第47話 もう一人のクロスバイク
山の中をひたすら進むような、攻略の難しい九州内陸部。
今、空たちはその中をひたすら進んでいた。
「アップダウンが細かくなってきたな」
「茜、こういうところ得意だよね」
「まあ、勝負中ならな。普通に走る分には疲れるぜ」
「あ、やっぱり僕だけじゃないんだ」
平地より山の方が、体力的には疲れる。それは当然だった。
「でも、気分的には楽しいよな」
「うん。刺激的だね」
精神的には、山の方が疲れないかもしれない。
多くの選手たちを混乱させたあの事件は、茜の復帰によって解決した。
最終的には多くの人が『せっかくだからフェアにスタートしたい』と願い、ミス・リードの『よーい、どん』で各車その場から再開したのである。
「ここまで期待されているんだから、頑張って応えないとな」
「うん。……どうやって?」
「どうやってって……そりゃお前、アタイらがみんなに片っ端から戦いを挑んで、真っ向から勝って行くんだよ。それしかないだろう」
「あ、そうだよね。ははは……」
変なの。と空は思った。
せっかく仲間としての絆を認識できて、みんなで同じ目標を目指せた。心が一つに繋がった話だった。なのに、茜はそれを再び戦いに持ち込もうとしている。
いや、違う。
(みんな、戦いたいって目標を言っただけだもんね)
できれば全員で優勝したい。そう空は願っていた。
同時に、それは誰一人として喜ばないだろうことも、今の空は分かっていた。
「あ、自販機があるよ。休憩しよう」
「そういや、前の休憩からずいぶん走ったな」
茜がボトルを逆さにして握る。確かに中身はもう無い。
「よし。ちょっと座って休むか」
「うん」
雨が降ってきたが、どのみち屋根のあるところは近くに無い。こうなれば雨宿りを求めて街に向かうより、濡れる覚悟をした方が良いだろう。
その自販機には、先客がいた。どうやら空たちと同じように、休憩しに来ていたらしい。大学生くらいの二人組だ。
「こ、こんにちは」
空がおずおずと挨拶する。茜もそれに続いて手を振って見せた。
相手の二人組も、談笑を中断して視線をこちらに向ける。
「よう、こんにちは」
一人は、短髪の青年だった。パッと見せる笑顔と白い歯が印象的な、いかにも爽やかスポーツマンといった雰囲気の男だ。膝まで隠れるレーシングビブと、身体にぴったり張り付く半袖ジャージを着用している。ヘルメットは傍らに置いていた。
もう一人は……
「いらっしゃ……いえ、こんにちは」
短髪の女性だった。左側頭部の髪だけを編み込んだアシンメトリに、少しきつそうな目つき。太ももの中ほどまでのレーシングパンツに、やはりぴったり張り付く半袖ジャージとアームカバー。
(……あれ?この二人、どこかで会ったような気が)
と空は思ったが、二人の顔を見ても恰好を見ても、やはり会った記憶がない。初めて話をする人だと思うが、初めてな気がしない。何故だろうか。
青年は、隣の女性に言う。
「おいおい、ルリ。今『いらっしゃいませ』って言おうとしたろ」
「い、いえ。普通にこんにちはと言いました。アキラ様の聞き間違いです」
女性はそう弁明して、男から目を背けた。
(ルリ……さん。それに、アキラさん)
やっぱり聞いたことのない名前だったが、
(あ、)
声の質で、ようやく思い出す。
「もしかして、サファイアさんと、エメラルドさん?」
その二人は、3日ほど前に空がスポークを折ったときに、最寄りの自転車屋を紹介してくれた電話の主だった。
「改めまして、私がサファイアこと、
「俺は
雨が強くなってくる中、もうすっかり濡れることを気にしないのだろう二人は平然としていた。なんとなくだが、話しやすそうな雰囲気をまとっている。特にアキラと名乗った方。
「えっと、僕は空。こっちが茜です。その節はありがとうございました」
「いえ。お礼は要りません。私たちは何もしていませんよ」
「本当にな。ほとんどユイのおかげだし」
自販機横のベンチに、アキラ、空、茜と詰めて並ぶ。ベンチはそんなに小さくはないが、それでも3人座るとそこそこだ。
そんな中、一人立つことを選んだルリは、缶コーヒーを傾けながら天気予報を見ていた。
「アキラ様。今日はこのまま日付が変わるまで、雨は止みそうにありません。健康への影響も懸念されますし、街まで行ったらすぐ宿をとりましょう」
「そうか。ちなみに、市街地まではどのくらいあるんだ?」
「正確な情報はミス・リードに問い合わせないと解りませんが、おそらく50km程度。アキラ様なら2時間程度で巡行可能かと思います」
「そっか。ならしょうがないな。今日は早めに切り上げるか」
二人がそんな会話を交わしている中、空と茜はさすがに気になってきた。
「あ、あのさ。二人とも、どんな関係なんだ?その……さっきから『アキラ様』『ルリ』って、片や様付けで片や呼び捨てって」
「それに、ルリさんはアキラさんに敬語ですし、妙に丁寧ですし……」
ディオとチビ助を思い出す。彼らはお互いに依存しあうような従属関係に見えたが、この二人は……
「顔見知り以上、恋人未満です」
「なあ、ルリ。それじゃあ俺たちただの友達になっちゃうんだけど」
「では、未来の恋人です」
「それじゃあ今は何なんだって話になるんだが?」
「……では知人で」
「えー」
ルリの説明になってない説明に、アキラも突っ込みを入れるだけで終わる。つまり、どちらも説明してくれない。
「えっと、深くは聞かないほうがいいですか?」
「ま、そうだな。気にしない方が良いのかもしれない」
アキラは説明が面倒臭くなったのか、それともこれ以上の誤解を招くことを恐れたか、さらりと話を終わらせた。
傍らに立てかけてあったロードバイクに、ルリが手をかける。その車体が彼女のものであるようだ。
青いフレームに、細いタイヤ。全体的に華奢である。
「それ、ずいぶん細いフレームですね。壊れないんですか?」
空が訊くと、ルリはすっと頷いた。
「ええ。このアイちゃ……こほん。GIOS
無表情ながらも、少し自慢げに見えるルリ。少し身体を逸らせたせいだろう。
茜は薄い唇からコーヒーの缶を離して、立ち上がる。
「クロモリか。比重は重いって聞くけどな」
「ええ。ですが、パイプの細さ次第で車重も変わります。もちろん、タイヤの太さやブレーキの種類でも、ですね」
「アタイに言わせれば、アーチ状のパイプを使ったアルミフレームの方が狙った通りにしなるぜ。縦方向にだけ、な」
「確かに、ホリゾンタルフレームは横方向へのしなり感も大きいですね。乗りこなせるのは私のようなライダーに限定されるかと」
二人の間でバチバチと火花が散る。
(あ、これ茜なりの勝負の前触れだ)
狙って相手を挑発しているのか、それとも単に自転車にこだわりがある為か、茜は時々こうして露骨に喧嘩を売ることがある。
「アタイのクロスファイアと、あんたのアイローネ。どっちが速いんだろうな?勝負だ」
茜が戦いを突きつけた。それに対して、ルリが目を細める。
「お断りします」
「え?」
「いえ、雨も降ってきましたので、私の車体ではスリップする確率が増えます。それに、この条件ならキャリパーブレーキも信頼性が落ちますので」
「え?……え?」
「そういう意味では、茜さんのメカニカルディスクブレーキが羨ましい所でもあります。重量が重いとはいえ、天候に左右されない制動力を持ちますからね。さすがシクロクロス」
「あ、ああ……そう、だな」
「これからはロードもディスク中心の時代が来ると言われています。グラベルロードやロードプラスも人気ですからね。茜さんの見立ても正しいと言えます。そのクロスファイア、素晴らしい車体だと思いますよ」
「あ、ありがとう……」
一転して茜をべた褒めするルリに、茜もすっかり毒気を抜かれてしまった。なんというか、褒めてほしいところをズバリと褒めてくれる。
「ルリは基本的に、車体の良いところを探すのが得意だからな」
「いいえ、アキラ様。そもそも車体にあるのは長所や短所ではなく、個性です。もちろん、整備不良などは話になりませんが、そうでなければどれも美しいですよ」
その表情こそ変わらなかった彼女だが、言葉は誠実さが垣間見えた。
「それじゃあ、アタイの今日最後の勝負相手は無しか。んー、なんか物足りないな」
最近、一日で遭遇する敵が減っている気がする。いや、目に見えて減っている。単純に、リタイアする選手が増えたことと、日数を重ねるごとに差が開いているのが原因だろう。
そんな茜を見て、アキラがぽんっと膝を打った。
「よし!それなら俺と勝負するかい?二人とも」
「え?アキラさんが?」
彼は乗り気らしい。なんだか心なしか楽しそうだ。
「ダメです。アキラ様の疲労度やテクニックから計算すれば、あまり推奨できません」
ルリが、それを遮った。
「なんだよルリ。ちょっとくらい遊びに付き合ったっていいだろ」
「アキラ様にとって遊びでも、他の選手にとっては大事な場面かもしれないでしょう。それに、アキラ様が遊びと言ったあと本気になった試しは数知れません」
「遊びは真剣にやらないと楽しくないからな。それに俺のBianchi
と、アキラは自らのクロスバイクを指さした。
艶消しのチェレステカラーに、shimano Tiagraのトリガーシフターと油圧式ブレーキ。クロスバイクと一口に言っても、空の乗るエスケープとはずいぶん趣が違う。ちなみに値段も2倍ほど違う。
「なるほど。アタイとしても相手にとって不足はないな」
茜が楽しそうに立ち上がった。
「決まりだな。じゃあ市街地まで勝負だ。えっと、50kmだっけ?」
アキラもヘルメットを被る。もう二人ともやる気満々だ。
「……解りました。アキラ様はそのまま宿をとっていてください。私も後から合流します」
ルリも休憩は終わりとばかりに、飲んでいたコーヒーの缶を放り捨てる。
「それじゃあ、僕もルリさんと一緒に走って、後から合流でいいかな?」
「空も?」
「うん。ちょっと疲れちゃったからさ」
今朝のこともある。茜の父が乗る自動車に追い付くのは、空と言えども大変だった。
いつものようにミス・リードに連絡して、いつものように合図を貰う。茜とアキラがスタートしたのは、ほぼ同時だった。すぐにギアを上げたのは茜。続いてアキラが、やや前輪をブレさせて付いていく。
(今、アキラさんの車体が浮いたな。スタートでまくれたか……素人?)
どうもこのアキラという男。体力はありそうだがフォームが荒い。まだ腰を使ったペダリングが出来ていないし、足首による引き足も下手くそだ。
「アキラさんよ。もう少しペダルを前後に振る意識で回してみな。あまりにも踏み込みすぎだぜ」
「ああ、ルリにもよく言われるぜ。でも一朝一夕にできるものでもないって言われた。ちょっとずつ改善していくよ」
「失礼だけど、アキラさんのクロスバイク歴は?」
「去年の5月からさ。ビンディングシューズに至っては10月にようやく買った」
「ふーん」
勝った。と、茜はこの時点で確信する。コースはやや下り坂。こういう場所では、ペダリングの自力よりテクニックがものを言う。コーナリングの仕方や、空力抵抗の減らし方。すべて茜の方が上だ。
「そ、それじゃあ僕たちも、行きましょうか」
遅れて、空たちも自転車に向かう。あまりスタート時間が近すぎて茜たちに追い付いても気まずいが、遅れすぎて待たせても悪い。
「ああ、思い出しました。空様」
「え?な、なん……ですか?」
「出発前に、少し抜いていきませんか?」
「え?」
ルリがすっと、空に歩み寄った。こうして見れば、意外にもルリは空と同じくらいか、若干小さい程度の身長しかない。
「実は、空様たちがこの自動販売機に到着する前に、少しアキラ様のも抜いていたんです。パンパンに膨らんでいて、苦しそうだったので……」
「え?ええっ!」
空の顔の前に、ルリが手を出す。握った手の親指をぴょこぴょこさせるジェスチャー。細い指が、とても綺麗だった。
「空様も、少し出したら、楽になりますよ。私も気持ちよくなりたいですし」
「え。えっと……えっと……」
近い。
ルリのジャージの、少し開いたファスナー。その隙間から、健康的な色の肌が覗く。日焼けしているわけでもなく、それでも白過ぎない黄色の肌が、谷間にオレンジ色の影を落とす。
「こんなに濡れてしまっているのですから……大丈夫。私に任せてください。こう見えて私、経験豊富なんです」
「そ、そんな、あのっ」
「濡れた路面はスリップしやすいので、タイヤの空気、少しだけ抜いてから行きましょう」
「……タイヤの空気?」
「ええ。10psiほど、いかがですか?」
「……お願いします」
先ほどの様付けの話もそうだが、アキラの苦労が何となくわかる。彼女は自覚が無いのだろうが、ちょいちょい振りまく色香と内面がかみ合っていない。
「くっそぉぉぉおお!なんで追い付けないんだよ!」
アキラがぐんぐんとハンドルを引きつけて、ペダルを踏み込む。登りならともかく、下りでそこまで上体を起こして力を入れるのは愚策だ。一方の茜は慣れたもので、身体を伏せて走っている。その感覚は5メートルほどまでに広がっていた。
(つーか、ここまでムキになるのかよ)
こうなってしまえば、ペースコントロールも楽なものである。相手は本気になればなるほど力任せに走る性格のようだ。
(これ、ほどほどの距離感を保ちながら走ってたら、アキラさんが勝手にバテてくれるんじゃないか?)
茜に余裕が生まれた。そんな中、
『アキラ様、聞こえますか?』
アキラのイヤホンに、ルリからの通信が入った。
「ルリ。大丈夫か?遅かったから心配したぞ」
『空様のを抜いておりました。途中、少し失敗して手がぬるぬるになってしまいまして……ちょっと顔も汚れてしまったかもしれません』
「ああ、後輪の空気を抜く時に、間違ってチェーンを触っちゃったんだな。お前ホント饒舌なくせに言葉足らずだよな」
『わざとです。アキラ様が嫉妬してくださったら嬉しいので』
「わざとかよ!?そして中学生のガキにいちいち嫉妬するか!」
そのやり取りの中で、ルリはアキラの息遣いを確認する。それからヘルメットに取り付けたGoProの映像をリアルタイムで確認。そのブレから、状況を理解する。
『アキラ様。呼吸を整えて、サドルに座ってください。ギアを2段落として、脚を休ませてください』
「お、おう。解った」
(なんだ?)
後ろを気にしていた茜は、アキラの様子が変わったことに気づいた。
先ほどまでの効率の悪い走り方ではない、適正なギアの選択。上半身の倒し加減や、腕への荷重のかけかた。それぞれが順に、適切になっていく。
(急に冷静になりやがったか。アタイの見立てが外れたな)
予想外の追撃に、茜も本気になった。そこにコーナリング。後ろばかり気を取られていた茜が、とっさにドリフトする。
一方、アキラは違う。
『左ブレーキ。後ろ加重。アウト・イン・アウト。そして……』
「スローイン・ファストアウトだろ。解ったよ」
何度も聞かされた合言葉のようなセリフを、アキラは覚えている。もっとも、思い出すためにはルリに言われないといけないが。
『持ち直すとき、上体を起こしてください』
「なんで?」
『ギアを下げ忘れています。その状態では、次の加速でトルクが必要になります』
「あ、しまった」
ブレーキをかけてから気づいても遅い。しかし、その中で最善から二番目の作戦を、この一瞬でルリは伝えきっていた。
「ぜりゃあ!」
1漕ぎ、2漕ぎ、3漕ぎ……たった3回踏みつけただけで、十分な速度まで上げていく。当然、体力も大きく消費したが、
『アキラ様の体力であれば、まだいくらでも挽回できます。回復が早いのはアキラ様の長所です。私が見たところ、そこは茜さんにも負けてません』
(凄い早口……)
隣で聞いていた空は、驚いていた。ルリは今、アイローネを乗りこなしながら電話をしているのだ。それもハンドルバーについたスマホホルダーと、雨で視界の悪い前方確認を同時にしつつ……
(ただでさえ息が切れそうなほどのマシンガントーク。それなのに、ペダリングも止めないなんて……)
圧倒的な肺活量……だけではない。最小限の呼吸で喋る技術。そして息を吸いながら吐く方法の習得。普通に自転車に乗っているだけでは身につかない技術を、彼女は間違いなく持っていた。
「ああ、空様。失礼しました。せっかくご一緒させていただいているのに、アキラ様の方ばかりでしたね」
「あ、いえ」
急に話を振られた空は、何を話せばいいのか分からなくなって迷う。一方で話題を適当に作るのは、ルリの方が得意だった。
「そういえば、今朝はご苦労様でした」
「今朝?」
「ええ。茜さんの事件です。ご両親を追いかけて説得したのでしょう?」
「あ、ああ。それですか。皆さんにご協力いただいたので、この通り」
「ふふっ。それなら、私たちも協力した甲斐があります」
どうやら、ルリ達もあのボイコットに一枚噛んでいたらしい。
「えっと、すみません。足止めしてしまったみたいになっちゃって……」
「いえ。大丈夫です。私たちの目的は優勝ではなく完走。もっと言えば、アキラ様が楽しんでくだされば良いのですから」
そのために、ルリはずっとアキラのペース配分を見ていた。いや、決定していた。例え思い出作りのために出場したとしても、せめて完走くらいは与えてやりたかったからだ。
「空さんたちは、やっぱり優勝を狙うのですか?」
「え?あ、僕は……」
そういえば、どうだっただろう?
もともと、空の父には『楽しんでくる』と言って参加したこの大会。選手のモチベーションに差があることも、自分がその中でも低い目標しか立てていなかったことも、空自身がよく解っている。
それでも、楽しんでくる。それが一番の目的だったはずで、勝ち負けなんか気にしなかったはずで……それでも、
(うん。このくらいは言っても、大丈夫だよね)
誰に失礼なわけでもない。それでも言うのが少し恥ずかしい。そんな目標を、空は新たに掲げる。
「茜を優勝させたい、です」
そんな彼の目標を、ルリは笑わなかった。
「茜さんの事、好きなんですね」
「え!?ええっ……と、それは、あのっ。その」
「ああ、その反応。本人には伝えてないんですね。大丈夫ですよ。私は守秘義務と個人情報は守る主義です。……それとも、伝えた方が良いですか?」
からかうようなルリの態度に、空も少しむーっとする。
「そ……そう言うルリさんは、アキラさんのこと、どう思っているんですか?」
空にしては精いっぱいの反抗。見事なカウンター(と自分では思っている)が炸裂した。
結果は、
「そうですね……私はアキラ様を愛しています」
「えっ!?」
「心外ですね。一応、私たちは付き合っている事になっています。――いえ、正確には『付き合う予定になっている』と言いましょうか。とにかく、私がアキラ様を好きでいるのは変なことじゃないんですよ」
少し、ルリの頬に赤みがさす。太陽のようなオレンジ色の顔を伏せた彼女は、それでも聞き取りやすい声を崩さずに言い切った。
「アキラ様が望むなら、私は全てをアキラ様に捧げても、いいんですけどね。……あ、これは本人には内緒ですよ。代わりに、空様が茜様を好いている事も、内緒にしておきますので」
「なっ!……僕のは違いますよ。茜は、そんなんじゃなくて」
「そんなんじゃなくて?」
「と、友達なんです。大切で、一緒にいると元気になれて、僕が何も気にしないで一緒にいられるような……だから、これからも友達なんです」
友達じゃなくなる関係を、空は望んでなかった。
茜と例えば――あくまで例えばだが、キスしたり、抱き合ったり――それで楽しくなれるかどうか分からないし、もし気持ち悪がられたり嫌われたりすれば最悪だ。
でも、こうして一緒に自転車に乗ったり、いろんなところを見て回ったり、おしゃべりしたり、泊まったり――男女の関係じゃなくて構わないような体験は、彼にとって楽しかった。茜も同じように考えているだろう。
(うーん。この年頃の子供に、恋の話はまだ早かったようですね)
と、ルリはしたり顔で思う。まるで昔の自分を見ているよう……と言えば、ルリの見栄っ張りになる。実際にはルリだって、ついこの間まで似たようなものだった。
「さて、それでは面白い話も出来ましたし、そろそろ私はアキラ様の様子でも……」
そう言って、スマホに目を落としたルリは、
「あ」
オレンジ色に染まっていた頬を、真っ白に塗り替えるのだった。
(通話切り忘れてんぞルリーっ!!)
と、言うに言えず黙っていたアキラが、顔を烈火のごとく熱くしていた。その姿たるや、
「だ、大丈夫か?アキラさん。もしかして病気か?熱でもあるのか」
茜が体調を気遣うほどである。ちなみに、病名は恋の病とでも診断しておけばいい。
「いや、大丈夫。俺はちょっと本気を出すと顔が赤くなるんだ」
「な、難儀だな」
アキラのイヤホンからは、ルリの超絶マシンガントークが炸裂している。彼女が自転車を語るときか、もしくは照れ隠しをするときはいつもこうだ。
「さあ、勝負再開と行くか。茜ちゃん」
「え?ああ、アキラさんの体調が大丈夫ならな」
下りを終えて平地。そして短い上り坂へと移る。茜はドロップハンドルの下を握り、ギアを変えずに力任せにペダリング。アキラもフラットバーの特性を生かして、車体を大きく横に振る。
『アキラ様。雨の中で視界が悪いかと思われます。マンホールなどを踏まないように気を付けてください。また、路面を流れる水流のせいで、体感速度が変化します。実感より計器を信頼してください』
「解ったよ」
『冠水している個所では、路面の凹凸が分かりにくくなります。特に日没後は危険です』
「ああ、それも心得てるさ」
ルリのマシンガントークは止まらないが、アキラもそれにしっかりと追従する。
指示をする側の知識だけでなく、
指示を受ける側の判断力も試される局面。
アキラは――
『前方グレーチング。やや斜めに侵入』
「ほっ!はぁっ!!」
その実力が十分に備わっていた。
『下り、頭下げて。その後の加速は緩やかに。ウィリーに注意』
(あいよ)
『左ターン、集中。ペダルを止めて』
(分かった)
『右カーブ。ギア下げてペダリング。ギア戻して』
(お、そっちのパターンか)
『ダンシング。川あり。橋の継ぎ目スリップ』
(おっと、確かに危ない)
『ブレーキは要りません』
(え?そうなの?)
茜が後輪を滑らせて減速する中、アキラは加速したまま橋を超える。ついにアキラが茜を抜いた。
(すげぇなアキラさん。まるで踊ってるみたいだ)
たった一人で走っているはずなのに、二人で手を取り合っているような走り方。2×10段のギアも、扱いの難しい油圧式ブレーキも、全てを完璧なバランスで使いこなす。その姿は、茜から見ても美しく見えた。
(いつだってそうだよな。ルリ……お前はいつも俺に、いろいろ教えてくれる)
アキラとルリの関係は、もともと端的に言えば『自転車店の客と店員』だった。ルリがアキラを様付けで呼ぶのは、そのころの付き合いからだ。
(スポーツバイクを勧めてくれたのも、車体選びに付き合ってくれたのも、サイクリングロードで乗り方を教えてくれたのも、全部ルリだ)
いつしか、ただの店員に対して思うそれではない感情を、アキラは抱えるようになった。相手が美少女だったから、というのもあるだろうが、それだけではない。
(待ってろ、ルリ。俺がどれほど成長したか見せてやる。お前の期待以上に、だ)
『ゴールまであと1kmですぅ!ラストスパートですねぇ。
今までペース配分に気を使ってきたおかげか、アキラさんの速度が落ちません。これは今日のこの瞬間だけに限った話ではなく、レース15日を通しての事ですねぇ。もう、こんなにいっぱい溜まってたんですかぁ?遅漏ですねぇ。ふふふふ……
一方の茜さんは……こちらも加速!?まだカロリーに余裕があるんでしょうかぁ?それとも今日だけで明日の分の体力まで使い果たす気でしょうか?そんなに激しくしたら、明日は腰が痛くて立ち上がれなくなっちゃいますよぉ!』
ミス・リードが言うとおり、この後は平地で直線。そのまま暫定的に作られたゴールラインを通過することになる。
この局面において、ルリの指示はシンプルだった。
『アキラ様。もう私の方から言えることはありません。残った力を全て出してください』
「よし。ここで本気だな」
『はい。私は忙しくなってきたので、通信を終了します』
「サンキュー」
勝負の最後は、気合と余力だけで決まる。
「うぉりゃぁあ!」
アキラが急に、ペダリングを変えた。車体のブレを気にすることなく、エネルギーを大きく消費してでも加速する方法。彼自身がもともと得意としていた走り方だ。それまでの綺麗さと裏腹に、荒々しく、猛々しい。
それを見て、茜は口角を上げた。
(なーんだ。そんな走り方もできるんじゃないか)
もともと、茜は綺麗なものが嫌いだ。すかした走り方をする人より、顔真っ赤にしてムキになる奴の方がよほど好きである。別にそれが勝利への執着じゃなくてもいい。人生を賭けた大一番じゃなくてもいい。
ただ、この瞬間だけは向き合ってほしいのだ。
自分と、一対一で。
(アタイが本気になる価値が、アキラさんにはある!)
「はぁぁぁああああ!」
茜が、アキラに追い付く。しかしトップスピードならアキラも負けていない。
一進一退の意地の張り合い。お互いに相手がわずかでもリードしたなら、それをすぐに挽回する。今サイコンを見れば、二人とも最大瞬間時速の自己ベストを更新していただろう。
『ゴール!!
結果は写真判定になりそうですよぉ。最後の方なんか75km/hは……いえ、80km/h近くは出てたんじゃないですかぁ?まあその辺も写真判定と一緒に計測しましょうねぇ。
おっと、アキラさんがゴール過ぎで転倒!?……ただの立ちゴケですねぇ。ビンディングシューズも外せないほど本気出したんですかぁ?』
ミス・リードが忙しそうに話す。実はもう一件、同時刻に実況したい出来事があるのだが、今はそれよりも結果を茜たちに伝えないといけない。
『結果ですが――出ましたぁ!茜さんの勝利ですぅ!』
「アタイの勝ちだな。アキラさん」
「あーっ、くそ。ダメだったか」
アキラが立ち上がり、外れたイヤホンを拾う。そのまま耳にはめようとしたが、
「ん?あれ?壊れてる……」
この手のワイヤレスイヤホンは衝撃に弱い。落車時に外れてしまったら、壊れてしまうのも不思議ではないだろう。
「大丈夫か?」
「ああ、まあいいさ。どうせ大した金額のもんでもないし、ちょうどもっと高音質なフルワイヤレスに買い替えようと思ってたし……それより服が濡れちまった方が気になるな」
どちらにしても、負けたことについてはあまり気にしていないらしい。
「さて、ルリと空君の到着を待つか。どっか休める店でも行くか?」
「いや、アタイも濡れちゃってるし、なんか入りづらいぜ。それより宿でも検索して休もう。……宿も大会協賛のところだといいな」
「ああ、宿にも入りづらいもんな」
それを言えば喫茶店やレストランだって協賛店はあるはずだが、やはり濡れたまま席に座るというのが抵抗あるのだろう。
「まあ、それじゃあ道端に立ったままになるけど、ルリたちを待つか」
アキラが言うと、茜もイヤホンを外した。
「そうだな。ちょっと喋っているうちに来るだろ」
「茜ちゃんは、やっぱ優勝を目指すのか?」
「もちろんだ」
アキラの問いかけに、茜は即答する。
「そういうアキラさんは?アタイが見た限り、あんたも優勝を狙える位置と実力持っていると思うけどな」
「いや、俺はルリと一緒に完走さえできれば、それで十分だよ。賞金300万円は欲しいけどな」
「金かよ」
茜が笑うと、アキラも手を振って「冗談だ」と笑った。どうやら優勝を考えていないのは本音らしい。
「完走したらさ。ルリに告白しようって思ってるんだ」
「へぇー……って、まだ付き合ってなかったのかよ」
「まあ、これルリには『完走したら告白させてくれ』って言ってあるんだけどな」
「あっはははっ。なんだそれ?」
「ちなみにOKも予約してあるぞ」
「あんたら、もう付き合っちゃえよ」
そんな話題に花を咲かせること、もうかれこれ30分。
(おかしいな。ルリのやつ遅くないか?)
もう合流してもいい頃――などとっくに過ぎて、何かあったなら連絡くらいしてくれてもいい頃だ。空も同様に。
アキラはスマホを見るが、やっぱり何の連絡も来ていない。むしろこちらから連絡を入れた方が良いかと思い始めるころだ。
「彼女さんの様子が気になるのか?」
茜が訊く。
「あ、ああ、まあな」
「それなら、ミス・リードに確認してみれば分かるだろ」
茜がさっと自分のスマホを使い、ミスり速報を起動する。その時に耳に入ったのは、あまり聞きたくない情報だった。
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