタイアなんか考えたことがあったのかよ」
「あったよ」
「……」
それは、そうだよなと茜も思う。元はと言えば、空を無理やり誘ったのは自分だったのだ。メトレアと同様、空も実はリタイアをずっと考えていて、それでも自分のために一緒に走ってくれていたのかもしれない。
「でも、今は自分の意思で、戦いたい。茜と一緒に、二人で勝ちたい」
「え?」
彼の口から出て来ることが珍しい『勝ちたい』などと……ましてそれ以上に珍しい『戦いたい』などと――そんな言葉が聞けるとは、茜は思ってなかった。
「えっと、ダメ、かな?」
「……ばーか」
今更になってそんなことを言う空が、なんだか子供っぽくて、ばかばかしくて、
「……ばーか」
「あ、2回も言った!?」
茜は空の顔を、見られなくなっていた。
「うん。うん……それじゃあ、今から帰るね。あ――いいよ。迎えは要らない。自分で帰れるから。うん……」
電話越し、両親にそう話すメトレアは、どこか吹っ切れたようだった。スタッフに差し出した左手首から腕輪が外され、17日ぶりに何にも縛られない腕を見ることができた。
「スタッフさん。ありがとうございました」
GPSタグの類を回収に来た人たちに、一言お礼を告げて、走り去っていく。
ここから関東にある家まで、どのくらい遠いのか。それは走ってきたメトレアだからこそよくわかる。
ただ、その帰路は、追い風が吹くような気分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます