第48.5話 スポーツ自転車はじめたら――

 ――夢。


 悪い夢。

 それが夢だったら、どれほど良かったことだろうか。

 目を覚ましたルリは、脚に強い痛みを感じて飛び起きた。それが良くなかったのだろう。急激に痛みを強くする結果になってしまった。

 何かに脚を掴まれている。そのせいで痛いのだと勘違いしたルリは、それから逃げようとして、

「うっ……」

 より痛みを増やしてしまう。どうやら動いたところで事態は好転しないらしい。

 薄暗い部屋。どうやらベッドの上であるらしい。少なくとも寝具が与えられる以上のもてなしを受けていると知ったルリは、まだ状況を確認できないままでも、少しだけ安心した。

「ここは……どこでしょうか?」

 記憶があやふやである。

 痛みの所為で起きたのだったか。

 あるいは、起きたから痛みを感じたのか。


 違う。そんなついさっきの事を思い出す必要は無い。

 もっと前……ここに運ばれる前の事を思い出す。チャリンコマンズ・チャンピオンシップ。その16日目――


 ガチャリ……


 思い出そうとしたところで、ドアが開いた。

「よう、ルリ。気が付いたみたいだな」

 アキラだった。レースの時とは違う、無地のセーターにジーンズ姿の彼は、寝不足気味に見える目を擦って言う。

「アキラ様?ここは……?」

「ああ、病院だよ。事故ったところの最寄だ。とりあえず救急車で搬送してもらった」

「事故……」

 覚えている。はっきりとではないにしても、ぼんやりと。

 正直に言えば、その事故の瞬間についてはまったく覚えていない。せいぜい……そう――

「デスペナルティ……」

「ああ、そいつだ」

 覚えている。不気味に笑う仮面の男――あれと会話したところまで記憶がある。そのあと何をしたのだったか……やはり思い出せない。


「アイちゃんは?……私のアイローネは?」

 とっさに心配したのは、愛車のロードバイクだった。アキラはその問いかけに、

「おいおい、いきなり心配するところはそこかよ」

 と、苦笑して見せた。いつもの軽い口調ではない。可能な限り軽く振舞っているような口調に感じた。

「それより、自分の脚の心配でもしてやれよ。酷かったんだぜ。俺が見た時には、もう反対側向いたまま膨れ上がっててさ。色なんかめちゃめちゃグロかったんだから……いや、実際には大したことないってよ。大丈夫だ」

「大したことない、とは?」

「……全治5か月の予定だ。綺麗に折れているから、むしろ接合は簡単だってよ。場所は足首の周辺。固定のために手術はしたけど、傷跡も目立たないってさ」

「そうですか」

 そっと首を回して、周囲を見る。自分の脚はしっかり固定され、フットレストの上に置かれていた。これが掴まれているような痛みの原因だったのだろう。

 不思議と、骨自体には痛みが無い。固定用の金具さえ入っているとの事だったが、せいぜいちょっと冷えるくらいだ。

 ベッドの横の棚には、自分の被っていたヘルメットの成れの果て――ただの潰れた発泡スチロール片が転がっていた。ビンディングシューズもあったが、左側はベルトが切断され、靴自体も鋭利な刃物で開かれている。

「あ、ああ……あれは、ゴメン。医者が言うには、どうしても固定するのに邪魔だってことでさ。……高い靴だったよな。ほんとゴメン」

「い、いえ。アキラ様。すべては私の責任ですから」

 ショックでないと言えば嘘になるが、こうして事故で救急搬送されるのは初めてではない。意識を失った状態は初めてだが、こうして起きた時に誰かが寄り添ってくれていたのも、嬉しかった。


「ところで、アキラ様。私のアイローネは?」

 改まってルリが訊くと、アキラはこれまた軽い口調で言う。

「ああ、フロントが大破しちまったからな。特にカーボンフォークは……まあ、ルリの脚と違って複雑骨折だよ。勝手に廃車にするわけにもいかないから、一応この病院の駐輪所にそのまま停めてある」

「廃車?」

「ああ、素人の俺が見ても分かるくらい酷いぜ。ダイヤモンドフレームも若干歪んでるみたいだし……って、おい!落ち着け」

 突然、ルリが身体を反転させて、立ち上がろうとする。アキラはそれを止めに入った。

 肩に手を置き、まだ寝ているように促す。

「私、アイちゃんを見に行きます。連れてってください」

「見たってどうにもならねーよ。分かった。いま医者が来るから、な?もし許可が下りたら車いすでも借りて見に行こう」

「嫌です。今すぐにでもっ――」

「ああ、もう。起きても揺らすなって医者から言われてんだよ。まだ頭とか検査してないんだから、もう少しだけ大人しくしててくれって……!?」


 突然、アキラの胸元を掴んだルリが、彼を引き倒した。のしかからないように、アキラは手を着く。ベッドに振動が伝わり、ルリの脚にピリピリと痺れを運んだ。

「ルリ……?」

「……っ。見ないでください」

「どうした?痛いのか?」

「違います……ただ、今の顔、見せられない状態になりましたので」

 顔――

 頬の怪我の事だろうかと思ったが、ルリは病室に来てから鏡も見ていないはずだ。自分の顔にがっつりとタイヤ痕の内出血が残っているなんて話じゃない。

 となると――

「……お前さ。こんな時でも無表情キャラとかでいるの?」

「はい……特にアキラ様の前では」

「なんだそれ?」

 ともかく、見せたくないらしい。さっきまで自転車を見に行くと言ってたかと思えば、忙しい奴だ。とアキラは思った。



「えー、コホン。院内はそういうところじゃないので、患者さんの容態的にも、そういった行為は控えてくれませんかね」

 いつの間にか後ろにいた年配の女医が、アキラに言う。

「いや、誤解です。誤解なんです先生!!」

 このあと滅茶苦茶セツメイした。




 ルリから解放されたアキラは、病院内の休憩スペースでコーヒーを飲んでいた。すると、スマホに着信が来る。

 ユイ――数日前に空の自転車を修理してくれた少女からだ。彼女とアキラの関係を一言で説明するならば、同じ自転車店の常連客同士。あるいは同じサイクリングロードでよく合う友達だろうか。


『それで、ルリ姉の様子はどうでござるか?』

 ユイからの電話に、アキラは少しだけ胸をなでおろした。こういう時、話ができる相手が少しでも多いと落ち着く。理由はさっぱり分からないが。

「まあ、いま検査中でCTの中だけどな。何事も無ければ明日にはそっちに帰れるさ」

『自転車で?』

「電車でだよ!?」

 なんでもかんでも自転車での移動が真っ先に思いつく当たり、やはり自転車乗りとは異常な精神の持ち主なのだなと、アキラは思う。もっとも、アキラもこの一年足らずでその領域に大きく踏み込み、青森から九州まで自転車で走ったわけだが。

「ん?ところでユイ。なんか風の音が入っているんだけど、どこにいるんだ?」

『拙者でござるか?そちらに向かっている最中でござる。昨日から夜通し走ったのじゃが、まだ博多でござるよ』

「いや、お前がチャリチャン出場すればよかったじゃねーか。何っだその強靭な肉体」

『拙者のママチャリは、ママチャリの皮を被ったロードバイクでござるからな』

「それを加味しても早すぎんだよ!俺たちが2日かけた道のりを一晩で飛んでくんな!」

 もっとも、チャリチャン選手たちは既に疲れが色濃くなっている。ペースが落ちているのは全員に言えることだ。


『そう言えば、ルリ姉の自転車はどうなったでござるか?』

 ユイの問いかけに、アキラは苦笑する。本当に、こいつらは自転車の話の優先度が高い。

「ダメだったよ。廃車確定だ。部品取りにも使えそうにない」

『そうでござるか……ルリ姉もガッカリしたでござろう?』

「ん、ああ。そりゃもう泣くほどな」

『ルリ姉が泣いた!!?――いや、あり得るでござるか。拙者はそこまで自転車に愛着は無いでござるが、それでも壊れたら泣くでござるからな……』

 いつも表情豊かなユイが泣くのと、ルリが泣くのでは意味が違ってきそうだが、お互いに大切な車体であることに違いはない。

 と、そこまで考えて、アキラは思い出した。

「そういえば、お前の叔父の……タダカツさん。あの人は自転車を『消耗品だ』って言ってたよな」

 思い出されるのは、去年の秋ごろの話。その時アキラはタダカツと会って、直接その走り方を見ていた。

 荒々しい乗り方で、カーボンロードを1台、たった1日で乗り潰していたことも……


『まあ、叔父上が本気を出して1か月耐えた車体は、いまだかつて無いでござるよ。あの怪力で全部踏みつぶしてしまうゆえな』

「バケモンだな」

『うむうむ。……しかし、此度の車体は違うかもしれぬ』

「え?」

 そういえば、大会が始まってからというもの、タダカツに追い付いたことは無い。あえて言えば、スタート地点で挨拶したくらいか。

「今回のタダカツさんの車体は、そんなすげーのか?」

『そんなすげーでござるよ。拙者も実物を見た時は、あまりのインパクトに世界が変わったと錯覚したでござる』

「言いすぎだろ」

『言い過ぎでもないでござるよ。本当でござる』


 ミスターレジェンド・アマチタダカツ。

 彼の本当の実力は、まだまだ未知数であるらしい。

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