第48話 メカニックとクロモリロード

 ――数十分前。


 ルリ指揮官の完璧な指示は、隣にいた空をも驚かせた。

「前方グレーチング。やや斜めに侵入。下り、頭下げて。その後の加速は緩やかに。ウィリーに注意。左ターン、集中。ペダルを止めて。右カーブ。ギア下げてペダリング。ギア戻して。ダンシング。川あり。橋の継ぎ目スリップ。ブレーキは要りません」

 ここからはアキラや茜の姿は見えない。なのでルリの指示が本当に的確なのかどうか、空には判断できないが、

(きっと、完璧なんだろうなぁ)

 スマホ画面に目を落としたルリは、それでもしっかり走っている。濡れた路面に潜む凹凸も感知しているようだ。細かいハンドリングを繰り返して進む。


(ん?)

 サイドミラーに、黒い車体が映る。後方からだ。かなり必死に追いつこうとしているようだった。

「ルリさん、誰か来ますよ」

 空が言うが、彼女はいま忙しそうである。返事をする暇もなさそうだ。

 水滴のついたミラーを指で拭き、視界の悪い雨の中で目を凝らす。顔に当たる雨粒を前髪ではじきながら、空が見たものは……

「ルリさん!避けて」

「!?」

 空に言われて、何のことか分からないルリが戸惑う。それでもひとまず、大きく右に逸れた。

 そんなルリのすぐ左側を、黒い車体が通過……すると見せかけて、そいつは右にハンドルを切ってきた。

(ぶつかる……)

 ようやく事態を理解したルリは、急ブレーキをかけて制動。完全停止させてやり過ごす。

 交代で射程距離に入った空は、大きく車体を揺さぶって左に逃げた。


「くぅっはっはっは!いやー、今のは二人まとめて潰せると思ったんだけどなぁ。二兎を追うものは一兎も得ず、か」

「デスペナルティさん……」


 黒いコートに、赤いヴェネチアンマスク。その奥に光る眼光。にたりと笑う口元。

 ディオやデイビットのように、勝利のための煽り運転をするだけの選手ではない。場合によっては勝利よりも破壊を楽しむ、今大会で最悪の存在。

「ふぅん……空君も隅に置けないね。今日は綺麗なお姉さんと一緒なの?いいね。GIOSか。一度壊してみたかったんだ。その細くて大きなクロモリフレーム」

 デスペナルティが喋りながら、息を整える。バーエンドバーが一体化したグリップを握り、いつでも車体を振れる構えだ。

「逃げて、ルリさん」

「あ、逃がさないからね。そうだな……二兎を追うものは、か。それじゃあまず、GIOSのお姉さんからだ」

 車体をくるりと反転させたデスペナルティは、そのまま正面衝突をするようにルリに突っ込む。ルリの乗るアイローネは、思った以上にハンドル幅を狭く改造していた。その恩恵もあって、ギリギリで回避できる。

「アキラ様。もう私の方から言えることはありません。残った力を全て出してください。……はい。私は忙しくなってきたので、通信を終了します」

 こんな時にもかかわらず、しっかりと通話を終了するあたり、彼女の律義さがうかがえる。


「ああ、電話中だったの?言ってくれれば、俺だって待ってたのに」

 真意の分からないことを言いながら、デスペナルティが追い付いてくる。一方、単純な速度ならルリも負けてない。

「初めまして、お客様。本日は事故を起こさないための乗り方講習をご希望ですか?それとも、人身事故でも死亡保障の下りる自転車保険をご案内しましょうか?」

 態度に余裕を浮かばせながら、言葉で煽る。

「くぅっははははっ。自転車事故で人が死ぬわけないだろ」

「……打ち所次第だと思いますよ」

「ふぅん。ならお前が保険に入っておけばいいんじゃないかな。くぅはははははぁあ!」

 再び加速するデスペナルティが、後ろから迫る。が、しかし、

「私は保険に入ってますよ。無事故で満期を迎える予定です」

 ルリの加速の方が上だ。単純に後ろを取られただけなら、ロードバイクの方が速い。


「――……」


 ルリの呼吸は静かに、その表情は平然と……しかし、


 シャアアアアアアッ!


 その脚は、高速で回転する。ケイデンスは150rpmほど。その数字自体は驚くほどではないが、滑らかさとフォームの正確さが群を抜く。

 しなやかな彼女の細い脚が、クランクと交差して溶けあう。それはまるで芸術品のようで、見ているだけで吸い込まれそうだった。

 しかし、実際には吸い込まれるどころか、離される。それほどの速度。

「ルリさん、速い……」

「驚きましたか?空様。私だって頭脳ばかりのアドバイザーではないのですよ」

 とはいえ、それについていく空も速い。丁寧さではルリに見劣りするが、ケイデンス自体はルリを超えるほどの回転。それがオフロード用のコンポと組み合わさり、同じ程度の巡航速度を出す。

「くぅっはっは。俺から素直にまっすぐ逃げるわけだ。まあ、正しい選択肢と言えるかな」

 デスペナルティも、速度を上げる。負けず劣らない巡行。どう考えても1.95inのタイヤで軽く出せるはずはないのだが、

「俺だって、伊達にここまで来てないぜ?」

 暴力的に、右へ左へ、自転車を揺さぶって速度を上げてくる。まるでアスファルトさえ削り取るようなロードノイズ。踏みつけられるたびにきしむサスペンションは、悪魔のうめき声のようだ。

 40km/h……ロードバイクでさえ少し速めに感じられる速度。


「空様。何か作戦はありますか?」

 ルリが振り返らず、後ろの空に聞く。空は首を横に振った。その動作を、ドロップハンドルの端につけたミラーで確認する。

「でしたら、私の作戦に乗ってください。悪いようにはしません」

「え?」

「私の見たところ、相手は優れた運動能力を持っています。いえ、何らかの興奮状態にあり、疲れを感じないのか……いずれにしても、このまま速度で逃げ切るのは難しいかと」

 ルリの言う通り、デスペナルティの体力は無尽蔵だ。どこからその肺活量が湧き、どうやってその筋力を維持しているのか、全く分からない。一見細身に見える体つきだが、そのコートの下には驚くほどの肉体を持っているに違いない。

「くぅっははははっ。もう覚悟はできたかな?……それじゃあ、速度を落とした方が良いぜ。軽い怪我で済むようになぁ!」

 デスペナルティの乗る漆黒のマウンテンルックが、前輪を跳ね上げる。ウィリーだ。それも漕ぎだしでまくることをしない、体重移動だけの高速ウィリー。

(重量のあるルック車を、あんなに軽々と!?)

 ルリが驚くのもつかの間、お尻を振るようにして後輪を横に流す。その場所に、相手の前輪が覆いかぶさってきた。どうやら前輪を乗せてからブレーキをかけ、ルリの後輪を止めるつもりだったらしい。

(ふぅん。初撃は避けたか。じゃあ、追撃だ)

 デスペナルティがハンドルを振って、ルリの後輪を横から叩きつける。その一瞬前に、ルリも動いていた。

(ジャックナイフ)

 フロントブレーキを一瞬だけロックしたルリは、そのまま後輪を浮かせる。こちらも走りながら、体重移動だけでハンドルを前に押す技法だ。

 その状態で横からの衝撃を受け流す。前輪を軸に半回転。

(ほう……それでも転ぶだろうけどさ)

 と、デスペナルティは思ったが、

(転びませんよ。このくらいでは)

 ルリはそのまま後輪を着地させる。車体は180°横回転した状態。そこから……


「ふっ……」


 地面に触れた後輪を軸に、今度はハンドルを引き上げる。いつの間に持ち替えたのか、ハンドルは前ではなくバーエンドの方を持っていた。

 そのまま同じ方向にもう180°ほど回転。前輪を地面につけると、進行方向に進ませる。

 デスペナルティの横殴りの攻撃も、前進していた自身の慣性も、すべてを回転でリセットし、再び走り出す。その一連の動作を終えたルリは、まるでトランプを切ったあとのカジノディーラーのような余裕の表情だ。

「いかがでしょう?」

 どれほどの衝撃を受けても、決して歪むことのないアイローネのクロモリフレーム。

 どれほどの危機にさらされても、決して崩れることのないルリの鋼鉄の精神。

 頭脳、技術、体力。どれをとっても、ルリに弱点は無い。

「驚いちゃったなぁ。俺が言うのも変だけど、BMXでもやってたの?」

「当店ではBMXも扱っております。もっとも、お取り寄せになってしまいますけどね。取り扱う車体くらいは乗っておかないと、店員として不安ですから」


(二人とも、凄い)

 空は少し後ろから、その二人の戦いを見ていた。まるで打ち合わせをしたかのようなパフォーマンスの応酬が、完全にアドリブで繰り広げられる。自転車に乗っているというような意識では出来ない。自転車が体の一部だと、真にそう言えなければ。

 何より、二人とも見た感じでは疲れているようにも、驚いているようにも見えない。仮面で顔を隠したデスペナルティはもちろん、ノーメイクで能面のようにふるまうルリもまた、演技派だった。

「空様。ブレーキロック」

「え?」

 ルリから急に呼ばれて、慌ててブレーキレバーを握る。TEKTROのVブレーキと、28Cのスリックタイヤ、そして雨にぬれた路面。それらは決してロックに適した状態ではなかったが、何とか止まる。

 その正面から、デスペナルティの後輪が近づいてきた。

「横へ」

「え?うわぁっ」

 とっさにハンドルをひねって、衝突を回避する。


(読まれたか。あの女、あなどれないな)

 ルリを狙う振りをして、急ブレーキ。それで後ろにいた空に追突させる作戦だったデスペナルティだが、当てが外れた。

(的が多い方がやりやすいんだが、今回ばかりはあの女が邪魔だ。どうにかならないかな……)

 考える。

 空を狙う振りをしてルリに攻撃を当てるか、

 ルリを追いやって空にぶつけるか、

 空を狙ってルリに割って入らせるか、

(どれも決め手に欠けるな)

 単に事故を起こすだけでも、真剣にやろうと思えばこれほど難しい。世の中の人間は『事故を起こさないのは難しい』と言うが、デスペナルティに言わせれば『事故を起こす方が難しい』のだった。

 だから、隙を伺う。

「なあ、休戦してお喋りしようぜ。くはははっ。俺はちょっと距離をとるからさ。それなら怖くないだろう?」

 こんな時は、こうして膠着状態にしてしまうのが一番いい。彼らもレース中である以上、コースから無暗に外れたり、意味もなく停止する行為は嫌うのだ。なら、走り続ける前提で『手を出さない』と約束するのは、その信頼度に関わらず効果的だ。


「空様、このまま時間を稼ぎつつ、隙をついて逃げましょう」

「それ、デスペナルティさんに聞こえるように言っていいんですか?」

「相手もそう読んでいるでしょうから。それに、戦いにおいては動きを止めるのが一番危険です。今更ペダルを止めるわけにはいきません」

 ルリが作戦を伝えて、巡行に戻る。

 さて、話題がないと時間稼ぎにも困るのだが、幸いにして自転車乗り共通の話題と言うのはもちろんある。

「その車体……SHINE WOOD FINISSですか。楽しそうな自転車をお持ちですね」

 ルリが言った。この愛車の話題というのは鉄板だ。

「ははっ!俺の車体を褒めてくれるのかい?ありがとう。でも安物だよ。……ところで、ルリちゃんは自転車店か何かで仕事してたことがあるかい?」

「……はい。どこかでお会いしたことがありましたか?」

「いやいや、無いよ全然。ただ、『楽しそうな自転車』ってのは、自転車店の店員が安物に対して言う皮肉のテンプレなんだよね」

 ルリにそのようなつもりは無かった。とはいえ、長いバイト経験で染みついた物言いはいくつかある。

 それでも、

「――私の友人にも、ピストのルック車に乗っている人がいます。それに、ママチャリを改造して使っている子も……そういった人たちも、十分楽しそうですよ。自転車は値段じゃないと思います」

 本心から、そう言う。

 ついでに、余計な一言も――

「ただ、そのフィニス……貴方に乗られているのが一番の不幸に見えますよ」



 どんな車体でも、大切に乗れば応えてくれる。それはルリにとって、最も強く信じていることだった。

 そして、彼女にはデスペナルティが、自分の自転車を大切にしない人間に見えたのだった。実際そうとしか思えないことをやってはいるのだが……

「くっ、くくくっ……ははははははははっ。わ、わらわっ、わら、わらわらららら笑わせんなあぁあぁあぁあ!!」

「!?」

 突然、彼の様子が変わった。今までのように距離をとった様子見ではない。突然の加速。そして追突狙いだ。

「空様。スピードアップ」

「分かってます」

 逃げるために、二人はケイデンスを上げる。ギアまで上げている暇がない。軽いギアから急発進した影響だろう。

 そこに、どこから取り出したのか、鉄パイプの一撃が迫る。


 ブゥン!


 ひと薙ぎされたその武器は、フィニスのシートポストだ。いつの間に抜いたのか、サドルを持ったまま振り回される。やや短いながらも金属の棒だ。当たればひとたまりもない。

「なあ、フィニス……俺とお前は一心同体。どんな時だって一緒だったよなぁ」

「……?」

 ルリも空も、その声が自分たちに向けたものでない事は理解した。デスペナルティも別に聞いてほしいわけではないらしい。先ほどまでのよく通る道化師のような声ではなく、喉を絞ったエッジボイスで言う。

「フィニスは俺の一部だ。いや、俺がフィニスの一部だ。だから、フィニスが行きたいところなら、どこまででも俺はペダルを漕ぐよ!」

 どうやら、自分の自転車に語り掛けているらしい。空も一人の時はよくやるし、ルリだって自分の車体に『アイちゃん』などと愛称をつけているので、その気持ちは解らないでもないが、

「フィニスがぶつかりたいなら、俺は喜んで、何にでもぶつかれるよ。さあ、目の前にはGIANTとGIOSだ。どっちを食いたい?……くぅははははは」


 いかれてる。

 ルリの本能が警告を出した。

(これは、関わってはいけない。会話さえ成立しない)

 と……


「空様。ひとまずコースアウトを狙いましょう。それから裏路地に逃げ込みます。このあたりの地理は?」

「え、えっと……分かりません。ごめんなさい」

 比較的近くに住んでいる空だが、さすがに県境を越えた先となれば行動範囲外である。日常でこんな場所まで来たことはない。

「なら、二手に分散します。私が後方でひきつけるので、空様は横に逸れてください」

「え?でも……」

「それで空様を追っていくなら、私が助かることになります。逆に私を追ってくるなら、空さんが助かることになります。賭けですね」

「そんな……」

 非情にも妥協にも思えるルリの提案だが、実は全くのイーブンでもなかった。空とルリのどちらが狙われやすいか……おそらくルリだ。先ほどの彼女の発言が、相手に火をつけてしまったのは間違いない。

(私のアイちゃんと、空様のエスケープ。どちらが速度を出せるかは、車体性能で一目瞭然。私が追われた方がいい)

 あとは、空をコースから追い出すだけだった。


「空様。コースアウトです!左へ」

「でも……」

「早く!」

 決断を急がせる。交差点はそんなに多く待ってくれない。

「でも、ルリさんをおいて逃げるなんて……」

「私ではなく、貴方を追う可能性もあります。だからこそ、お願い。分散して――」

 言い争っている場合でもない。すでにルリが狙った交差点を過ぎていた。その先には次の交差点も見えているが、300メートルほど先だ。


「コココクハハハハキシシシシギギギギギ……」


 既に人間の言葉さえ通じるかどうか分からないデスペナルティが……いやデスペナルティだったはずの何かが、再びサドルを持ち直す。車体をぶつけるのではなく、こうして直接殴り掛かってくるのも、彼にしてはそこそこ珍しい事だった。

「デスペナルティさん。やめて」

 空が呼びかける。

 何も出来ないまま、終わりたくない。

 自分だけ助かるなんて、そんなこともしたくない。

 でも……現実問題として何も出来ない。それが空を追い詰めていた。


「う、うわぁああ!」


 ルリとデスペナルティの間に、強引に割って入る。ルリを守りたい。目の前で誰かがやられるのを、もう見たくない。

 怖い。怖い、怖い……

 でも、逃げたくなかった。


「クハハハハァハハガハハハ……」


 フィニスの前輪が、空のエスケープの後輪を捕らえる。左からの衝突だ。フロントバンパーの代わりに取り付けられたバスケットステーが、エスケープのチェーンステーとぶつかって火花を飛ばす。

 それでも、ぶつかったのがフレームだったのは幸いだろう。後輪スポークに巻き込まれたら、それこそひとたまりも無かった。

(このまま抑え込む。そうすれば、ルリさんを助けられる)

 すぐ右には、ルリがいる。進行方向と空たちを交互に見て、心配そうに走る彼女。

「空様。危険です。離れて」

「もう無理です。ルリさんだけでも逃げて」

「……子供のくせに、頑固ですね」

 ルリが加速していく。そのまま距離を取ってくれれば、後は大丈夫なはずだ。振り返らず、そのまま遠くに行ってくれたらいい。

 そうしたら……

(あれ?)

 そうしたら、

(僕は)

 どうするんだっけ?


「クゥハハハハァ!!!」

「しまっ――」


 頭の上に、シートポストが振り下ろされる。食らったら命はない。

「――!」


「だから、私の言うとおりにしていれば……」

 前方にいたルリが、急ブレーキをかける。右クリートを外して、脚を後ろへ……

 アイローネの極端に短いシートポストのおかげで、ルリの右脚は後輪より後ろに伸ばせた。それを使って、フィニスのハンドルを蹴る。ルリに追突した形になるデスペナルティは、急激に速度を落とした。

 結果、空の頭上に振り下ろされるはずの一撃は、後ろに逸れる。エスケープのキャリアバックを叩いて、砂ぼこりを上げる。

「ルリさ……」


「ガァァァアアア!!」


 デスペナルティが、思いっきりペダルを踏みつけた。その勢いに押されて、今度はルリが前にはじき出される。




 すべてが、悪夢のようだった。




 前方に投げ出されたルリは、片足だけクリートで固定したまま、地面に倒れ込む。その場所は、空の目の前だった。

 同じ速度で走りながらの転倒。空には避けることが出来なかった。エスケープの前輪が、彼女の細い体を踏みつける。

 その感触は、28Cタイヤとアルミフォークを通じて、確かに空の手に伝わった。

(やだ……やだ!)

 アスファルトとは違う、柔らかな感触。車体がふらつくのは、倒れたルリの身体が転がったせいだろう。

 ルリのアイローネは、横倒しになってなお、まっすぐ地面を滑っていた。対するルリは、引きずられる形で上半身を転がしている。そして空の前輪が、それをずっしりと地面に押し付けていた。

 彼女の細い腰がねじれ、足首が反対側に曲がる。どこの関節が外れてこうなったのか、空には分からない。

 こんな時に限って、感覚は研ぎ澄まされていく。人間の生存本能がリミッターを切ったのだろう。今の空には、ミリ単位の振動も、刹那の衝撃も感知できる。

 体重のかかった後輪が、ルリの整った顔を押し潰した。きめ細かい頬を、細いタイヤが押し込んでいく。ヘルメットが割れて、細かい破片が飛び散った。


 時間にして、一瞬のことだったろう。


 空は体勢を立て直すと、着地後すぐにブレーキをかけて戻った。エスケープを寝かせて降りると、自分の両足で彼女に駆け寄る。

「ルリさん!!」


 デスペナルティも、くるりと反転して戻ってくる。こちらは心配などではなく、追撃が目的だ。自転車から降りることなく、二人を見下ろす。

「……空様。逃げてくだ……」

 言いかけたルリが、口から血を吐いた。先ほどの空の後輪で、口の中を切ったのだろう。それでも、視線は空をきちんと見ている。

 その視線は、次にデスペナルティに向いた。

「くぅーはぁー……ははっ。はははっ」

 まだ正気に戻らなそうな彼は、牙をむき出しにして笑う。

 ルリの目の前に、凶器が付きつけられた。

 それは、中央のすり減ったブロックタイヤ。まっすぐ向けられたサスペンションフォーク。まるで刃物のようなブレーキディスク。

 そのブレーキディスクを挟み込む、ブレーキキャリパー……


「デスペナルティさん。ブレーキパッド、交換時期です」

「……は?」

 こんな時に何の話をしているのだろう?その場にいる3人は、ルリも含めて困惑する。

 言ったルリ自身が、困惑しているのだ。今そんな話をする時じゃない。自分の身体を……特に痛む頭や、擦りむいた腕。そして感覚の無くなっている脚などを心配するときだろう。

 しかし、目に入るものの方が気になる。例えば、そのデスペナルティのフィニス。何度も衝突を繰り返した所為だけではない。ただ単純に長い距離を走り、様々な個所が摩耗している。

 だから、

「大切に乗ってあげてください。これからも……特に、メンテナンスは入念に。そうしたら、ルック車でも十分な性能を、発揮しますから……」


「アアアアアアッ!!」


 ルリの話を遮って、彼は前輪を振り下ろした。その一撃はルリ自身ではなく、彼女の乗っていたアイローネに当たる。

 クロモリ製のフレームにおいて、唯一カーボンで出来たフロントフォークが折れた。ルリが自ら組み上げた16本スポークのラジアル組ホイールも歪み、チューブレスレディタイヤがシーラントを噴き上げる。

「ハァ……ハァ……ク、クゥゥゥゥウウハハハ!」

 どうやら、それで彼は満足したらしい。再び向きを変えると、コースに戻っていく。先ほどまでの攻撃的な走りと違い、どこか虚ろで疲れたような走りだ。

「ルリさん……?」

 空はルリに呼び掛けたが、返事は無かった。こちらも疲れて眠ってしまったように、静かに目を閉じている。

 その頬には、一筋のタイヤ痕が、汚れとして付いていた。

 やがてそれは、ほんのりと色づいてくる。青く、黒く……

 空のタイヤ表面の、ヤスリ上の模様を浮かび上がらせていく。




 すべてが、悪夢のようだった。




 悪夢であれば、覚めてくれたはずだった。

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